2007年09月14日
BLOGリニューアルしました
2007年9月14日で、このBLOGの更新を止め、新しいところに移動します。
このサイトはしばらくそのまま置いておこうと思います。既に400を超える私の「日記」が入っています。これは自分の生きてきた記録でもあるわけで。。。
今後とも新しいところでよろしくお願い申し上げます。
投稿者 nori-m : 18:00 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月11日
各種学校と大学
各種学校は、いわゆる高校のその先にある進学先として、日本では、大学よりも一段下に見られている。
でも、いま大学は教授会があり、理事会があり、それぞれがそれぞれに権限をもっていたりして、それでいてだれも責任を取らなかったりして、新しいことはなにもできない、という状態にあるところがとても多い。
対して、各種学校は、たいていがその創立者の一族がほとんどの権限を握る、同族企業のようなところが多い。
しかし、少子化というこの現実を目の前にして、各種学校はその経営者一族が必死の防戦を試みているところが多い。こういう「戦時」には、小回りのきく学校経営ができる各種学校のほうが、ひょっとしてかなり有利になる可能性がとても高い。
大学、という「権威」が、そこにあぐらをかいていられなくなったのだ。
今でも、IT系の学生を見ていると、各種学校ではないが、工業高等専門学校生のほうが、明らかに大学や大学院の学生よりもはるかに優秀な人間を多く見るようになった。
各種学校の中には、ケンブリッジ大学の大学院などに学生を送り込むほどのところも出てきた。その学校では、観光関係の学科で、毎年TOEICの試験を行うとのことだが、入学時には300点ほどだった生徒が、最高で900点まで伸びたこともあった、という。そこまでではなくとも、ほとんどの学生がこれらの英語試験の点数を数百点単位で上げている。
学生を集める、ということ。学生に高い能力をつける、ということ。この「即戦力」となる「学生」を作ることばかりが「学問」ではないけれども、その「学問」の世界でも、各種学校の伸びは、世界でめざましいものがあるのだ。
しばらくすると、「ぼくは成績が悪くて、各種学校に行けなくてね。。。仕方なく大学に入ったんだ」なんて学生も出てくるかもしれない。
生きる道を探す必死の努力をする各種学校。まだまだ大丈夫だ、と思っている大学。ウサギとカメのたとえもある。これから、世の中の価値がどうひっくり返るか?面白い世の中になったものだ。
そういえば、よくIT業界で聞く「マサチューセッツ工科大学」「MIT(Massachusetts Institute of Technology)」は、そのまま日本語にすると、「大学」という単語はない。私立のInstitute(研究所)だ。CollegeでもUniversityでもない。つまり研究所が学生をとっている、ということになる。日本ではこういうのは各種学校扱いになるところかもしれない。
そして、大学はむしろ「研究所」として、世の中の基礎となる「即戦力」ではない、学問をするところとして生きられるようにするべきではないだろうか?そういう仕事だって、もちろん世の中には必要なのだ。
即戦力を養成するための教育機関としての「大学」は、既に大学の本来の意味からすれば「外道」なのかも知れない。故遠山啓先生によれば「学校には自動車学校型」と「劇場型」の2種類がある、ということだ。つまり、「自動車学校型」は即戦力を養成するための教育機関。そして「劇場型」は、すぐには役に立たないかも知れないことを研究し、教育するところだ、というのだ。
そして、この「自動車学校型」は、各種学校にすべて持って行き、「劇場型」は、大学がその役割を担う、ということが美しいのではないだろうか?
投稿者 nori-m : 21:50 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月10日
粘着くんはどこにでもいる
オーマイニュースの「市民記者編集委員」になった。その筆頭で、最初の「オーマイニュース記事評」を書いた。が、そこのコメント欄に、「天元」という人が、匿名で攻撃に来ている。ずいぶん前の記事(それも、このコメントがついている記事とはなんの関係もない)を引き合いに出して、なんとしてでも、コイツをつぶしてやろう、という意気が満々である(笑)。
いや、途中まではこちらもまともに対応していたのだが、どうも様子がちがう、と、途中で気がついた。なにを言っても、あれこれ理屈をつけては「オマエは間違いを認めろ」しか言わないのだ。話している相手の「考え方の違い」「見方の違い」というのをまるで認めようとしない。自分の主張だけを繰り返し、「オマエはあやまれ」としか言わない。なんだか気持ち悪くなってきた。
ついでに、記事とは違う内容でのコメントなので、あまりこれが長くなると、見ている人たちにも迷惑だから、ということで、こちらのBLOGに誘導して差し上げたのだが、これには一向に乗ってくる気配がない。これまでもいろいろな人が同じような「攻撃」をしてきたけど、その中のちゃんとした人たちは、きちんとこの趣旨をわかって、こちらのBLOGに来ていた。でも、今回はその気配がないから、おそらく「攻撃のための攻撃」でしかないんだろうと、勝手に想像している。ここはアフィリエイトなんか全然やってないBLOGだし、完全に個人サーバだからランキングも関係なし。だから、来てもせいぜいがアクセスログが残るくらいだから、来てもどうってことはないのに。
だいたい、名前が「天元」。つまり私の名前の「典玄」をパロディにしたものらしい。匿名の臆病者。不真面目な態度、そして、私だけを標的にしている、というこの粘着はこの名前だけで明らかだ。「いや、これは囲碁で使われている名前で。。」などと、言い訳にいそしんでいるようだが、まぁ、普通こんなのは「後付け」でGoogleあたりで探してきたんだろう、としか思えない。普通はね。
なーんて言っても、向こうは匿名。こちらは実名。まともに相手をするほどのことは、普通はない。まぁ、暇なうちは相手にしてあげるから、こちらで続きをどうぞ。
こういうことは、毎度のことなので、もう飽きてしまった、というところもあるのだが、まぁ、書いておいてあげよう。こういう「記事」なんかでの論争を楽しむ、暇な人たちも多いみたいだしね。
---
1947年の歌である「星の流れに」は、「谷まゆみ」は、「オリジナルの歌手ではない」それを認めろ、そうでないと、オーマイニュースの市民記者はみんな同じだと思っちゃうぞ!みたいな、幼稚な攻撃が執拗に続いているが、はぁ、この人はネットの情報だけで世の中のすべてができてると思っている、幸せな引きこもりなんだなぁ、というしかない。
ネットの情報のけっこう最初のほうに、「星の流れに」を最初に歌ったわけではない歌手である「谷まゆみ」が出てくる根拠は、ではいったいなんだろうか?それも、記事中ではカッコの中に「歌:谷まゆみ」と書いてあるだけ。この人が最初の歌手であるかどうか?ということは書いていない。多くの歌手が歌ったこの歌の、歌手の一人を書いたわけだから、「間違い」ではない。
答えはわかっているのだが、ここのところは天元くんの勉強のための宿題にしておこう。
そして、この歌手の名前が出てくるところは、当該記事のたった1箇所だけ。誰が歌おうと、あまり関係ないが、とりあえずこの中で知られた歌手であろうと思われる人の名前を出した。その部分は本文のところではなく、また、誰が歌っていても記事の趣旨ともまるで関係が無い場所だ。
(歌:谷 真酉美、作詩:清水みのる、作曲:利根一郎)
歌の引用の最後に、こう書いてある。この部分だけだ。
このクレジットは著作権法で「引用」の要件を満たすために書かれた部分であって、この歌を歌った歌手はそのいずれもの人が「二次著作権」を持っているから、ここの歌手名は誰でもよかった、という部分である。
全体の文脈を全く無視して、文脈とはまるで関係のない小さな部分だけを取り上げ、「重箱の隅をつつく」ことにより、筆者の「不正確性」を問う。これを「針小棒大に」取り上げる。そして、筆者への攻撃の材料にし、最後はその人格まで否定する、というやりかたは、1980年代にも、イザヤ・ベンダサンはじめ、多くの右翼系・御用知識人が駆使した手であったことは記憶に新しい。
こういう攻撃の方法は、昔から変わるところがない。その方法をお教えする。
ターゲットを見定めると、まずその「穴」を探す。不正確な記述や、間違っているところが少しでもあると、まずそこを突破口に、攻撃を始める。多くの書いたものを世の中に出している人の文章は、その数が多いがために、間違いなどの1つや2つは必ずあるものだ。攻撃者はまずそこを探す。
私もオーマイニュースでの記事が200をこえる。自分の著述したものや、監修したものも40冊ほどある。そうなると、その中には不正確な記述をしてしまったもの、勘違いをしたもの、など、さまざまなものが、やはりある。穴も当然多くあることだろう。
その「穴」のうち、その場でわかったものは、出稿後に変更することもある。コメント欄でこのように口汚いことばで粘着をしてくる人間や、「記事の修正」が目的ではなく、個人攻撃を目的としている(ように見える)輩には、まともに答える義務はないが、ときどき、本当にちゃんとした間違いを指摘する人もいる。私はこういう人には、ちゃんとした答えを返すことにしているが、そういうことを繰り返していても、まだ「穴」は残る。悪意を持ってあら捜しをすれば、どんな聖人君子にも完璧というものはない。ましてやスピードを要求されるネットの上での「記事」である。私の記事ではなくとも、ツッコミどころは満載、という記事は多いのが普通だ。
しかし、「粘着くん」は、その間違いを訂正するためではなく、あくまでその個人を攻撃するためだけに、こういう「穴」を使う。決して「間違っていることを、直してほしい」がホンネでもなければ、目的でもない。粘着して、相手をつぶすことが目的であることは「天元」という私の名前のパロディの名前で明らかだ。この「匿名の粘着くん」のクラさ、というのは、想像するだに虫唾の走るものがあるので、触るのもおこがましいが、暇であれば私もときどき相手をする。
そして、「粘着くん」は、この「穴」をガンガンと攻撃する。ご丁寧なことに、今回の「穴」は、その記事の内容のことでは一切なく、少々古い記事だ。これを見ても、「天元」というウソくさい名前とともに、やはり「攻撃のためのコメント」であることは明白だ。
言われてみて、ああ、そういえばそんな記事も書いたよなぁ、と思い出した。そのとき、なんだか同じようなことを言って「衆目を引いてカッコよく振舞いたい」人もいたように思うが、まぁ、今となっては過去の話だ。
「攻撃をするためだけの粘着くん」のやることは、だいたい決まっている。
1. 相手の記事などに小さな「穴」をみつける。
2. 見つけた穴を執拗に攻撃する。
3. 「小さな穴」を捉えて「事大主義」的に大きなものに見せる。
4. さらにその穴を人格攻撃にまで広げ「こいつは信用ならない」とする。
5. 結果として攻撃相手の「全人格を否定」する。
こういった、単純な手口が、今もネットであちこちで行われている。今回の「天元」さん、みたいに、ね。でも、あくまで「自分の主張は正しく、それを認めてもらうためだけに、オレはやっているのだ!」と、彼はあくまで主張する(せざるを得ない)。そりゃそうですね。それしか武器がないんだから。
だが、もうこの方法は流行らないんですよ、明智君。いや「天元」くん。
今は昔とは違って、ネットの時代だ。ネットでものを書き、少々は名前が表に出てくると、必ず、一人や二人、こういった匿名で、かつ卑怯きわまりない「粘着くん」につきまとわれる。女性の場合は特にこういうことが多い、とも聞く。多くは妬みなどがその根底にあるのではないかと思うが、こればかりは私も調べたことがないので断言はできない。
しかし、こういった人たちをまともに相手にしないことが、ネットでものを書き続けていく、ということにはやはり必要なのだと思うし、そういうことがだんだんとネットでモノを書く人の共通のコンセンサスになってきたと思う。彼らの手口の種明かしを何度もしてきたので、だいぶこのやりかたへの理解も広まってきた、という事情もある。今後も、もっともっとネタばらしをしていくつもりだ。
今回の事件での私の一番の間違いは、こういう輩と真正面からたたかってしまったことだ、と、反省している。もし、ここをお読みの市民記者の方がいらしたら、私の踏んだウンチを踏むことなく、粛々と記事を書き続けていただきたい、ということだ。
ところで、人間のウンチより、イヌのウンチのほうが臭い。なんでだろう?今回はかなりクサかったなぁ。。。いや、失礼(笑)。
しかしね、ネットにはなんで「オレの言うことを認めろ」みたいな人たちが多いのかな?普段からあまり人に認められるような仕事を持っていなかったり、正常な家庭生活を送っていないから、欲求不満がたまっているのかも知れないね。あくまでぼくの想像だけれども。。。。
いつでも、どんな困難に会っても、心静かに、仕事もしたいし、家庭生活も送りたいものです。
※ さっき、近くにある国立科学博物館付属自然教育園に行ってきたので、そのときの写真をはさんでみました。今日はすごくいい天気だった。暑かったけど。
投稿者 nori-m : 08:20 | コメント (6) | トラックバック
2007年09月07日
「地デジ」は買うな
テレビが終了する。
2011年には、公共のテレビ放送において地上波デジタルに完全に移行し、アナログテレビは見られなくなる。
しかし、今のテレビはかつてよりも価値がなくなっている。
●面白くない番組(面白く有意義なコンテンツの不在)
●報道による世論誘導の危険
●ネットによる情報産業の成長
●災害時の情報はラジオなどのほうが優位に立つ
●光ファイバ網の低価格化による普及で電波を使う放送の価値が下がっている
加えて、地上波デジタルテレビ放送を受信する機器とのその周辺の問題。
●コンバータ、大画面テレビ、ハイビジョン化などによる、機器の高価格化
●個人情報の管理などの不整備による個人情報漏洩の危険の増大
●B-CASカードの管理会社(民間会社)の不透明な運営に対する批判の高まり
などなど、現在の「地デジ」にはツッコミどころが多すぎる。ネットでうるさい連中が騒いでいる、というような問題ではない、というレベルにまで、これらの不満が高まっている。
やがて電波を使う放送は、災害時の通報のみのためのインフラになる可能性が高い。人々が求めている「最後のエンターティンメント」は、「個人対個人」以外にはありえないからだ。
---
既に「注目される人」はどこでも「批判に晒される人」でもある、そういう世の中なのだ。インタラクティブ(会話的)、説明責任、ということばが、これまで近寄り難かった人を引きずりおろし、「カリスマ」という言葉の価値を相対的に、そして、急激に下げている。
グローバリスムの象徴とされたインターネットは、実はローカリズムや、自分の身近なものをより大きく大切に見せ、マスコミの持つ力を地に落とす「刺客」であった、と、今頃気がついた人も多いのではないだろうか?
既に「ニュース」は、マスコミが語るものばかりではなく、ネット上にあるBLOGや掲示板と、並立されるものとしてしまった。
「マスコミは信用ならない」ということばが、どこでも重みを持って多く語られ、やがてオピニオンや思想、ライフスタイルの提案元としては、テレビそのものも省みられなくなる。これがネットの時代だ。
ネットに動画。ネットにハイビジョン。ネットに音声。ネットに音楽。ネットにニュース。ネットに友達の笑顔。ネットに自分の言いたいことが発信できる場所。ネットに人の言うことを見ることができる場所。ネットでは隠されたものを表にさらけ出す。
ネットを使う時間のほうが、テレビや新聞を見る時間よりも多いのは、既に都市生活者の当たり前なライフスタイルになりつつある。相対的に、テレビを見る人は減った。新聞も減った。
---
思えば、ネットを最初に持ってきたぼくらは、こういう「多様なものが多様なままに」表現され、そして受け入れられる世の中を目指していたのだった。今日あるネットの時代を作り出すために、ぼくは毎日コードとにらめっこをして、バグ取りをしていた。少なくとも、自分にはそういう意識と目的があった。
しかし、そうは言うものの、こんなに早く、こういう世の中が来るとは考えてもいなかった。50年はかかるんじゃないか?と思っていた。しかし、この変化は20年で来た。
「コンピュータ」と「コミュニケーション」、そしてインターネットの底に流れる思想や哲学を理解しない人を「コスト」でひきつけ、ぼくらはその人たちを騙して、それを広めたのかも知れない。そう、「意図せずに」、と言っておこう。
投稿者 nori-m : 10:20 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月05日
永田町
永田町の蕎麦屋。黒澤明監督をフィーチャーした、その名も「黒澤」に、昼飯につれていってもらった。
おいしいお蕎麦を食べていたら、近くの席に民主党衆議院議員・Kさんがいた。
そういえば、ここ、永田町だったよね。。。。
投稿者 nori-m : 15:07 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月03日
デジタル一眼レフの進化
だいぶ前にも書いたけど、やがてビデオとカメラは一体になる。
デジタルの時代になって、「フィルム」が必要なくなったからだ。
そして、今年発売された新機種のデジタル一眼レフでも、いよいよ「ライブビュー搭載」が増えてきた。やがて始まるのは、ミラーがなくなり、EVFになり、そして、動画が当たり前になり、。。。という進化だろう。
最後はデジタルカメラとデジタルビデオが一体化する。
現在のデジタルビデオの主流はHDD内蔵だ。100GBなども当たり前になりつつある。これをデジカメに使えば、これからはメモリカードすらいらなくなる。
デジカメはフルハイビジョン動画を扱える機種もある。ビデオと同じだ。
そうなると、この「ビデオ+カメラ」という新しい映像入力機器にはこれから以下ことを考えなければならない。
●まず、その名称。
●グリップ形状やボディ形状。現在のビデオ型にするのか?カメラ型にするのか?それとも、全く新しいかたちにするのか?
●フラッシュメモリメディアとHDDの位置付け。
●家庭でさえ大量になるデータの保存場所。
さて、既にカメラメーカー各社はこのあたりのことを考えている。表に出てくるのが楽しみだ。
投稿者 nori-m : 09:13 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月01日
作詞の話をもうちょっと
いまだに、阿久悠のこと、その作品を考えている。
うーん、阿久悠さんと親しかったまさかつさんにその作詞の真髄を聞いたけど、ええー!こんなやり方をしていたのか!と驚いたけど、納得もいった。さすがに、ここではオフレコなんだけど。。。
しかし、いま、あの「テレビの時代」の楽曲を聴いていると、いかにも「作詞家」が作詞して「作曲家」がいて、そして編曲者がいて。。。という、「分業」が見える。作詞がよければよいほど、「詩」と「曲」の間にある「溝」がよく見える。詩が主張すると、曲と喧嘩する。そして、この2つがばらばらになる。
さらに歌い手が主張すると、三者の喧嘩になる。
そして、この三者の喧嘩が、どうしても西洋音楽的なものになれば、よく見えてしまう。ポップスとかなんかでは、ね。でもなぜだかわからないが、演歌だと、これが融合する。歌を聴くその人の心のなかで、溶け合う。
前にも紹介した森進一が歌う「北の蛍」の歌詞は、西洋的な「対置」を使う。「山が鳴る 風が鳴る」みたいに。そして、クリムトの絵画を見るような「乳房を突き破り」という鮮烈な詞が続く。曲は演歌だ。そして、森の声のあまりに特徴的なことはよくご存知だろう。
でも、この曲はそこで歌われている「情念」のゆえに、詩、曲、歌の三者が聞き手の中でちゃんと混ざり合う。
沢田研二が歌った「勝手にしやがれ」だと、白々しく見えるほど、この三者がばらばらだ。そして、いつまでたってもばらばらなままだ。いや、発表された当時はそう思わなかったが、今になって聞くと、それを感じる。
演歌のすごさ、ってのは、本当はこういうところにあるんじゃないか。日本人のこころの歴史の中に連綿と続く「なにか」が、演歌を作るあんなにはっきりしたシステムをなぜかこえて、日本人の心の中に届く曲を、歌い継がせていくのだ。
投稿者 nori-m : 14:02 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月28日
「表に出る」ということ
最近はオーマイニュースによく書いている。でも、そこに書いたこと以外のことで、やはり多くの攻撃を受けることが多い。これはぼくだけじゃないだろう。
とにかく、表にちょっと名前が出て、そして妬まれることが普通になるような立場になると、いろいろと文句を言う人は増えるものだ。昨日の夜も、オーマイニュースの自分の記事に、その記事とは直接関係のない自分の著作について、いろいろ言う人がいた。
それも、自分のことばではなく、ネットで探してきたコメントの書評欄の記述を持ってきている。もう2年以上前のもので、私もすでに読んだものだし、ぼくもそういうものがあることさえ忘れていた。
でも、本の著者というのは、けっこう多い部数を出しているわけでなくても、いちいち反論するような暇は、普通はない。「説明責任が」と、反論を言う人はよく言うのだが、このネットの時代では、昔よりも簡単に「コメント」が書けるから、反論などが出そうなことを書くと、それこそ大変な量で「反論」がやってくる。いちいち答えていては、普段の仕事に支障が出ることも多くなった。
そこで、通常は代表的な意見を引っ張り出して、それに再反論をすることが多い。でも、あまりにくだらない揶揄であれば、再反論をした後の再度のリアクションがまた面倒になる(えてして、そういうことを言う人は粘着してくる人が多い)ので、反論すらしないことが増えてしまう。
実際、ネットでのやりとりが多くなると、表に名前が多く出る人は、こういうやりとりで消耗することが非常に多くなった。
そのため、オーマイニュースで初めて自分の名前がたくさん検索エンジンに引っかかるようになった人は、このやりとりに疲れて「もう書きません」となった人も多い。
「あいつをつぶせ」とばかりの悪意があるのか?それとも、真摯に答えを求めているのか?この境界が非常にあいまいだし、それを語る人の語り口もいろいろあって、真摯であっても礼儀を欠いていたり、逆に悪意がベースでも丁寧なことばを使っていたりして、その真意そのものがよくわからなくなることが多い。そして、そういう反論コメントが、ときにはすごい数で来るわけだから、「もういいや」となる人も多いのではないだろうか?
結果として、将来大きくなりそうな筆者をつぶしていたり、まともな意見をどこかに放擲したりすることも多いばかりではなく、それでも書き続ける、という人を「丸く」してしまい、当たり障りのない意見を言う人に変えてしまったりすることがあるのではないだろうか?
多くの人に「異」を唱える人を、それが正論であっても、「空気が読めない」などと言って排除するような、そういう「テロル」が、ネットのあちこちで行われている。
結果として、大衆の意に沿うような、あるいは権力者の意に沿うような、あるいは当たり障りのないことしか言わない人間ばかりになる可能性はなきにしもあらずだ。
少々でも有名になること。ネットのこの時代にあっては、そうなったその端緒から逆風にさらされることだ。それを意識して、オーマイニュースなどで書くことの楽しさを覚えたみなさんには、強く、大きく、そしてとんがってほしい、と思う。
投稿者 nori-m : 06:40 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月27日
阿久悠の時代とはなにか
作詞家の阿久悠氏がこの8月1日、尿管癌で亡くなった。享年71歳。すぐにテレビ各局では追悼のための特番が流され、日本中がその死を惜しんだ。
阿久悠という人がどういう人であったか?私は直接本人を知らないので、あまり細かくはわからない。しかし、「作詞」という仕事は、自分ひとりの作業でありながら、その「詩」の作り出した世界観とかイメージといったものが、作曲家と共有され、編曲者と共有され、演奏をするオーケストラと共有され、歌を歌う歌手はもちろんのこと、その歌手を支える衣装をデザインする人など、多くの人たちに共有され、それがテレビなどのマスコミで、さらに限りなく多くの人たちに共有される、というこの「流れ」を意識すれば、その仕事がとても大切な仕事であることは、十分に想像がつく。
書く詩が、描く夢が、ドラマを描き出し世界を創る。その世界を多くの人の共感のもと、共有する。それが成功するときもあれば、失敗するときも、もちろんある。
IT などの仕事では、その発案やシステムの全体像を描く仕事のことを、川の流れにたとえて「上流工程」と言い、その上流工程のする仕事の結果にしたがってプログラムを書くなどの仕事を「下流工程」と言う。「作詞」というのは、ある楽曲をつくり、世の中で広めるにあたっての「上流工程」のその最初に位置する仕事である、というように感じる。
私が中学校、高校といった時代、阿久悠氏の作詞した歌は、テレビを席巻していた。毎年年末の国民的恒例行事と言われたNHKの紅白歌合戦は全盛を極め、民放にも高い視聴率を持つ多くの歌番組があったが、そこで歌われる曲の多くが阿久悠氏の作詞によるものだった。まさにその時代の国民の「感性」をがっちりとつかんで歌にしたのが、阿久悠氏ではなかったか?と思う。
そういう意味では彼は本当は「作詞家」ではなくて「ジャーナリスト」であったのではないか?と私は思っている。ただ、彼の仕事としての表現の方法が「作詞」というかたちをとっていただけなのではないだろうか?
8月3日に放映されたNHKの「プライム10」は阿久悠氏の追悼番組となっていた。この番組の中で「津軽海峡冬景色」を歌った歌手の石川さゆりさんがインタビューに答えていた。その一部を引用する。
---
歌を作るとき、先生はスタッフを全員自宅に集めて、みんなの顔を一人ずつ確認するように見て「これで顔ぶれはそろったね」って、おっしゃって、(続けて)「共犯者はこれだけだね」っておっしゃって、阿久先生らしい。。。で、「さぁ、こっから事件を起こすぞ」っておっしゃったのが、そのひとつずつが、生きたことばだったな、って私の中に残ってます。
---
どんな仕事にも「ジャーナリスト的感性」が必要な仕事が最近は増えてきた。特に、Web系のサービスなどを行う会社では、まさにこの感性こそが財産だと言える。であれば、いま、阿久悠のしてきた仕事や、そのやりかた、そしてその作品とその受け入れられ方をちゃんと研究することが、いっそう必要になっているのではないか。記者にはそう思えるのだが。
しかし、あの時代のテレビとはなんだったのだろう?あの時代の「気分」をテレビが作っていた、というよりは、私たちの心の奥底に潜むかたちのない「夢」をわし掴みにして、「ほら、これでしょう?」と、私たちの目の前にごっそりと、そしてきれいに整理してそれを阿久悠さんをはじめとした作詞家、作曲家、そして歌手やスタッフが「歌曲」というかたちで提示した。ぼくらは「ああ、これだったのか!」とそれを受け入れた。それはきっと、テレビが私たち大衆の側をちゃんと向き、私たち大衆もまたテレビを信頼していた「よき時代」であったのではないか。
阿久悠はそのテレビにあって、人々の夢をつかみ取り、「詩」として提示し、仕事として成立させた。テレビが阿久悠という作詞家を育てたのではなく、本当は彼がテレビを支えたのではないだろうか?テレビと私たちの間の信頼をつなげたのではなかったのだろうか?
そして、阿久悠のような人が、これからもこの日本に生まれてくるのだろうか?
投稿者 nori-m : 14:37 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月24日
永井荷風の愛した街
浅草、といえば永井荷風が出てくるのは、やっぱりぼくが「古い人」だからなんだろうか?
いや、そうは思うけれども、荷風のあの独特の世界は、今でも浅草のあちこちで見ることができる。
どんなに新しい高いビルができても、この場所だけは変わらないように感じる。
東京の繁華街といえば浅草。今でもぼくはそう感じる。浅草から新宿や渋谷に出ると、どこか暖かさが消える。歩く人がみなよそよそしく見えてしまう。
そういえば、明日はサンバ・カーニバルをやるんだね。スポンサーは隅田川の対岸にあるアサヒビールだそうです。
投稿者 nori-m : 20:49 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月16日
【更新終了..ではなかった】エアコン会社における東京と大阪の時差
エアコンが壊れる。ちっとも涼しくならない。この年の時期にこれはきつい。エアコンのメーカーはDIAKIN(ダイキン工業)だ。早速、24時間受け付けている、という電話番号に電話をした。
【第一日め】
ダイキン工業は、大阪の会社だ。早速、ホームページを見て、24時間サポートしている、という電話の窓口に電話。フリーダイヤルになっている。最初の電話はつながらず。2度目にやっとつながった。ちなみに、時間は午前6時。この時間に混んでることはないとは思うけど。いや、大阪と東京では時差があるんだろうな。きっと。などと、のんきに考えていたのが、つまずきの始まりだった。
やっと出た電話では、「翌朝、何時にお伺いできるか、お知らせのお電話を工事業者のほうからいたします」とのこと。
【第二日め】
翌日の朝。業者から電話。「夕方になると思いますが、何時になるかわからないので、後で電話します」とのこと。とりあえず午前中は来ないようなので、仕事で外出した。
午後は仕事で外出したいのに外にも出られなかった。
で、午後3時くらいになっても連絡は来ず。こちらから「まだ連絡がない」と、ダイキン工業に再度電話。
業者から、「20分くらいで行きます」と連絡があったものの、来ても様子を見るだけで、なにも修理せず。専門の業者であれば、機種なんかも伝えてあるわけだから、パーツぐらい持ってきてもよさそうなもんだが。前に来た松下の業者は、そういう準備はちゃんとしてきていた。
そして、「明日かあさってに、部品を持ってきてからやります」とのこと。
【第三日め】
さらに翌日。午前10時に近くなってもなにも連絡がないので、仕方なくまたこちらからDAIKINに電話。すると「本日午後2時にお伺いする、という予定になってますけど」とのこと。
「そんなこと、聞いてないよ!」と伝えると、それから5分後に、業者から電話。パーツはまだないけど、まずは洗浄に伺います、時間は午後3時です、とのこと。
時間はいい加減、やることもいい加減。迅速な手はずもなにも整っていない会社なんだなぁ、きっと。
----
エアコンは長く使うものだし、こんな天気だから止まると文句がすごい。そういう製品だよね。だから、夏休みなんて、修理とか工事なんかで忙しい時期であるはず。こんな時期だからこそ、対応は迅速にしてほしいものだ。この製品の場合は「夏休みで休んでる人が多いから」みたいなのは、やっぱい通用しない。言葉の対応が丁寧でも、実際の動きが鈍ければダメなのは同じ。
「大阪と東京の時差って、こんなにあったんだ」と、エアコンのない猛烈な暑さの中で考えたのだった。。。
その日のお昼の12時。ダイキン工業より電話で「本日14時にお伺いします」とのこと。電話は携帯電話に来た。携帯電話がとれなかったので、携帯の留守電に入っていた。が、直接の工事業者から後で入った電話は「15時」。ダイキン工業のサポートから入った電話は「14時」。どっちなんだ?
仕方なく、予定を変更して、仕事を速く切り上げて14時には家にいるようにするしかない。まてよ、この1時間も「東京と大阪の時差」か(笑)?たしかに飛行機では1時間くらいかかる距離だが。
で、やっと15時に業者がきた。なんと3時間かけて洗浄とガス入れ替えをしてもらった。仕事は丁寧だったと思う。そして復旧。本体の部品の交換はなかった。私も暑いさなか、PCを暑いその場所に置いて、仕事をしつつ作業を見守った。その場で支払うのかと思ったら、後で請求書を出す、とのこと。
【8月21日・追加】
そして、8月21日。請求書が届いたのだが。。。。なんと、請求額がひどい。事前の下見で「3万円前後」ということで、その修理のお見積もりをいただいた。しかしながら、来た請求額が「4万5千円」だ。なんと1.5倍の見積額。ちゃんと専門家が下見をして、その上で出した答えなはずなのに、この見積もり違いはないだろう?。また、ちゃんと作業が終わったときにも、この金額は再度確認した。通常、こういうことがおきれば、当然のことながら事前に「すみません、これだけかかってしまったのですが」と、相談の一言くらいあってもよさそうなものだし、だいたいそういうことは工事業者が、修理が終わったその現場で言った金額そのものであることが普通だろう。
あらかじめ詳細に内容を見て見積もりを言っておきながら、それとは大幅に違う請求書をなんの相談もなしに出す。この神経が、通常ではない、と思える。これについては、すぐにダイキン工業の営業所に電話をして、見積もりと違うむねを、すぐにクレームを入れた。まだ電話をして30分たっていないから、まだ成り行きはわからないが、サービス窓口の電話では、今日中に答えをくれる、と言わせておいた。さて、今日中に答えが来るかどうか?。
----
で、現在、電話をしてから時間がかなりたった。既に午後9時を過ぎたが、いまだに連絡は来ない。きっと「すみませんが、今日はお答えができないので、明日、再度ご連絡を差し上げたいと思いますが、お時間はいつごろがよろしいでしょうか?」みたいな電話もなく、今日は終わるのだろうな、と予想してみる。つくずく、社内の連絡から体制から、まるでできていない会社であると思わざるを得ない。
9時半。なかなか電話が来ないので、こちらから電話をした。平謝りの「窓口担当者」はいるが、もちろんその場では答えは出ないことはわかる。「確実にお答えをいただく日時をお願いします」とお話したところ、明日の午前中にはもう一度連絡をくれる、という。なに、大きな組織であるからには、窓口だけではできることは限られている。個人的な態度だけではその会社の姿勢は測れないのは、どこの組織でも同じだ。明日、どんな連絡が来るか?あるいはなにも連絡が来ないのか?
----
【8月22日】午前中。電話が来た。
再度、3万円+外税分、ということで請求書を出しなおすとのこと。とりあえず納得した。今手元にある請求書は、破棄してよい、とのこと。
【8月24日】再度の請求書が来た。
内容は電話で話しをした通りの内容。お詫びのことばも添えられている。
しかし、ダイキン工業の社内の体制って、こういった業者のアウトソーシングをするにあたって、体制がちゃんとしていないので、かなりガタガタである、ということが想像できる。部署間、業者間での連携がちゃんとできていないのではないか。偶然が重なった、というような感じではなく、もともとがかなりいい加減な体制なんだな、というのがわかる。連絡、報告。そして実際の作業との照らし合わせの作業中に不正などがある、という可能性も、この体制であればありえる。どれもこれも「偶然が重なった」とはとても言いにくいことばかりだった。
しかし、これでは怒らせなくてもいいところで、客を怒らせてしまう。結果は「満足度が低い」となる。どれもこれも、かなり些細なことの積み重ねでそうなるものだ。放漫でいい加減なサービスや製造の体制はやがて大きな事故などを引き起こすことにもつながっていくことだろう。既に、同社のホームページによれば、社内では顧客情報を入れたハードディスクの紛失騒ぎまで起きているらしい。どれもこれも、あまりにひどくないか?
どの人も企業も、完全ということはありえない。だから、企業の危機管理というのは、こういうときにどうするか?ということだ。当然のことながら、(1)当面の対策、(2)次回から起こらないようにする対策、の2つが考えられなければならない。今回は(1)の危機管理においての対応は、まずまずといったところだろう。カスタマが驚くようなことはできなかったが、当たり前の対応まではできた、というところか。
しかし、問題は(2)だ。この会社がこのままの体制であれば、もうこの会社の製品は買わない。
投稿者 nori-m : 09:57 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月14日
熱中症
熱い中、朝から仕事で走り回る。冷房の効いた部屋で午後のミーティングが終了して外に出たところ「クラっ」ときた。「これはまずい!」と思ったので、日陰の道端で座り込む。落ち着いてから家に帰り、なにもせずに横になる。
疲労がたまているんだなぁ、と思った。ちょっと休むことにした。。。。とは言っても、そろそろ復活しかけている。明日の朝には完全に大丈夫だろう。このBlogを書くのもこのくらいにしておかないと。。。
投稿者 nori-m : 21:20 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月13日
実は「戦争を知らなかった」大人たち
とりあえず、後述のこの記事のコメント欄の続きのつもりで、こちらは書く。なにしろ、あのコメント欄への「ひとこと」のスペースではあまりに文字数が少ないため、自分の意見が言いにくいのだ。私への意見はこちらで聞くことにしようと思う。が、ここでコメントをするのをためらわれる人も数名いるようだが、それはここに示した理由により、放っておくことにする。
----
さて、従軍慰安婦問題、というのがある。特に最近は中国、韓国などから日本の国に補償を求める、という動きが報道されることが多い。
しかし、ネット上の情報を探して見るだけでも、実際に従軍慰安婦そのものの存在を否定する人たちもいれば、そうではない人もいる。特に、米国議会での日本の従軍慰安婦問題決議というものがあってから、さらにこれらの議論に拍車がかかるのは必至な情勢だ。
賛否両論ともかまびすしいが、最近はネット上で行われる議論も数多い。この中には「元になる資料が間違っている」「米国の議会には失望した」「従軍慰安婦は世界的な戦争の問題であって、日本だけに矮小化すべきではない」「韓国や中国だけではなく、オランダ人はじめ、多くの従軍慰安婦がいた」「貧困と戦争が原因だ」などなど、多くの議論があるだけでなく、ことの本質が錯綜した意見の中に埋もれてしまっている感じがしないでもない。
加えて、資料の間違いなどをあげつらい、文章の趣旨そのものを否定してしまうような「揚げ足取り」や、長い論戦でちょっとした相手の間違いを誘発させ、そこで相手が「ちょっと間違える」と、そこを突破口に、自分が優位に立とうとする、などの論戦のテクニックは、こういう議論では特に多い。ネットの世の中になってから、これらのレトリックを巧妙に使い、自分の意見を声高に言うような「言葉の香具師」が増えた。こういう輩と遭遇したときは、しっかりと黙ることだ。
この論戦の中で、やがて本来の原因である「戦争」そのものをいかにやめるか、などの本質的な議論や、相手の国の一人一人の人の顔が見えなくなるような「国」を単位とした「ナショナリズム」が、やがて台頭してくる。現場の声、被害者の声がその大きな声の向こうに小さくなっていく。
ところで、戦争は人が一人ではできない。だから国を単位として行わざるを得ず、結果としてナショナリズムを前面に出して「戦争」をするしかない。だから、「ナショナリズムは戦争への一里塚」と言っていい。
また、戦争は富を一部に集めることでもあるので、戦争には「格差」や「貧困」がつきものだ。だから、従軍慰安婦の問題とは、戦争の問題に尽きる、と言ってもいい。オーマイニュースでもこれらの問題が記事になっているので、参考にしてほしい。
記事は実際に従軍慰安婦をした、というおばあさんたちをたずね、そこで記者が感じたことを書いている。この記者の書いた記事は、正直なところあまり具体的に書いてあることはない。記事としては私は出来はよくないと思う。それでも、記者の方は精一杯、自分の感じたことを、感想文のように、ではあったとしても、ちゃんと書いている。
この記事の中には、以下の文章がある。
「慰安婦は軍による強制連行だったのか」という論点や、「性奴隷なのか、公娼なのか」という問いは、慰安婦決議案の本質的なテーマではない。
それは、いずれにせよ、辛い目にあった人がいることに変わりはないからだ。
韓国や中国だけではなく、日本にも、日本人の従軍慰安婦は多くいた。貧しい農村から「売られた」女たちであった。そして、日本や韓国、中国だけではなく、戦争が始まれば、国は富の偏在をする必要に迫られ、「格差」が生み出され、そして、「貧困」が生み出され、従軍慰安婦の問題はじめ、多くの問題を抱えることになる。
そして、その道具として使われるのは、いつの時代でも「ナショナリズム」だ。
「国として。。。」という言葉が多く語られ、そして「外から仕掛けられる戦争には、国として対処するしかない」と言われる。国がなくなれば、あなたは大変なことになりますよ、と国が個人に脅しをかける。
そこがナショナリズムの入り口である。
ナショナリズムそのものを成立させない努力が、戦争そのものをなくすために一番必要なことだ。
ところで、そういう動きとは裏腹に、現代はその目的はある程度達成できていると言えるかも知れない。グローバルな人やお金、モノの流通が、数十年前よりも活発に行われているからだ。インターネットもまた、多くの人々を直につなぐ役割をしている。もはや、経済には旧来の国家ナショナリズムは邪魔、というのが、世界の産業界の認識だ。
そして、国対国、ということで言えば、日本と中国・韓国のような国どうしは、もはやいくらナショナリズムを煽ったところで、どうにもならない。経済的に強い依存関係があるからだ。戦争で使う富の蓄積は、お金という紙切れではなく、具体的な産業としてその威力を発揮するから、産業を無視して戦争はできない。
そういう意味で、国家をベースとしたナショナリズムはすでに時代遅れとなっている。石橋湛山がかつて日本と国交のなかった共産中国に行き、夢見た世界がそこにあるもかも知れない。しかし、それと同時に、今度は「経済ナショナリズム」あるいは「企業ナショナリズム」とも言うべき世界が出現したのが、現代という時代だ。
すでに多くの日本企業の株の70%は外資であることからも、それは伺える。
国境をまたぐ多国籍企業は、国に代わるナショナリズムを人々に要求しているから、この波に乗れなければ、国さえ危うくなる。「国という単位」はすでにかつてのように富の中心ではない。今は企業があからさまに国にとって代わっている。そういう時代なのだ。
このままいけば、やがて麻薬産業のように、国を無視した多国籍企業が人々の生活を支配し、企業が私兵を持ち、国は消えてなくなるだろう。すでに「FTA(Free Trade Agreement)」のようなかたちで、それは進行しているといってよい。
日本に名だたる巨大企業の役員会には、すでに多くの外国人がいる。そしてそこでの会話は英語で行われているところも非常に多い。
国家ナショナリズムは崩壊した。いま、ナショナリズムの残り火が、今わの際の雄たけびを上げているに過ぎないように見える。そして、これから始まることは、おそらく、企業を「国」のように扱う、新しい文化だろう。そして、そこには、相変わらず「企業ナショナリズム」が、かつての「国家によるナショナリズム」の次に生まれてくるに違いない。
いま、この地球の主権は国ではなく、企業になったこと。そして、企業は国家のナショナリズムの裏に隠れて、あたかも国やそのナショナリズムがあるかのようにして、企業そのものの「罪悪」を隠そうとするだろうこと。だからこそ、今、国家ナショナリズムが声高に煽られることになる、ということもあるだろう。
「ナショナリズム」はこうやって時代をこえて、かたちを変えて、人間の社会に影響を及ぼしていくだろう。
すでに、ナショナリズムはここで示したように単一のものではない。この「ナショナリズム」という「宗教」は、おそらく姿形を変えて、今後も生き続けるに違いない。いま、本当に必要なことは、この「ナショナリズム」という見えないお化けを、超えることだろう。
そして、そのためには、ここでご紹介した記事にあるような、元従軍慰安婦の人たちに話を聞く、という、「実際にそこに行く、人の話を聞く、触れ合う」という小さな行動が大きな意味を持つのではないか、と、私は思っている。
---
しかし、どうも「戦争」の話を「国対国」の話にしたがる人が多いようだ。
自分は国民だから、その国のメンバーとしてどうするか考えるべき、という大前提そのものを疑うことが無い限り、戦争の問題は解決しないことだろう。富の集中とナショナリズムこそ、戦争の本質である以上、富の集中をできるだけ防げ、そのうえでナショナリズムを否定し、自分が国のメンバーである、という「当たり前と思われていること」を否定しないと、戦争の問題は解決しない。
戦争は国で行う。個人はその犠牲になる。その図式とか構造を拒否してこそ、戦争は否定できる。従軍慰安婦などの問題も含め「国」という存在が個人に押し付ける行為そのものを、いかにやめさせるか。本当はそのことのほうがどれだけ大事なことか。
投稿者 nori-m : 11:16 | コメント (8) | トラックバック
2007年08月10日
世界中のどこでも
海外に出る旅行が多い。そして、海外にいても、同じメール、同じWeb、同じ仲間で仕事ができる。
インターネットというものができてから、こんな世界が一部の金持ち会社のものではなく、個人のものになった。
もうこのことには驚かなくなって、当たり前のことと思えるようになってきたが、本当に驚くのは、この「変化」が、10年もたたずにおきて、そして「終わった」ことだ。
変化は終わったが、変化の結果はいま、ぼくらの手の中にある。
次に変るべきはこういう道具を持ったぼくらだ。
投稿者 nori-m : 20:45 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月08日
空の写真
2003年。その年の空がちょうど今の空と似ている。
夏の雲だが、空の色と雲が、日本の空ではないように感じる。
毎日、空を見上げては、なんだか現実離れした空の景色をながめている。
投稿者 nori-m : 20:58 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月05日
The Motorcycle Diaries again.
モーターサイクル・ダイアリーズを再び見た。
しかし、どうしてもこのDVDは本編よりも、おまけでついている「Traveling with CHE*GUEVARA」のほうが、はるかに面白い。
顔にしわができた今
銀髪になった今
わかっているとも
人生は一吹きの風に過ぎない
熱を帯びたまなざしは影をさまよい
君を探しその名を呼ぶ
私は生きる
甘い思い出にすがり
そして涙する...
これはボルベール(帰還)という曲だ。カルロス・ガルデルがうたう。
この歌を、スタッフと、80歳になったアルベルトが、スタッフのギターで歌う。みなで合唱するのだ。それも、楽しそうに。
タニア・リベルタの「人生よありがとう」という曲は、彼女の歌声がすがすがしく、ものがなしく、純粋だ。
チェの親友、アルベルトは生きてこの映画の監修役となり、このDVDに登場し、チェとともに辿った南米の各地の風景の中で、思い出を語る。
このDVDに挿入されている曲は、このガルデルをはじめ、人生の悲哀を描く、心にしみる曲ばかりだ。
南米のあちこちの街を歩く、ってのは、実はぼくが生きているうちに、一度はやりたいことの1つだ。うらぶれた街。都会そのものの街。きっといろいろなところがあるだろう。でも、日本に住んでいると、そんな遠くの、日本ではあまり話題にもならない、きっとなんの変哲もない街で、一人、時間を過ごしてみたくなるのだ。
そこで、自分が一人で生きている、というその空気をきっと確認できるのじゃないか?と思うのだ。
投稿者 nori-m : 22:27 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月02日
動画の時代?
YouTubeの「成功」を見て、米国は動画サイトが花盛りになってきた。
YouTubeが開いた時代は、投稿の動画、ということもそうだが、要するに「5分とか、せいぜい10分までのショートムービー」の世界だろう。
CMなんかで15秒、30秒では語りきれない。でも、30分では長すぎる。
そういうムービーの世界は、米国では既に「Snack Culture」と言う名前がついている。
大手も中小も、いまこの「Snack Culture」に、注目している。
投稿者 nori-m : 08:54 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月30日
伝説のスピーチ動画
今回はなにも書かない。
投稿者 nori-m : 11:15 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月28日
父を亡くす
なぜだろう。偶然ではある。でも「父を亡くす」「夫を亡くす」女性の、その場に、ちょっと遠くからではあっても、居合わせることがここ数年多い。
生きているときには、あんなに精一杯生きている。「死」など思うことさえないほどに、一生懸命だ。やがてそのときが近くなっても、それでも一生懸命だ。
そのときがくる。
「一生懸命」のすべてがまったく無駄になるそのときが。
しかし、それでも人は生きているそのあいだ、精一杯に「生きる」のだ。
世の中に、「業」と呼べるものが本当にある、ということを、そのときに肌で感じる。
「さようなら」その生きている人の声さえ、もう届かないのだ。
投稿者 nori-m : 22:04 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月22日
参議院選挙が近くなったが
参議院選挙が近いが、テレビなどのマスコミは「自民大敗」の論調一色だ。
大臣の失言があっただろ?そして、大臣が自殺したりして、大変なんだ。社会保険庁のシステムの話だってある。みんなボロボロじゃないか?
と、そう思うだろう。
どれもこれもこの選挙を待ち構えたように、「噴出」した。
しかし、たとえば麻生大臣のアルツハイマー発言のニュースは19日の夜だ。そして、アルツハイマーの団体などは、その翌日の新聞を見て、麻生発言を知った、というところがほとんどだ。
つまり、麻生氏の発言した現場では、「ちょっとまずいことを言った感じだな」という意識はそれなりに多くの人たちにあったにせよ、その場でこの発言を問題にした人はいなかったのではないか?
だとしたら、この発言が問題である、と言った言いだしっぺは「マスコミそのもの」ということになる。記事は麻生氏の発言のその部分と、もう1つの部分である「あんたがたは関係ないんだ」発言をセットで流した。どちらも物議をかもしそうなにおいはあったし、実際、認知症の人やそういう人を家族など近くに持つ人たちは、怒ったことだろう。
しかし、「火をつけた」のは、マスコミだ。
麻生発言の内容はたしかに問題だ。しかし、それを報道する側も、この麻生発言をサカナにして、結局は認知症の人やその周りの人たちを愚弄したのではないか。
自民党の大敗、も本当だろうか?マスコミはそのムードを作り上げるのに一生懸命なことはわかる。しかし、それはなぜだ?
「マスコミの真相」は、きっと別のところにあるんだろう。
投稿者 nori-m : 20:04 | コメント (1) | トラックバック
2007年07月20日
梅雨が明ける
今日の東京はおだやかな梅雨明け、という感じがする。週末の台風、そして、地震。天変地異のその後で来た、おだやかな日。
かなり忙しくなってきたが、しばらくはこんな感じだろう。。。
しかし、e-mobileで秋葉原のカフェからこれを書いているが、やはり速度の速い通信インフラと、電池の持ちがすごくいいPCってのは、結局モバイルの必須の2つの条件ではないだろうか?
ところで、今日の夜、オーマイニュースの元木編集長他をお呼びして、「勝手カフェ」を新橋の居酒屋で開くこととなった。さて、どんな話しが出てくるか?男性陣よりも女性陣からの元木編集長への攻撃が熾烈になる、と予想する人もいる。が、やっぱ飲み会として楽しいものにはなると思います。
投稿者 nori-m : 11:26 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月14日
セカンド・ライフのこと
セカンド・ライフはちょっとまだ辛そうだ。
友人に、セカンド・ライフ(SL)にはまるやつが増えている。
しかし、いろいろな話を総合すると、結局は現在のけっこうなスペックのデスクトップPCが不可欠だ、ということがわかる。特にネットの回線は速い必要があるし、ちょっと性能の高いグラフィックカードは必須だ。結果として、おそらく現在みんなが使っているPCのうち、ノートPCはまず使えない機種が多いだろう。
さらに、ネットの接続は会社などでファイア・ウォールを厳しく設定しているところでは、まず無理だろう。ちょっといつもとは違うポートをSLは要求するからだ。つまり、多くの会社では使えない。
いまSLには電通なども出資しているし、先進的なオモチャが楽しい、という人には大変に浸透している。しかし、実際に使う人は少ない。
でもそれはおいておく。
ところで、学校もバーチャル空間でOKならば、仕事もバーチャル空間でOKになる。やがて、若者はPCの前で入学式をし、PCの前で勉強し、PCの前で卒業し、PCの前で仕事をし、PCの前で営業をすることになるのだろうか?その気配は、ないわけではない。
お母さん、学校にいってきます!
ではなく、
お母さん、学校にアクセスするね!
という世の中になるのだろうか?
などと言いつつ、セカンドライフの中の人になったのだが、その最初のインプレッションというのは「極楽浄土」ということに尽きる。現実のような仮構の中に、いろいろなものが詰まり、移動が自由自在だ。食べなくても死なない。そもそも「死」がない。
しかしそこの住民のほとんどは「見物人」であって、実際にそこにお金をつぎ込む人は少ない。結果として、人集め、広告モデル、というのが、一番の「商売」になる。
いろいろなことは言われるものの、やはり魅力がある。つまり、これから自分がかかわって発展していける「社会」「国」がそこにあるからだ。閉塞感の漂う今の人間社会の中で、ここはだだっ広い「別世界」のように思える。
しかし、個人的には、現実の社会との接点である「お金」の交換が行われているこのセカンドライフ社会は、「仮想世界」と言うよりも「仮想国家」と言ったほうがいいだろう、と思っている。この国のルールにのっとったお金の使い方があり、この国のルールにのっとったお金の儲け方がある。
セカンドライフでは、その中でのビジネスモデルそのものが非常に少ない、という現実がある。なによりも、どんなにすばらしい場所をそこに持ったとしても、人があつまらなければ結局は仮構のゴーストタウンとなるだけだ。
また、セカンドライフに最初に入るとき、まず困るのはその操作の複雑さだ。デフォルトの自分のままでは、外を歩けない。しかし、デフォルトから新しい自分を創っていくのは、けっこう時間がかかり、大変な作業となり、とても「気軽に使う」ところまでは時間も労力もかかる。
そして、現実の世界のお金との兌換が行われているから、どう考えてもここは現実社会の一部に組み込まれることになる。完全な「仮想社会」ではない。
セカンドライフのこれらの側面を冷静に考えて見るとき、おそらくセカンドライフは巨大な「仮想ショッピングモール」以上のものにはならないのではないか、という危惧がある。そういう意味では、日本では「楽天」、米国では「アマゾン」が、おそらくセカンドライフの競合になるのではないだろうか?
「ネットでモノや情報を売る」商売の、究極のかたちが、セカンドライフなのではないかと思う。「見せて」「欲しがらせて」、買わせる仕組みの大掛かりなもの。それがセカンドライフの「本性」だろう。
投稿者 nori-m : 22:36 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月12日
雨が続きます
雨が続きます。
うっとうしい、ということはもちろんある。うまくいくべきことが、ちょっとつまずくと、天候のせいにしたりする。気持ちが湿っている。
カメラも湿気には弱い。PCも湿気は良くないけど、部品は一定以上の熱を持つことが普通だから、よほどの熱帯地域でなければ、稼働中は水分が飛んでしまって、湿気はあまり関係なくなる。
友達には、こういうときはSecond Liifeをやる、ってのがいる。
もっと暗くなりそうな気がする。
投稿者 nori-m : 15:23 | コメント (0) | トラックバック
長く使うノートPC
外に持っていくモバイル用のノートPCは、Panasonicを使っている。Let's Noteですね。
2003年の末に買ったものだが、各所とも不具合が出るたびに修理をして、今日に至っている。HDDは取替え、メモリは増設し、無線LANは最新の802.11a/g/bができるものに変っている。
いよいよ、DVD-ROM・CD-Rドライブがいかれ始めてきたが、電池はまだ買ったときのままだった。
その電池も、最初に使えた容量の半分くらいしかなくなってきていて、かなりヘタってきている。そろそろ電池を交換しようと思うが、さすがに、4年も使ったら「ずいぶん使ったなぁ」という感じがする。
CPUはCeleronM・1GHzだが、最近のアプリケーションでも、よほど重いものでなければ、問題なく使える。最速というわけではさすがにないが、モバイルで使う用途には十分といっていい。
しかし、一方で思うことがある。つまり、この4年間、要するにたいした進歩がPCの世界にはなかった、ということもあるんじゃないだろうか?
1995年くらいのPCは、2000年には使えない、という評価を下すしかなかったけれども、2003年後半に出たPCは、今のPCとそう変らない。
Slow Down。そういう気がしている。
投稿者 nori-m : 09:04 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月11日
レンズのトラブル
もう3年、Canonを愛用している。まだ3年、という感じかも知れないけど。
で、手振れ補正つきの高倍率ズームレンズを使っていたのだが、なんと、手ブレ補正機構が壊れ、いつもブルブルと振動するようになってしまった。ぶれてもいないのに、ぶれる写真が撮れてしまう。
仕方がないので、修理に出した。
いちおう、ちゃんと治って戻ってきた。いつもの、あの感触が戻ってきた。
いろいろとあると思うけど、手振れ補正機構は、カメラの革命だったと、今にして思う。
AE(自動露出)、AF(自動焦点)、という機構ができて、プロの写真家でも、この2つの機構に頼るようになってから、とても時間がたった気がしている。
ぼくは社会人になってまもなく、この時代の一眼レフを使っていたのだが、どうも「ぼやけた写真が撮れるので、困っていた。引伸ばし機で見ると、明らかに小さな手ぶれが原因でぼやけた写真が撮れているのがわかった。かといって、自分の撮り方では、重い三脚を持って歩くのは気が引けた。
結局、職業写真家ではなかったし、他に面白いと思えることもできたから、この「手振れ」の発見を機会に写真はコンパクトカメラでしか撮らないことに決めた。これはカメラがデジタルになってからも、続いた。
でも、2003年に、手振れ補正機構を売り物にする「DiMAGE-A1」というミノルタのデジタルカメラを見つけて、発売1か月後に手に入れた。高かったけれど、結果はすごかった。手持ちで、スローシャッターで、望遠なのに、手振れが全くなかった。シャープな写真が手持ちで撮れるようになった。
それ以来、手振れ補正機構のついていないカメラ、レンズは問題外となった。ぼくが本格的なカメラを手にすることをやめた最大の原因であった「手振れ」が克服されたからだ。
以来、カメラ(レンズ)は、超広角など、手振れがあまり気にならない焦点距離のレンズ以外は、手振れ補正つきのものしか買わない。
カメラそのものが、昔から進歩を遂げてきた。その新しい仕組みができる都度に、「AEなんてものを使うなんてのはプロのすることではない」とか、「AFなんてのはシロウトが使うもんだ」とか言われた。でも、いまその両方の機構ともに、プロにも必需品となっている。
手振れ補正機構ができたときは「プロは三脚を使うのだ」なんて言われた。
カメラという「テクノロジーの小箱」が進歩するのだから、人間も進歩しなければならない。
新しいメカには、新しい「撮り方」がよく似合う。そういうものだ。でもなぜだか、写真の世界には、古い権威をありがたがる風潮がまだあるようだ。いや、それも悪いとは思わないが、新しいものだって、認めて欲しい。そう思うだけだ。
投稿者 nori-m : 23:19 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月10日
バブルが終わったころ
バブルが終わったころの話。
吉祥寺にある、ちょっと有名な餃子屋に入って、昼食をとっていた。
お昼ちょっと前で人が少なかった。
狭いお店のカウンターに座っていると、隣にいた男がカウンターの中にいる店長らしきおじさんに話かけた。
「500円で、こんなおいしいものが食えるんだな。。。。」
男はさらに続けた。
「株で失敗しちまってな。。。。」
その場面はまるでドラマを見ているような感じだった。話には、真実味があった。ぼくだけじゃなくて、周りにいた客も、みんな彼のそこから続く長い話を聞いた。
投稿者 nori-m : 08:46 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月07日
サーバ用のプロバイダを取替えました
うちのサーバにつながっているプロバイダを、もっと安いのに取り替えました。でも、なんだか、速度も速くなったみたいです。
DNSの変更は、昨晩行ったので、もう大丈夫じゃないかな?と思います。
もちろん固定IPとはいえ、IPアドレスは変更されています。
今回のプロバイダでは逆引きはプロバイダのほうに持っていかれちゃうみたいですけど。
投稿者 nori-m : 22:16 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月06日
「市民メディア」とはなにか?
オーマイニュースはじめ、けっこう多くのネット上の市民メディアってのが流行っている。
報道の統制、というモノサシを当ててみると、これらの「市民メディア」の立ち位置がわかるような気がする。
まず、「がっちりと統制されたメディア」として、既存のマスコミがある。
そして、全く統制がない「BLOG」や「2ちゃんねる」みたいなものがある。
「オーマイニュース」をはじめとする「市民メディア」は、この中間にあるもの、というのがわかりやすいのではないか?
「統制されている」というのは、無駄な情報や、多くの人に必要ない情報、政府転覆などの社会危機を直接引き起こすような情報などは、制限されている、というメディアだ。このメディアでは、面白い報道、というよりも、正確な報道、というよりも「正しい報道」がされる。要するに「この事柄は良かったことです」「これは悪いことです」という「価値観」を、それを見る者に伝える(強制する)、というメディアのように思える。
対して、「既存メディア」への完全なるアンチテーゼとして、その対極に「2ちゃん」「BLOG」がいる。統制は一切ない代わりに、その「意見」「価値観」が、メジャーなものである、マジョリティの考え方である、という保証はどこにもない。そこには情報への不安がたくさん詰まっているが、一方で、それだけ自由である、とも言える。
しかし、人間というのは極端にはあまり耐えられるものではない。いい加減なことがあってこそ、人間の社会の個性、多様というものが生きていく。
そこで、その中間の「適当に信頼できる」「少々の自由もある」メディアが求められてできたのが「市民メディア」なのではないか?
投稿者 nori-m : 08:35 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月05日
アートカフェ1107への道
なくなってしまった恵比寿アートカフェ1107。
そのお店へ入る。
やぁ、と、マスターが声をかけてくれる。
緊張がほぐれるその瞬間。
投稿者 nori-m : 10:24 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月04日
アンテナ
e-mobileを使って2日め。
東京都内では、という限定だが、かなり多くの場所で、思ったよりも確実につながる。
付属品で外部アンテナがついてくるのだが、これをつけると、たしかにかなり感度も上がる。
付属品以外のアンテナをつけるのは、違法だけれども、もしつければかなり感度も上がり、サービスエリアも広くなる感じがする。付属品以外の別売りの純正の高感度アンテナ、なんてのはあったほうがいいだろう。
しかし、それでも、韓国で使ったNESPOTよりも、まだ「遅い」のだ。料金もそんなに変らない。
日本はかなり早い段階から、携帯電話が普及した。これがあるために、おそらく都市部を拠点に動くホワイトカラーのビジネスマンの多くが、歩きながら電話をする、というやり方を覚えた。今まで労働時間ではなかった時間が、労働時間に変った。明確な調査結果はないけれども、日本人のビジネスマンの労働生産は、これでかなり上がったのではないだろうか?
日本でNESPOTのような「どこでもPCでモバイル」という環境が、月額数千円の範囲内でできるかどうか?これは、そのまま「労働時間」にかかわり、それがひいては国際競争力にもかかわってくるものではないかと思う。
e-mobileも結構ではあるのだが、やはり網の目のように広がる「公衆無線LANスポット」が、やはり欲しくなる。
投稿者 nori-m : 07:56 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月03日
e-mobileにしました
今までは、お外でネットというと、Willcomのお世話になっていたのだが、今日、Willcomからe-mobileに変えた。
7月1日から「ライトプラン」というのが始まっていて、あまり使わない月では3千円台、使う月でも5千円台、という通信費用で済む。サービスエリアが狭いのが玉に瑕だが、これからは広がる、と言われているし、まぁ、それに期待するか、ということだ。
しかし、下り最大3.6Mbpsの通信速度は、とんでもなく速い、というわけではないが、普段からブロードバンドといえば、うちのマンションはADSLしか手段がないから、要するにそれと同じくらいの速度なのですね。とりあえず十分、という感じだろうか。
少なくともWillcomと比べて、通信費用対速度のコストパフォーマンスはいいほうではないかと思う。実はPDA(というか、スマートフォン)も、同社の製品にはあるのだが、画面やキーボードの大きさなどの利便性からいうと、やはりいつもPCを持ち歩くことになるので、ぼくの場合はデータカードにした。
使ってみた感想はといえば、やはりよくできていると思う。なによりもサービスエリアの中では、ほとんどの場所でつながる、というのがいい。
昨日、オーマイニュースに韓国の無線LAN事情について書いて記事になったが、日本ではこのe-mobileは、その公衆無線LANネットワークの代わりとして、悪くない選択のように思う。でも、既存の無線LAN環境との互換性はないので、端末側の設備に新たな出費が必要になることなどは、やはり問題があるとは思うけれども。
投稿者 nori-m : 23:24 | コメント (0) | トラックバック
嫌韓
ところで、先日ソウルで開かれた「国際市民記者フォーラム」では、日本の市民記者を代表して、私がスピーチをさせていただいたのだが。。。。
正直言って、スピーチそのものは自分で考えてもあまり出来がよくなかった。言い訳はいろいろあるけれど、一言で言って「アガってしまった」のだ。
いろいろなことを話したのだが、スピーチの中に秋葉原のことも入れておいたので、休日の歩行者天国の秋葉原の様子の写真をスライドショーにしてお見せしつつ、お話をした。
また、日本のネット社会ではびこる「嫌韓」についても、少々話した。その部分が気になる方もいると思うので、以下に抜き出してみた。
On the other hand, anti-Korean sentiments are flourishing among Japanese netizens and some groups are even trying to promote these movements. Uproar caused by historical disputes are also contributing to alienating the two nations. But, through our collaborative reporting, I could reconfirm the fact that Korea and Japan are very close countries. ‘Korea-Japan, Making friends’ was also an opportunity where we could get to know each other more and enjoy our friendship.
要するに、日本ではこういう動きもありますよ、という程度のことだ。これは全体の文章の1/10くらいの部分だ。
後で、オーマイニュースのオ・ヨンホ代表が日本語で話しかけてきてくれて、「三田さん、今回は日本語の設備がなくて、すみません」と言ってくれた。今回は、通訳システムはあったし、同時通訳もいたのだが、日本はあくまで多くの国の1つ、という扱いなので、英語か、現地の韓国語以外の通訳は、個人的な言語能力に頼るほかはなかった。また、パーティではいろいろな国の人とお話をしたが、どの国の人とも、英語でのコミュニケーションとなった。
しかし、多くの韓国の人たちはかなり日本語に通じている。日本で韓国語を話す人は、最近の「韓流」ブームでやっと増えてきたが、その比ではない。なにせ、ちょっとした都市には、数百メートルに一軒くらいの割合で日本語学校があったりすりような、そういうところもあるのだ。ビデオのレンタルショップみたいな繁盛のしかただといっていい。
総じて、韓国の人たち、特に学歴のある人たちは日本をはじめあらゆる国の人たちに対して、ニュートラルな立場をとっている。オーマイニュース社内にも日本語を話す人は多くいる。オ・ヨンホ代表も、昨年は日本語はそんなにうまくなかったが、日本語はかなり勉強したとのこと。実際、今回の彼の日本語は本当にうまくなったと感じた。
しかし、日本人の英語能力は低い。また、日本は世界に冠たる強大な国力を持つ国でもない。だから、世界に出て行くときは、英語は必須になる。英語は「弱い国」どうしが世界で使う「事実上の世界語」と言っていい。そういえば、先日行ったフィンランドでも小学校2年生くらいから本格的な英語の授業があり、あの国では子供でも、花屋のおねえちゃんでも、英語で話しかければ英語で答えてくれた。
日本はTOEIC平均点で順位をつけると、TOEICをやっている国がおよそ150か国あるのに、だいたい130位くらいをウロウロしている。アジアの国で見ると、下から二番目だ。そして、アジアでの最下位は北朝鮮だから、これは日本が事実上の最下位と言っていい。韓国はこのTOEICの順位でいけば上から2番目だ。そして、韓国では警察官になるにも、これらの英語のテストでの高得点は必須となっている。
対して、いま、社会人入試をやっている大学の大学院では、少子化から生徒を集めねばならず、そのため、入試の敷居を低くするために、英語の試験をやめるところもあるという。
日本はやがて置いていかれる。
「国際会議」というその場に実際に行って、そういう感慨を持ったのは、きっと、ぼくだけじゃないと思う。
投稿者 nori-m : 10:13 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月01日
国際市民記者フォーラムから帰ってきました
ソウルで開かれていた、国際市民記者フォーラムから昨日帰ってきました。
フォーラムの中で話したこと、話されたことは以下の記事にあります。
ということで、ここでは街の様子の写真を。。。
投稿者 nori-m : 13:16 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月29日
韓国で市民記者フォーラム
韓国はソウルに来ています。「国際市民記者フォーラム」に出席しています。
このフォーラムは、世界の市民記者がそれぞれの国から来て、親睦を深め、他国の事情を深く知ろう、という趣旨で毎年行っているものです。
私もとりあえずは「オーマイニュース」で市民記者」をしているので、いろいろと話をしにきました。
いま、会場ではオーマイニュースのオ・ヨンホ代表がお話をしています。
昨日は、インドとパキスタンの市民記者が私の横で壇上に並び、それぞれの国について話しました。
いま、「説明責任」の話しをしてますね。
誰に対する説明責任か?とか、誰がそれを指摘してみているのか?とか?ぼくらは「説明責任」ということばをけっこう軽く使うことがあるけれども、いま、ここで話されていることは、実は既存マスコミと市民メディアでどのように「説明責任が違うのか?」とか「その重さは違うのかどうか?」など、かなり深い問題につっこんでいます。これは面白い。
「News as a conversation」
この最後のことばが、印象に残る。ネット時代の「ニュース」を象徴している。
投稿者 nori-m : 09:22 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月26日
戦争の話とNHKの話
明日から4日間、韓国だ。
韓国は仕事で何度も行った。そのあいだに、板門店に行き、慶州に行き、日本の天孫降臨伝説の元になった、という金海(Kimuhae)の空港近くの王墓にも行ってみた。いや、まだ忘れているかも知れない、韓国の中のいろいろな場所に行った。仕事の関係の人たちに連れて行ってもらったことも多い。
韓国の歴史的な遺構や場所に行くと、いろいろな伝説が数多くある。豊臣秀吉の朝鮮半島への進出の時の話も数多くあるが、それが長期に渡ったため、けっこうあちこちで語られている。その中には、日本を悪く言ったとは思えない、むしろ好意的なものさえ含まれる「伝説」がある。
当時の戦争は今に比べればはるかに原始的だ。人対人であり、休戦も多くあり、長期(数年とかときには数十年)にわたるものが多かった。だから、その休戦中に、敵味方の男女が恋仲になったり、夫婦になったりするようなことがけっこう普通にあったらしく、そのための「悲恋」のものがたりが数多くある。当然、結婚の宴席はじめ、多くの場所で敵味方が仲良く席を供にすることも、かなりあったようだ。
「結婚そのものが戦争みたいなもんだからね」というような下馬評はそこいらへんに打ち捨てておくとして、昔から戦争は権力者がはじめるものと決まっている。「庶民の歴史」から言えば「それにかりだされているに過ぎない」ということになる。権力の作る「敵像」みたいなものは、要するに権力者のためのものであって、それに「乗る」のは、ばかばかしい。
戦争には、実は「国」とか「思想」の対立はもともとはない。それは見方側の結束をつくるための「宗教」として「戦争をやって儲けたい人」たちに作られたものだ。
「戦争なんかしなくてもいいのに」という庶民と「戦争をやって儲けたい人」のあいだにこそ、真の対立軸があり、その間に戦争の真実がある。これが、昔も今も変わらない「戦争の真実」だろう。
振り返って、オーマイニュースにNHKのことについての「記事」が載っている。
いつものようにコメント欄には、あーでもない、こうでもない、と、罵詈雑言、揶揄をもっともらしく繰り返す人間がひきもきらない。でも、ぼくもコメントに書いたのだが、そんなことはどうでもいい。いま、ぼくとその周りの人間はテレビを見ないし、新聞を読まないのだ。みんなネットですましてしまう。
1997年にNTTは個人向けでも大丈夫、という価格の「OCNエコノミー」という常時接続のインターネット接続プロバイダを始めたとき、真っ先にそれに飛びついた。速度は128kbps。グローバルIPアドレスもついて、価格は月額¥36,000-。
それ以来、うちはすべて常時接続だった。結果はこの価格でも十分にペイをした。なにせ新聞はもうとらなくていいわけだし、情報がとにかく早い。特に米国のIT関連(当時はITという言葉はなかったが)の情報は早く手に入った。
そして、今は光ファイバーの時代に入った。
すでに光ファイバーによるIP網でVoIPのみならず、テレビ放送の視聴や、VODも可能になった。そろそろ、「放送」という旧メディアにはご引退願っても、我が家は少しも困らない。やがて、多くの世帯が同じようになっていくのは目に見えている。これで放送すれば、受信料を払わない世帯ではNHKが見えません、という制限だって、現在のデジタル放送以上に簡単、かつ安価にできる。
テレビの受像機も、すでにPCに置き換わろうとしている。そして、PCを使う以上、ネットの接続がされる。1つの画面で、テレビ放送とネットの情報が簡単に比較できる。そして、テレビを見る人はほんのひとにぎりになる可能性は十分にある。「権力」の象徴である「放送」の受像機機能そのものが、やがてPCでは必要なくなっていく。
ネットがこれだけあたりまえになったいま、テレビの役割は「社会的コンセンサスの学習」以上の意味はない。いま、なにが面白いと言われているか、とか、そういう情報だ。しかし、その役割もやがてネットが吸収していくことだろう。
いまや放送とは「ネットにアクセスできない人のための情報源」だ。ネットを利用するリテラシーの低い小学生とか、老人のためのものであって、いい若いモンはみなネットで情報を取り、ネットで、ケータイで、忙しい毎日を過ごしつつ、道を歩きながらアクセスをする。
なぜって、自分ひとりでゆっくりする時間がほとんどないんだから、テレビをゆっくり見る時間がもったいないから。
「放送はネットが殺す」。そういう時代なのだ。
投稿者 nori-m : 07:50 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月24日
Chicago
久しぶりにDVDでChicagoのライブ映像を見た。もちろん、あのかつての「ブラス・ロック」って言われた時代の、ね。
2000年以降のライブステージだからみんないいオジサンだが、こういうライブをみていると、結構元気が出てくる。音楽の内容も、やはり当時から今まで、かなり複雑な構成だが、こういう音楽は「理屈っぽい」とか言われて、今は流行らないんだろうなぁ。
25 or 6 to 4(邦題:長い夜)なんかは、やはり最初のあの音のインパクトは今はないけど、やっぱりあれを聞かないと「Chicagoを聞いた」って気にならないから、不思議なもんだ。
投稿者 nori-m : 15:54 | コメント (0) | トラックバック
報道する側とされる側
報道する側ってのは、要するに「権力」そのものだ。
自分の持つ考えがどうであろうと、報道機関というところにサラリーマンとして所属していたり、その機関からお金をもらって商売をしているのであれば、当然、「報道機関」と言う名前の権力の側に、自分の身を置いていることを自覚し、そのことにいつも緊張感を失わないでいてほしい、と思う。
しかし、人間は長くその環境にいると、それが当たり前だと思って行動してしまう。人への思いやりも、弱い人間への配慮も、その権力で踏み潰してはばからない、そういう「マスコミ人」のなんと多いことか。
報道といえど「売れるもの」を作らなければならない、という商売だ。その商売のためにはなにをやってもいい、ということはない。
投稿者 nori-m : 09:24 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月21日
「無料」無線LANスポットの記事について
とんでもない「記事」がオーマイニュースで出てきた。そして話題になっている。その記事がすごく良かったから、ではない。あまりのレベルの低さと常識の無さに、だ。
その記事の異常さはリンク先を読んでもらえばわかる。「Yahoo!の月額500円の無線LANスポット利用料を払っているのだから、その無線LANスポットであるマクドナルドの店内で、なにか飲食物を頼まないと、無線LANの利用ができないのはおかしい」、という趣旨だ。
無線LANスポットを使うことと、マクドナルドの店内に商品を頼まないで居座ることとは別だ。ほとんど常識だと思うのだが、この記者である一柳さんは、そういう常識をお持ちではないらしい。
で、この記事があちこちのBLOGで炎上中なのだが、彼女自身のBLOGでも、多くのコメントが直接彼女に向けてされている。が、一柳さんはそのコメントとかトラックバックを端から削除しているらしい。おそらく、このトラックバックも消されることだろう。
非常識の上に非常識の上塗りをしている感じもする。
人にはいろいろな考え方があって当然だし、気になるイヤなやつ、ってのも、この世の中に生きている以上、誰にだってある。だから、自分の意見を言うだけじゃなくて、他人の意見も見てくれ、という意味もあって、ぼくは「かなりひどいこと言ってるなぁ」と思うようなトラックバックやコメントがされても、とりあえずそれは残しておくことにしている。
その内容が罵詈雑言だけで構成されているようなものであっても、それを言うことは、言った人にすべて返ってくるものだ。口汚くの罵れば罵るほど、罵ったほうの人の人格が疑われる、というものだからだ。しかし、彼女がそういうトラックバックやコメントを「無視する」と宣言して消せば、結局はまた炎上中のその記事に、油を注ぐことになる。実際、そうなっている。
彼女の非常識は、ごく簡単にまとめれば、こういうことだとぼくは思う。
1. 記事そのものの内容の非常識。
2. その記事に反応した人たちに対する態度の非常識。
そして、なによりもこの記事を記事として取り上げてしまったオーマイニュース編集部そのものが、実は一番恥をかいているように、ぼくは思う。どんな記事であっても、市民記者の書いた記事は、編集部によって選択され、内容をチェックされ、その後に記事としてサイトに載る。つまり、おかしな記事が出たら、それは編集部の責任でもある。
どうも、ぼくは編集部が意図して「なんでもいいから、アクセスが上がればいいのだ」と思ってこの記事を出したようには思えない。おそらく「こんな考えの方もいるのですよ」ということを、ごく簡単に紹介した、というつもりだったのではないか。たしかに、常識はずれではあるものの、また、ぼくの感覚からすればその一柳さんの記事の趣旨には、ひとカケラの理もない、とは思うものの、この広い世の中には、彼女の記事に共感する人とかもいるかも知れない。いや、いるとはまるで思えませんよ。ぼくは。でも、いるかも知れない、ってことは否定できない。
で、そういう「はなはだしく違った意見」を出してみた、というつもりだったのではないかな?
しかし、オーマイニュースのPVはこの記事で上がっただろうと思うけど、それと引き換えに、オーマイニュースはなくしてはいけないものをなくした感じがする。それがたとえ一時の「判断ミス」や「軽い気持ち」の結果であったとしても、多くの世間の人はオーマイニュースという「市民メディア」のへ信頼を、大きくなくした、という感じは、やはり否めない。
後でもいいから、編集部の中の人が「あの記事を載せたことは誤りであった」などの一言が公式にあるだけでも、こういう場合はいいのではないか。編集部は編集部として、そういう決着を、やはりつけておくべきなんじゃないかな?ダンマリじゃなくて。と、ぼくは思うけれども。
特に、オーマイニュースには、それが韓国発のメディアである、というだけで、あることないことを罵詈雑言の限りを尽くして攻撃するような人たちがウヨウヨいるわけだ。彼らはどんな小さな傷口も引き裂いて大きくしようと手ぐすね引いて待ってるわけで、こういう連中への対処としても、編集部の毅然とした態度が、やはり必要だと思う。
人のやることに完全はないし、いい加減も手抜きも当然あることだろう。仕事であっても、いつもフルで緊張していられる、というものでもない。でも、「こりゃ、間違った」と思えば、やはり「間違ったな」という自分の意見をちゃんと表明しておかないと、後々、尾を引く問題に、こういうことはなる可能性がある。
気象庁でさえ、入梅の時期を間違えた、すみません、なんて言う時代なんだから、謝ることはダメージでもなければなんでもない。やはり言うべきことは言っておくべきだろう。
あとは誰がなんと言おうと、時の流れだけが最後の判決を下すのを待つだけだ。そのときに残るのは、きちんと通した「筋」だけしかない。
しかし、一柳さんと言う人は、いったいどういうつもりであの記事を書いたのか?ぼくはいまだにわからない。
世の中ってのは、わからないことだらけだよ。明智君。
投稿者 nori-m : 19:21 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月20日
空の色
空の色が、今から気になる。
まるで、日本の空ではないような、そんな明るい空の色だ。たしかに、昔の日本の空の色とは違う。熱帯とか亜熱帯の空の色。
投稿者 nori-m : 05:30 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月18日
ハッキングの手口ってこんな感じ
実はこの週末、自分のサーバのメンテナンスに追われた。システムにハッカーが侵入してきて、ちょっと派手に動き始めてから数週間がたっていたので、そろそろ追い出しにかかるかな、ということと、OSのアップグレードが目的だ。
ここにこういう話題をリアルに出すのは、実ははばかられる場合もあるだろう、とも考えた。しかし、この種のネガティブ情報は、口頭レベルでは、日本のかなりの多くのシステムが被害にあっている、という話を聞く。しかし、いくらネットを調べても、その詳細な情報はなかなか見ることができないため、ハッカーのやる手口の全貌を見ることは非常に少ない。予防しようにも、その方法がわからない、ということがとても多いのだ。
そのため、ハッカーの実際の行動や詳細な使ったプログラムなどの情報を知る機会が少ない。従って、それを予防するほうも、実際に被害に会ってから、やっとそれがわかる、ということが多い。しかし、このままこういう事実を公開せずに隠していては、被害は拡大するばかりだ。
そこで、ここではあえて、できるだけ詳細にハッカーがどのようにしてシステムに侵入し、そこでなにをするのか、ということを、実地の例でここに書きとめておくことにした。そのためあえて詳細な情報をここに載せることにした。
ただ、このような情報がなぜ表になかなか出ないかと言うと、多くの場合は「システム屋としての恥」と、みながこういうことを考えるからだと思う。しかし、そうは言うものの、名高いかなりベテランのSEの管理するシステムでも、この種のハッキングの事故は結局は起こっていることが多いのも事実だ。また、この記事についていろいろ言う人はもちろんいるだろう。でも、その多くの人が自分が出会ったその種の事故を公表しているのを見たことがない。当然のことだが、社内SEや社内管理者をしていたりすれば、顧客のところなどでのこの種の事例を表に出すことはできないから、それは当然のことだ。だからこそ、なおいっそう、こういった「個人的事例」は、出すことができればより詳細に出したほうが良い、と考えた。
また、これらのやりかた(この一部、というのも含む)でのハッキングを常にしている人間は、この記事そのものを葬りたいことだろう。だから、あることないことを言ってくる可能性も、ないわけではない。この記事への批判を書く他のサイトもあるかも知れないが、それは別の意図でされている可能性もないことはない、その疑いがある、とだけ言っておこう。
まず、ハッカーくんは、まず私の本を読んだかも知れない。
実は、私の書いた本のうち「qmail完全解説」を読むと、私のシステムのどこに「簡単に入ることができるアカウントがあるかどうか?」ということがわかる。つまり、セキュリティホールがある。これはかなり前に気がついていたのだが、私のシステムの場合は、ハッカーがそこに至るまでにいくつかのバリヤがあるから、そのセキュリティホールはそのままにしておいた。おそらく、私のシステム以外でも同じような程度のセキュリティはしているはずだ。つまりこの程度のセキュリティホールがあっても、通常はほとんど問題が出ない。
具体的に言うと、qmailをインストールするとき、qmail専用のユーザができる。これを、上記の書籍ではRedHat系のUNIXでは「adduser(useraddでも同じ)」コマンドで行う。このとき、adduserコマンドをそのまま使うと、「ホームディレクトリ」と「初期起動シェル」を指定することがある。そのため、このアカウントの設定をそのままにしておくと、sshやtelnetなどを使ってプレーンテキストでのログインが行われた場合、そこに入ることができることがある。これは、RedHat系Linuxだと、/etc/skel以下のディレクトリの情報を参照して、adduserがユーザアカウントを作成し、かつ、デフォルトのログインシェルが指定されている場合、こういうことが起きる。しかし、telnetをデフォルトのポート21で使えるようにしているとか、sshをプレーンテキスト認証で使えるようにしているとかの場合は、大変に危ない。RedHatのデフォルトでは、これらのログインしてターミナルの使用ができるプログラムを外部からアクセスできる穴は通常ふさいであるから、問題はほとんど起きないのだが。
もし、これから上記の書籍(だけに限らないが)でqmailサーバの設定をしようと考えている方がいれば、この点を気をつける必要がある。具体的には、qmail用の各ユーザ(あるいは他のコマンドのために必要とされるユーザ)を作った後、ログインシェルを「/sbin/nologin」にしておく必要がある。当然のことだが、qmail以外にも新しいシステムやサービスをインストールするたびに、新しいユーザアカウントが自動的にできていることがある。これらのアカウントは同じように要注意であることは言うまでもない。
こうやってできた「ユーザになれる穴」から入って一般ユーザになったハッカーは、次にはrootのパスワードを盗むことを考える。具体的には、snf.cという名前(あるいは類似の名前のことが多い)の5KBほどのC言語プログラムをコンパイルして作り、このマシンのネットワークでやりとりされるデータ列を自分で作ったディレクトリのファイルにためる。これらの作業中、ハッカーは自分がログインしていることを隠すために、「who」コマンドでログインユーザを調べられないようにしていることが多い。ここで、ハッカー侵入の兆候を掴むのは、比較的簡単だ。自分もログインしているのに、whoコマンドの出力が出てこない場合は要注意、ということだ。これは具体的にはutmpファイルを消去する事によって行われる。ハッカーが侵入の行為の最初で、自分の身を隠すためによく行う行為だ。
もちろん、自分がログインしている形跡だけを消す、という高度なこともできるわけだが、ハッカーは通常そう言う細かいことに時間を費やすことはできない。この段階では「何時見つかるかもしれない」という「怯え」が、ハッカーにはまだあるから、できるだけ最小の時間でコトをすませたいと考える。そのため、こういう荒っぽいこともする。ハッカーの侵入が管理者にわかるのは、大方このあたりからだ。
このsnf.cは通常「スニッファ」と呼ばれているプログラムだ。そして、2~3日して、ハッカーくんはこの「スニッファ」でできたファイルを再びログインして取りに来る。そして、その中には、うまくいけばrootのパスワードが入っている、ということだ。これが暗号化されている場合は、暗号を解くプログラムにかけて、rootのパスワードを横取りする、ということになる。
ここで、rootのパスワードを取ることができたハッカーくんは、あとはやり放題である。システムを止めて管理者をあわてさせる、なども自由自在だ。
しかし、愉快犯であればそれで終わりだが、なにかの情報を取ろうとしているハッカーくんの場合は、システムに深く静かに潜行して、情報を取り続けなければならない。今回はどうやらその類のハッカーくんだったらしい。
この場合は、まず、自分がこれから先rootでログインできない状態を作らないために、いくつかの「バックドア(裏口)」を仕掛ける。ハッカーくんが入ってくる経路をいくつか隠密裏に作るのだ。
最初は、隠しアカウントをいくつか作る。vipwなどで編集される/etc/passwdファイルそのものが別のものになるように、システムを書き換えたりする。
また、自分がログインしている状態を見られないように、最低限、以下のことをする。これは最低限であって、もちろんこれ以上のことがされていることがあるのは、もちろんだ。また、これらの作業をするエディタも、エディタの起動を見られないようにするために、自分で持ち込む。多くは「pico」などの小さなキャラクタベースのスクリーンエディタを入れ込む。
- lsを新しいものと取替え、自分の作業しているディレクトリを見えなくする。
- psを新しいものと取替え、自分の作業しているプロセスが見えないようにする。
- netstatを新しいものと取替え、自分のコネクションが見えないようにする。
- 当然、プロセスを監視する「top」などのプログラムも改変し、自分が動かしているプログラムを見えないようにする。
これらのプログラムを動かすとき、「どのディレクトリを見えなくするか」などを指定するために、設定ファイルが必要になる(そうしないと、接続先が変った場合など、プログラムの再コンパイルが必要となり、コンパイル中に、そこで発見される恐れも増える)が、これらのファイルはすべて「/dev」以下に、他のデバイスファイルと似た名前のファイルを作って入れる。たとえば「ttyoa」「ttyox」などの名前にしていることが多い。もちろん、これ以外のディレクトリを使う場合もある。
また、これらのファイルがシステムのコマンドの上書きなどで変えられないよう、ハッカーくんは「chattr」コマンドなどで、これらのファイルを「消せないファイル」にする。UNIXを使い込んでいる人でも「lsattr」「chattr」コマンドは必要なことはまずないので、使ったことがない人が多いようだが、これらのコマンドを使うことによって、「rm」や「mv」では名前を変えたり消したりできないファイルを作ることができる。もちろん、cpコマンドでの上書きもできない。これを解除するには、lsattrコマンドで出てくるファイルの属性情報を、chattr -Vコマンドで書き換えてステータスをすべて消せばよい。
こうやって、ハッカーくんは自分の気配を消す。もちろん、これはひとつの方法であって、他にもいろいろな方法が併用されることが多いことは言うまでもない。また、ユーザIDはあるものの、vipwなどでも見えないユーザもハッカーくんが作る。ただし、通常はrootの権限を奪ってからでないと、それはできない。
最後は、ハッカーが入ることができる入り口としてのsshdなどのプログラムを常に起動させる仕組みを作る必要がある。これにはいくつか方法があるが、sshdが動けば、すぐにそれが見えてしまう。そこで、ハッカーはpsで見たときにps自身を改造して見えなくする。また、Linuxではプロセスの様子を/proc以下のプロセス番号のディレクトリで知ることができるため、ここを直接使うプログラムでは、プロセスを隠すことが困難になる。ハッカーがいるらしく、また、隠されているプロセスがありそうだ、という場合は、この/procディレクトリ以下を直接読んで、psコマンドと同じ働きをする自前のプログラムを作って、psの出力と比較する、などのことをして、psコマンドが改ざんされているかどうかを知ることができる。
そこで、ハッカーくんはsshdのプログラムを、よくプロセスとして常に立ち上がっている「smbd」などのプログラムに偽装する。今回は、コマンド列にブランクの文字列を入れたコマンド「smbd -D」という名前のコマンドを作り、それをあまり注意されないディレクトリに入れていた。これでpsで見ても、「smbdサーバが立ち上がっているな」ということが「見える」だけで、それが全く違うプロセスとしては認識できないことになる。実は今回はこの「smbd -D」という名前のファイルを見つけたので、stringsコマンドでこのプロセスのファイルを探索し、これがsshdを改変したものだ、ということがわかったのだが。
改ざんされたファイルを調べるとき、通常はOSのもともとのDistributionからコマンドのファイルを持ってきてこれと比較し、違うファイルであるかどうかを知る。また、stringコマンドを使うと、そのプログラム中に埋め込まれている文字列を知ることができる。今回調べたハッカーくんの作ったnetstatコマンドは、明らかに「/dev/ttyoa」という文字列を含んでおり、この名前のファイルには、多くの「見せたくない接続先」のIPアドレス等が入っていた。これもまた、chattrで「消せない」ファイルにしてあった。
また、今回は、ハッカーくんは最後に隠しユーザIDで隠しログインができるように、カーネル自身を書き換えた。特別なユーザIDを作ったのだ。このユーザIDでシステムに入ると、自動的にrootとしてログインできる。ご丁寧なことに、今回はカーネルのサイズも小さくして、起動も速くなっていた、というのは、ご愛嬌だ。そして、この新しいカーネルはinitrd(初期RAMディスク)の中でsshdを動かして、なにかのプロセスが起動されるたびに、この「新しいsshd」が起動できるようにしていた。
そこで、今回見つけた「smbd -D」という名前のsshdを動かせないように、そのファイルの名前を変更したところ、各プロセスが立ち上がる都度に「Command not found」が出るようになった。私のシステムは、毎日深夜に必ずリブートするようにしてあるが、そういったときでも、この方法ならバックドアは維持される、ということだ。
他にもxinetdで動くservicesやserversなどに、いくつかのバックドアが仕掛けてあり、ほとんどつぶしたのだが、このままではやはり不安は残る。まだ自分が発見できないバックドアなどもあるかもしれない。今回は仕事ではなく、技術的な興味もあったが、かといって時間は無限に使えるわけではない。このままにしておけばハッカーくんだって、この先なにをするかわからない。この時点で、システムをクリーンアップすることにした。
私はいつでもOSからのクリーンインストールができるように、いつもシステムのデータについてはバックアップがとってある(普通のシステム管理者なら、当たり前にやっていることだ)。もちろんハッキングのためだけではなく、HDDの物理的破壊などのトラブルのために、こういうバックアップをシステムの更新のサイクルにあわせて取っておくことは必須である。
ちなみに、自分のサイトで扱っているデータは画像などのデータを含め、数十GBはあるから、自分としては、これがなくなったら一大事だ。私が扱う客先のシステムでも、自分のシステムでも、バックアップは常に自動的・定期的に取る仕組みを使っている。
と、ここまで確認したら、ハッカーくんが残したすべての「ツール」を今後の向学のためにまとめてアーカイブにして、rootその他のパスワードを変更、加えて、既にログインなどまるでしていないユーザを整理し、すべてのユーザのパスワードを変更し、加えて、外部の自分が使っているSNSなどのパスワードやルータのパスワードも含めて、すべて変更し、最後にシステムのOSを最初からクリーンインストールし、バックドアになりそうなところを塞いだ。さすがに2002年から整理していなかったシステムは、いろいろなゴミがたまっている。
また、必要のないポートはルータのレベルですべて塞ぐ、等、とりあえずあたりまえのレベルの「ハッカー対策」をした。なお、私が管理している仕事先のサーバでは、もちろんこれ以上の対策をしている。ここは自分のプログラムの実験場でもあるので、あまりガチガチにはできない、という事情もあり、もともとセキュリティはわざとゆるくしてある。そのため、メールのデータなどはこのサーバには一切ためないよう、気をつけている。
え?どこから「ハッカーがいる!」って、兆候を掴んだのか?って?
ハッカーくんには、そこのところが一番気になるところだろう。でも、これはここでは教えないことにする。あしからず。システムをよく知っている管理者であれば、ここまでの記述で、どこで侵入に気が付くことができるか、というのは、大方おわかりだろう。
しかし、ハッカーくんはなんのために来たのかな?システム破壊ではなく、情報収集か、あるいは、なにかに使うために?いや、これは利用方法はいろいろあることだろうが、それを詳細に探求することができるほど暇でもない。
冒頭の文の繰り返しになるが、こういうことを書くと、必ず「そんな情報は恥ずかしいから出すな」などと言ってくる人間もいる。おそらく、自分がやっているハッキング行為を隠すことが目的なのかも知れない、と疑えばきりがない。
こういったシステムへの侵入行為を発見したり減らしたりするには、これらの詳細な技術情報を、このように公開することこそが必要なことであって、それを「恥ずかしいから」といって隠せば、より多くの被害を生むことは必至だ。もっと、日本のシステム管理者はこのようなネガティブ情報の詳細を、ちゃんと公開で語り合える場を、多く持つことが、このような不正なシステムへの侵入行為を減らすためにとても必要なことだ、と、私は信じている。
だからこそ、ここに、これらの情報を公開する。当然のことながら、こういった事例はIPAなどにも通報し、より多くのシステム管理者にこの「ハッカーの手口」に関する情報を共有してもらうことを、私は望む。
---
なお、本件はすでにIPAセキュリティセンターに通報済み。
---
【追伸】
このエントリーには、いくつか細かい間違いがあることがある。しかしそれは見つけたその都度に修正を入れることにしている。たとえば「stringsコマンド」を「srringコマンド」として書いたことなどは、単純なケアレスミスだ。これは、この追伸を書く時点で既に修正を入れておいた。また「adduserコマンド」と「useraddコマンド」は、本体であるuseraddコマンドにシンボリックリンクをしてadduserコマンドとして使えるようにしてある。だから、これは個人的にどちらを使うか、という程度のことであり、ミスともいえない。これらの「小さなミス」「小さな不正確」があるから、全体がおかしい、というような書き方をする人たちがネットには数多くいる。その昔、1950年代から使われてきた「相手のすべてを否定するため」に使われる、使い古されたレトリックだ。
しかしながら、ここに書いてあることは、筆者自身がこの手で触ってきた事実そのものだ。そして、それが現在のセキュリティ関連の勉強をしている技術者に、なんらかの手助けになれば、ということでこの文章を書いている。小さな間違いのみならず、大きな間違いも誰にでもある。重箱の隅をつつき、小さな間違いをあげつらって文章全体やそれを書いた筆者そのものを否定する、という「騙しの手法」には耳を貸さず、この文章の意図と内容を、しっかりと読み取って、勉強の一助としていただければ幸いだ。小さなことにかかずらわらないで、その裏に隠れている大きな本質を読み取ることこそ、必要なことだ。
投稿者 nori-m : 09:48 | コメント (1) | トラックバック
2007年06月14日
テレサ・テン
この前、有田氏の書いたテレサ・テンの伝記(「私の家は山の向こう」 - 文庫版)を読んだ。
彼女は、若くして死んだ。
その本を読む限りにおいては、彼女が死んだのは、あくまでも天安門事件で歌うことが気持ちとしてできなくなり、その心労から体をこわして死んだ、ということになる。
実際にそうであったのかどうか?
彼女を語ることができる多くの知人、友人は彼女がいなくなるのと相前後して、みな死んでしまっているか、行方不明になっている。
つまり、結局のところ、本当のところは誰もわからない。
そんな読後感が残った。
投稿者 nori-m : 13:22 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月13日
雨が続きます
昨日まで「晴れ」で、暑い日が続くと思ったら、今日は最初ちょっと照っただけで、あとは雨が時々降る、いかにも梅雨らしい天気だ。
いろいろご不満もある方もいるようだが、ちょっとは我慢が必要かもしれない。
そろそろ、はじめるかな。
投稿者 nori-m : 19:11 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月12日
トビ
トビも撮ると面白い。
これはえさを取り合って、空中で喧嘩したところ。
投稿者 nori-m : 20:46 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月11日
CMSは使えるか?
先週中ごろから、この週末にかけていくつかの有名なCMS(Contents Management System)を、実際に自分のサーバにインストールして調べた。いずれもオープンソースのものをLinuxサーバに入れたのだが。。。
「ホームページが簡単にできる」という触れ込みのCMSだが、その最初の設定はどのCMSもかなり難しい。特にUNIXのシステムをよく知っていて、phpなどの言語の理解がある人でないと、設置は難しいことが多い。ちょっと環境が変わると、すぐにだだをこねる、という印象がある。この原因をすぐに突き止め、CMSのシステムそのものにバグがあるのかどうか?などがすぐに判断できないと、実は設定の時点で大変な時間を食うことになる。
いま、ネット上で一番有名なものはGeekLogだが、これは画面の構成からして、企業向けのサイト構築ツール、というよりは、BLOGの延長に近いものだ。トラックバックなどの互換性はBLOGとあるし、コメント欄もあり、常に書かれる「記事」が中心だから、個人的なグループのニュースサイトにはいいかも知れない。ただ、デザイン的にはいま1つ、というよりもいま3つくらい見劣りがする。
どのCMSも、ほとんどがphpを使って構築されている。しかし、phpはもともと日本語をちゃんと扱えるようにできていない。だから、インストール時のつまずきから、運営時のトラブルに至るまで、小さなことではあるかも知れないが、常に文字化けなどのトラブルに悩まされる。ものによっては、表示できないどころか、データの表示やデータの内容がごちゃごちゃになることもある。
さらに、データベースにはMySQLなどが使えるようになっているが、本来であればこれらのデータベースの設定がどんな設定であろうと、使えるようにしておかなければならないのに、実際には、ちょっと設定が違う、というだけで使えないことがとても多い。特に使用言語の違いは、php、データベースともにとても大きなものだと言わなければならない。
根本的な解決は、phpそのものを完全に日本語対応することだ。おそらく、phpが使われる場面が大変に多くなった昨今では、完全日本語対応phpを商品として出すだけで、かなりの需要があるのではないだろうか?これはMySQLなどのDBについても言える。
ところで、デザインとしてかっこよくできる、という意味ではJoomla!なんかはお勧めかも知れない。だが、こちらはphpの日本語の対応のところでつまずくことがやはり多い。
どのCMSも「情報系」のものが多く、私のように写真を多く撮る人間の「写真系」「芸術系」は、ほとんど無い、というのも面白くないところではある。
現在のCMSは、いずれも現在は同じようなものが多い。しかし、これからは「汎用のCMS」だけではなく、EC向けとか写真向けとか、いろいろな専門に特化して、いろいろな方向に進化するのではないか。
しかし、システム構築をする側から言えば、現在のCMSのほとんどがphpベースであって、そのphpの処理で文字コードなどですぐに「T-STRING」のエラーなんかを出す、というのは、CMSの問題ではなく、phpの問題であるにせよ、なんとかしてほしいところだ。
サーバにUploadされたプリチェックのときに、phpの言語ファイルの文字コードチェックなどを入れるだけで、ずいぶん違うと思うのだが。
いずれにしても、「仕事で」CMSに今は手を出すべきではない、というものではないが、かなりの投資を食うものであることはたしかだ。つまり、CMSがあっても、客が集まるわけではなく、あくまで「既にお客がある」ことが前提で、そのときのサイト構築に多少お金がかからなくなる、という程度の「助け」しかCMSは経済的にできないからだ。
ITシステム全体の費用のうち、開発費は人件費だけれども、CMSだと同じ程度のシステムを約1/3くらいの工数でできないことはないだろう。しかし、たとえば3年、というようなタームで見た場合、その開発費は全体の費用から見れば微々たるものになる。それ以外の費用の大きさに比べれば、CMSで削減できた費用など、会社全体の費用から見れば別のところで簡単に削減できてしまう。
CMSを使うには、各種のCMSを実際に使って知っておき、顧客に最適なCMS選びからシステム構築を始める必要がある。1つのCMSだけに依拠することはリスク分散の意味からも得策ではないだろう。だから、最初の段階で多くのCMSを手に取る、という時間がかかる。これへの初期投資がかなりものになるのではないだろうか。
まずは手軽に自社のサイトを立ち上げて、とりあえず恥ずかしくない程度の見栄えのするものにしたい、とか、お金はないけど、自分たちのコミュニティを立ち上げたい、という場合は、このCMSはけっこう役に立つ。しかし、大規模な開発でこれを使うものではないように思う。ということは、「商用のCMS」は、自己矛盾なのではないだろうか?いや、自己矛盾でも売れればいいのだが、なんだかターゲットを間違えているような気がする。
投稿者 nori-m : 05:57 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月07日
もうこんな季節か、と。
思った。
投稿者 nori-m : 20:43 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月04日
「まず法律ありき」で物事を考えることの愚
特許、著作権などの知財を語るとき、必ず出てくるのは「それは適法かどうか」ということだ。しかし、それはかなり重要なことではあるけれども、現代のように複雑な社会では、法文そのものが古くなっていて、その法律を作った時点と現在では、その解釈や存在意義が変わってしまう法文ってものもある。
ある法文を杓子定規に当てはめると、いろいろ齟齬が起きることがある。こんなことは日常的に起こる、と言ってもよい。そんなときは、その法ができたとき、なにを考えてその法を作ったのか?という根本に帰って、法を適用することを考える必要がある。
たとえば著作権法の前文には、この法律がなんのためにできたのか?ということが書いてあるが、そこにはこうある。
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
つまり、目的は「文化の発展に寄与する」ことであって、それ以外ではない。
たとえば、すばらしい絵画があったとして、その絵画を、お金をとってコピーして皆に見せ、そのお金は絵画を描いた人やその絵をみんなにみてもらう仕事をする人に渡して、さらに人々が心をゆたかにする、というのであれば、その絵画の著作権は守られてしかるべきだろう。それならば、きっと文化の発展に寄与することになる、と言っていいからだ。
しかし、そんなに文化的にすばらしいものを、描いた本人が「どうだ、いいだろう!」と自慢はするが、一切のコピーの配布を認めず、ただただ大金を積んだ人だけにその絵画を見せましょう、ということをしたのだったら、それは「文化に寄与した」ことになるだろうか?「全然違う」とは言わないけれども、最低でもクエスチェンマークくらいはつくだろう。
法律といえども、人間が作ったものだし、人間も人間の社会も移り変わる。だから、法律もまた、その時代にあわせて変更されなければならない。そして、人間は法に逆らうことは許されないと同時に、その法が時代や状況にあわないものであれば、その法を変更することもしなければならない。
そしてなによりも、法の執行がされるその場で、この「立法の精神」そのものが、一番重きを置かれなければならないものである、ということは再確認する必要がある。
この立法の精神を忘れた法の適用があるとすれば、それは「羅針盤の無い船の暴走」のようなものだ。エンジンは動くけれども、どこに行ったらいいかわからない、という状態だ。そして、自分の生きる目的が見出せない人ほど、「法に自分は従っているかどうか」ということを気にして気にしてしょうがないらしい。
ぼくらの社会は、法によって人々が動くことが当たり前になって、ずいぶんたくさんの時間がたってしまった。だから、多くの人は「法」を神様が作ったもののように思っていることがとても多いのではないか?
ほんらい、「法」は人間が作り、人間がそれに従う。つまり「自分が自分を律するためのもの」であり、そのために、人間の体内から取り出した「ことば」でそれが書かれ、それを常に変わっていく人間自身が見て、再確認し、法の適用を行うものだ。
しかし、時は否応なしに刻まれ、人も死に、新しい人が生まれ、変わっていく。そして時代が変わると、物事に対する考え方も変わる。だからこそ、「法」もまた、いつでも検証の対象になり、常に変化することが必要になる。しかし、時代が変わっても、変わってはいけない「原則」が、やはり人間社会にはある。その原則を常に念頭に置きながら、法を変え、法の適用を変化させる必要があるのだ。
だから、法にとって一番大切なものは「法文」ではなく、立法の精神や目的を語る「前文」、ということになる。
いま、私が危惧するのは、この世の中は自分で作ったり変更したりすることができる、ということさえ知らない世代が多くなってきた、ということだ。世の中には「法に従ったもの」と「そうでないもの」がある、という単純な思考で物事を割り切ることができる、という磨耗し乾きききった感性の人たちがあまりに多くなっていないか。
その一方で、法を犯すことに対して、あまりにも鈍感な犯罪も、また多く見るようになった。
それは、やはり法そのものではなく「法の精神」をちゃんと知らないから、法そのものを捨てるのも簡単になってしまうからだろう、と私は想像している。
そんな人間が跋扈するこのときこそ「文明の堕落」という悪魔が、人間に降りてきたその時代なのだろう。
今こそ、原点に帰って、本当にぼくらが大切にしてきたものはいったいなんだったのか?を、ちゃんと考えるときなのではないだろうか?
投稿者 nori-m : 21:27 | コメント (0) | トラックバック
2007年06月01日
秋葉なつみさんと楠野裕司さん
このところ、毎年の年賀状以外はまずおつきあいがなかった、秋葉なつみさん、楠野裕司さんのご夫妻。その秋葉なつみさんの訃報を、ついこの前、いただいた。
そして、この30日に、秋葉なつみさんを偲び、夫の楠野裕司さんを励ます、という会が、赤坂の元ミカドのあった場所で行われた。300人以上の方々がいらした。思えば、ぼくが大学を出てしばらくした頃からのおつきあいだったから、ほぼ30年前のお付き合いということになる。その後、ときどき、彼らのやるパーティに呼ばれて、ご夫妻とよくお話をした。
会は盛大だった。秋葉さんの友人、という加藤登紀子さんが歌った。あがた森魚さんが歌った。業界では「おトキさん」と呼ばれている加藤登紀子さんのバックでアコーディオンを弾いていたのは、センチメンタル・シティ・ロマンスの細井さんだった。細井さんはちょうど、その2日前に開かれていた恵比寿アートカフェ1107のファイナル・パーティでもご一緒していた。
だいぶ前に、お仕事で一度だけお世話になったテレビマンユニオンの今野氏と元テレビマンユニオンの友人、古家も来ていたし、やはりご夫妻のお友達でベンチャー企業の取材で、ぼくを取材に来たことがあるライターの大宮友信さんも来ていた。大宮さんとお会いするのも久しぶりだった。大宮さんは、ステージでフラメンコ・ギターを弾いた。
1月11日、楠野さんが東京に出かけている最中、サンパウロの自宅で心筋梗塞のために、突然おなくなりになり、遺体が発見されたのは死後1週間ほどしてからだという。林野庁のアマゾン・プロジェクトなどにもふかっくかかわっていたということだけれども、人の命というものは、本当にわからない。。。彼女はまだ50代なのに。
これまでの自分の仕事は、もちろんいろいろな人に助けられてきたけれど、その最初のところで、秋葉さんたちと一緒にいたことで、いろいろな人たちと知り合い、そして、仕事の力にしていただいた。間接的にではあるけれども、感謝すべきことだ、と、今も感じる。
秋葉さんと楠野さんのご夫妻は、ブラジルと日本を文化でつなぐお仕事をしていた。あまり表にはでないプロデューサーという仕事だったが、とにかく精力的に飛び回る人であった、ということを、彼女の周りの多くの人から聞く。それでいて、パワフルな男勝りの女性を思い浮かべるかというとそうではなく、かわいく、物腰の柔らかな人だった、という印象がある。
サンパウロと東京を行き来する仕事は、とても大変だっただろうと思う。時間の制約、お金の制約。そして、多くの人とのつながりを作っていくその苦労。
世界の中の日本。そしてブラジル。いろいろな人たちや文化が交錯するその場所で、彼女は亡くなった。来年は日本からのブラジル移民が始まって100年、という年で、記念の数々の行事が予定されているという。その仕事の途中でまさに、戦場での死となった秋葉なつみさんのご冥福をお祈りする。そして、残された裕司さん。なつみさんのぶんまで、がんばってください。
投稿者 nori-m : 15:31 | コメント (0) | トラックバック
報道統制?
松岡農相の報道が強力に規制されているかもしれない。
まず、事件当日の28日、そして翌29日は、どの放送局、新聞ともにかなり派手な報道合戦だった。当たり前といえば当たり前だ。
でも、30,31日になると、この事件の関係の報道は、多いところでも、30日の「緑資源」の縮小の話と、山崎拓氏、谷垣禎一氏の発言くらいのものになっている。突然、報道がなくなっている。
さらに、私が市民記者として記事を書かせていただいている「オーマイニュース」でも、ボツ記事の「倉庫」となっている「ニュースのたね」に、多くのこの関連の記事があるが、30日以降、表の記事には一切その類の記事がない。中には、「ニュースのたね」にも入らず、「不採用」となったものもある。
こういう規制は、あまりに強力なものであればあるほど、さらに政治への不信を産む。
「報道統制」はあったのか?なかったのか?問題はまた問題を呼ぶのか?なにか報道統制とは別の理由があるのか?
ひょっとしたら、これこそ、いよいよ日本のブロガーの活躍の場なのではないか?。
あまりに「きれいな」この報道機関の変わりっぷりは、政治のみならず、マスコミへの不信感を一層煽るものとなるだろうことだけは、間違いない。
投稿者 nori-m : 05:23 | コメント (2) | トラックバック
2007年05月30日
5月28日
5月28日。
松岡農水相が自殺、との報道。
その10日ほど前には、松岡農水相の秘書が自殺。
翌29日には、やはり松岡農水相と非常に近いと言われていた団体職員が自殺。
ZARDの坂井さんが、27日に病院の建物から転落し、脳挫傷で亡くなっていたことが発表される。
日本は、よくわからない方向に動き始めているような、そんな感じがする。
その28日の夜、行きつけの恵比寿アートカフェ1107が閉店のパーティを行った。
空が白むまでみんなで飲み明かした。
生きることの辛さ。死を考え、それを実行し、自らの命を絶つ人が感じる底知れないプレッシャー。
悲しみも喜びも、楽しさも苦しさも、みんなまとめてやってきた5月28日。
そして考える間もなく次に向かって動き出す人。自分もまたその一人だ。
投稿者 nori-m : 11:24 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月27日
「深町純」最後のアートカフェ1107
昨晩は深町純、アートカフェ1107ライブの最後の日。
7年間。そして、ぼくがアートカフェに通うようになってから、5年間。いろいろなことがありました。よく考えれば、ぼくがこのあたりに越してきたとき、アートカフェは1年目だったんだな。
どれもこれも、よかったと思うことが多い。でも、
もう、二度と会えなくなった人もいる。
人は年老いていくのはしょうがない。若いころを誇ったとて、やがてみな同じ老境を迎えるものだから。やがて朽ちていくものだから。
音楽が好きなのは、きっとそれがどんなに計画された演奏であったとしても「その場」のもので、それが空気のように消えてなくなるものだからかも知れない。
一瞬の、そのときにしか表現しえない芸術。それが音楽だ。
絵画のように残るものではない。
人もまた、その人がいなくなって3日もたてば、300年前にいなくなった人と同じだ。
音楽はそういう、「人」や「人の存在」に似ている。
投稿者 nori-m : 22:40 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月26日
オーマイニュースの「ギャンブル」
人も世の中も変っていくけど、今度はオーマイニュースで「競馬」をはじめたのには、少々驚いた。
競馬の予想記事を書いて編集部に申請すると、編集部から馬券を買うお金を出してくれる、という。
残念ながら、ぼくの育った環境には、ギャンブルなんてものは、株や宝くじ(宝くじは少々違う感じもするが)を含めて、なーんにもなかったし、周りにそういうことをする人は一人もいなかった。そういう人と会う機会があったのは、社会に出てしばらくした20代後半になってからだ。
だから、競馬場とか競輪場にも今の今まで、一度も足を運んだことがない。興味もなければそんな時間さえなかった、というところだ。それでも休みになれば、自分のやりたいと思うことが山ほどあって、十代の頃から退屈した、なんて覚えがまるでない。
そういえば、同じようにぼくはタバコなんて、まるでやったこともなかったし、興味を持ったことも一度もなかった。父親はタバコを吸っていたから、そういう環境を知らないわけじゃない。ただ、よく言う「大人への対抗意識」とか「大人への興味」とか「大人ぶる」ってのが、今考えればなかったような気がする。いや、あったにしても、なにか違う形で表現されていたのかも知れない。いつもなにかに夢中でいた、という記憶があるけれど、あまりそういうものに興味が湧かなかった。
加えて、パチンコなんてものも、実は今まで興味を持ったことは一度もないし、もちろんしたこともない。でも、家族でマージャンはした。ぼくが小学校から中学校くらいの頃だろうか?今だにそのときのマージャンを引きずっていて、「安上がりでも上がらなければゼロ」なんてのを、いまだにどこかでつぶやいていたりする。
そういえば、ぼくはクルマの免許は持っていない。生まれたときから東京に住んでいて、近距離、遠隔地ともに交通手段で困った覚えがない。クルマが必要なときはタクシーでも運送屋でもなんでも、どこでもつかまえられた。クルマに女の子を載せたい、クルマでかっこよく見せたい、クルマでモテたい、なんて考えたこともなかったしね。いま考えれば、クルマが欲しい、なんて思ったこともなかった。あればいいかも、という程度ではあったけれども。
気が付いて周りを見渡してみれば、クルマの免許を持っていない、なんてのは小数派になっていた、という程度のことだ。
いつも自分で自分の楽しいことを探していて、いつもそれに熱中していた。人にはわからない楽しみでも、それは自分の見つけた、自分の世界だ。それを極めるから、人はこちらを向いて、ぼくとコミュニケーションを取ろうとする。自分から人に擦り寄るように「見える」ことはあっても、よく考えれば、「人にあわせて自分を変える」なんてことが、必要とは思えなかったし、楽しいことではなかったし、第一ぼくはやろうとしても、そういうことはできなかった。
ギャンブル、ってのは、ルールがあって、そのルールに則って、試合が進む。でも、ギャンブルで一番儲けるのはそのルールを作り出す胴元であって、ギャンブルの一般参加者ではない。その「構造」がいつも見えるから、ギャンブルにハマるのは、ぼくにとって面白いことでもなんでもない。
ルールに則って、その作られた世界の中でなにかをするのではなくて、ルールを壊したり、ルールを逆手にとって、ルールを作る人間を凌ぐ、というのが、ぼくにとって本当に面白いギャンブルだった。
そういう精神が新しいものを生み出していくのだ、と、思ったし、そういう存在になりたい、と思った。そして、今もそう思っている。
ページビューその他を見ると、常にオーマイニュースを見る人は増えている。それでも目的にはまだ達していない。閉塞している。この時点でのさらなる「起爆剤」として、「風俗産業ネタ」「競馬」など、「週刊誌的」感性を前面に出して模索しているオーマイニュース。
築地市場の移転問題などの詳細報道は今までになかった面白い切り口だ。行政への監視を怠らないその姿勢だけではなく、あらゆる「隠されているもの」を暴くその姿勢が面白い。この既存のマスメディアにはできない「逸脱」の積み重ねが、おそらく、「次代の週刊誌」のような新しいネットのジャーナリズムの感性を作っていくのかもしれない。
それが完全にその通りに実現できたものではなかったにせよ、「逸脱」し人を「驚かせ」、そして、この世の中の地面の下にひっそり隠れている本当の姿を、ごそっと掻きだして、白日の下にさらけ出し、抑圧された人々にひと時の解放区を作る。そういう精神こそ、日本の伝統たる「戦後・週刊誌ジャーナリズム」だったと思う。相手がウヨクであれ、サヨクであれ、全く関係ない人たちであれ、誰彼となく非難の対象として「暴れ者」と言われるほどにどんどん突きまくるオーマイニュースでなければ、面白くない。
野球だって、粛々とした試合を見せられても眠くなるだけだ。本当に面白い試合は喧嘩が始まる試合だ。ルールは破るためにある、というくらいの逸脱が、これからのオーマイニュースを面白くするだろう。
いやま、極端に言ってみただけですがね。
投稿者 nori-m : 09:20 | コメント (1) | トラックバック
「ネット乞食」の誕生
仕事に限らず、ネットの世界にかかずらわってばかりいると、自分の世界がすごく狭くなっていくのを感じてしまう。
また、その自分の持つ狭い世界に応じて、自分という人間の大きさもまた、小さくなっていくのを感じることはないか?。
多くの人は、昼は仕事をする。そして、いまどきの日本で仕事をしている人であれば、けっこう遅く帰宅する。そして、いつもの通り、ネットの世界にハマる。テレビよりよほど面白いこともあるし、なによりもなにもすることがない、というのは耐えられないから。
気がつけば何年もそういう生活になっていたりして、「ネット社会」なんてものがあるような幻想を持つ。いや、もともと社会そのものが、ある幻想の上に成り立つものである、とも言えるわけだから「ネット社会」 なんてものも、実社会に比べて非常に狭い社会ではあるものの、似たようなものなんだろう。
そして、そんな世界でなんとなく寄り集って、なんとなく議論して、必要もないところにおせっかいをして楽しむ。なにかちょっとしたことがあれば、大義名分を振りかざし攻撃してみる。反撃があれば、それに対する反撃もして時間をつぶす。なにかしているように思える時間なのだが、実際には自分に残るものはなにもなく、時間ばかりが過ぎていく。
気がつけば、自分が手にしたものといえば、少々のネットの知識と、ネットで知り合った、同じような友人、知人ばかりだ。自分に残るものはすごく数少ない。余命いくばくもない老人が新しい楽しみとしてネットをはじめるならともかく、いい若い人間がこの程度では、やはり困る。こんなのの数が多くなってきたら、世も末だ。
人とのコミュニケーション、というのは、大変に楽しい。打てば響くように答えが返ってくるのも、それが肯定の反応であれ、否定の反応であれ、心をわくわくさせるものではあるだろう。なによりも、自分はその人とつながっている、という安心感がその根底に流れる。
だから、人間は人間どうしのコミュニケーションで癒される。
でも、癒しばかりだと、人間は堕落する。
自分の孤独にしっかり向かい合う時間もすごく大切なのだ。そして、この「コミュニケーション」と「ディスコミュニケーション」のバランスこそが、人間を作っていく。そういうものじゃないだろうか。
「情報の時代」「コミュニケーションの時代」、と言う。しかし、その時代の「便利なもの」は、結局のところ、多くの人から孤独を奪い、結果として、なにかをコツコツと作っていく、という精神を、多くの人から奪ったのではないか?
いま、「ネットにはまっている」人間のほとんどには、本当はすることがなく、強烈な自我もない、迷える子羊ばかりが多いのではないだろうか?自分の目標をしっかりと持ち、自分のやりたいことにターゲットを絞り、自分の全身全霊を傾けてやるべきことを見つけられない。そんな人が多くないか?
ネットは、そういうことを見つけられない人間を、そういうことを自覚できない人間を、さらに堕落させるための道具になっていないか?
怠惰を絵に描いたように、毎日、家に帰ればPCのスイッチを入れ、多くの時間をデイスプレイの前で過ごす。そんな生活は、やがてあなた自身に返ってくることだろう。気がつけば、あなたはこの世を生きていくための「力」のひとつも身につけずに歳をとっている自分を発見するだろう。
「孤独のない時代」に、「ネット乞食」はかくして誕生する。
投稿者 nori-m : 07:32 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月24日
写真を撮るということ
このところ、天気がよくても写真を撮りに行く、ってのがちょっと辛くなってきた。スランプ、といえば、そうなのかも知れない。
時間の余裕もあるし、天気もまぁまぁ悪くない。必要な機材一式は持っていくのだが、どうしても目的地にたどり着かない。方向音痴になった、とかいうのではなく、写真を撮ることそのものに、なにかもう1つ足りないものを感じるようになったのだろう。
機材一式をそろえ、スケジュールを決定して家を出て、そしてそこに行くまでにちょっと考え事をして、そして結局はなにも撮らずに帰ってきたりする。
いろいろなことの疲れもあるんだろうが、まだ撮影のペースが落ちた、というほどではないにしろ、ちょっと自分でもおかしいな、と思い始めている。
まぁ、この5月末、いろいろなものが終わる。そして、いろいろなことが始まる。今までのように自然を撮るだけじゃなく、こういう場面での「写真」も、ちゃんとやってみろよ、と、ぼくは天から言われているのかも知れない。
たしかに、そういうところにカメラを持っていくことに躊躇はない。
最後のライブを撮ろう。最後のパーティを撮ろう。そして、亡き人をしのぶ会を撮ろう。そして、その周りの楽しみと悲しみと、希望と絶望を撮ろう。
投稿者 nori-m : 20:49 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月22日
地上デジタル放送チューナーは
この前、デスクトップPCのスロットに挿すタイプの放送地上波デジタルチューナを使ってみた。
いわゆる「ワンセグ」というタイプではなく、あくまで本物のデジタルの地上波を受けるチューナーなので、スロットにB-CASカードを挿す穴が開いている。
普通のテレビを見るようにそのまま見られるのは当たり前のこととして、正直なところ、放送を見る側にとっては、あまり面白い感じがしない。今までと変わりない。画質は良くなったかも知れないが、よほど大きな画面でもないとちょっと差はわからない。また、ふつうの家庭では画質を重視するようなコンテンツそのものが、あまりにも少ない。
PC用のものは、当然ビデオレコーダの機能などもあり、そういう意味ではとても面白いものなのだが、今までのアナログのTVで十分、という感じがしないでもない。
デジタルにしたから、こんなすばらしいことがあります!って、ぼくらはたくさんいろいろな「変化」を見てきたけれど、これほど変化のないものも珍しいのではないだろうか?
やっぱり地上波デジタルオンリーの世の中になったら、それをきっかけにテレビを見る生活とは、完全にオサラバしようと思う。なかなか面白いコンテンツに出会わないから。
投稿者 nori-m : 10:19 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月20日
おだやかな
今日、5月20日の日曜日の東京は、なにもかも溶かしてしまうような、おだやかな暖かい天気だった。難しいことも、いやなことも、考えるのがおっくうになって、ただ空気の暖かさとさわやかな風にだけ、体とこころをゆだねていればいい。そんな天気だった。
悩み事はないわけではない。個人的なこと、個人から多くの人にかかわること。
行動を起こしたくても起こせないこと。そのうちに時間がたってしまうこと。なにかのために、自分を殺してでもおこなわなければならないこと。すぐに行動は起こせても、結果が簡単には出ないもの。
でも、今日は生きていることだけで、ちょっとした満足が得られるような、そんな天気だったね。
たまには、こんなときもあっていい。
----
ところで、今週の週末、26日(土)は、いつもの恵比寿アートカフェ1107で、閉店前、最後の深町純ライブが行われる。ぼくも行く。
そして、28日の月曜日の夜は、そのアートカフェ最後の夜になるから、常連の人たちが来て朝まで飲み明かす予定だ。もちろん、初めての人も歓迎。ライブでは若手の人のシャンソンをやるから、これを聞きながら一杯やる、という嗜好だ。
投稿者 nori-m : 21:06 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月19日
ルータ交換
ルータを交換した。あまりトラブルもなく、すんなりいった。
このBLOGも自宅サーバで立ち上げているから、ルータの交換のときは、ネット接続が止まったりしていたと思う。設定は慣れていればほんの数分で済む。ネットワーク構成も簡単だし。
交換後のスループットは対象はあがっただろうと思うけど、体感速度はたしかに上がった。
しかし、最近のルータ、無線ルータなどは、非常によくてきていて、セキュリティの設定はじめ、あらゆる設定が「簡単設定」メニューで、それこそクリック一発でなんとかなる。でも、我が家の場合は自前サーバもつなげてあるから、この簡単設定は使えない。自分で設定するしかない。Unnumberdで、複数固定IP接続だから、なおさら、詳細は自分で設定するしかない。
仕事のあらゆる面で、自分の自由にできるサーバやルータがあって、それがネットに接続されている、というのは、いろいろ役に立つね。
と、まぁ、すんなり行った。。。と思って、外から帰ってきたら、なんと接続している「La Fonera」が動いていない。LEDの光り方を見たら、ネットワークへの接続でリトライ状態が続いていた。いろいろやってみて、結局LaFoneraに接続していたハブとLaFoneraのポートの接続でドラブルになっていることが判明。ルータと一緒にハブも取り替えたのが、問題だった。仕方なく、前の使っていたハブを再度適用したら、あっさりと問題なく動く。
こんなこともあるんだなぁ、ということで。
投稿者 nori-m : 11:59 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月16日
It never rains but it pours in Tokyo.

最近の雨は、降れば土砂降りだ。
気がつけば、からっと晴れている。
まるでカリフォルニアの雨みたいだね。
It never rains but it pours in California.
投稿者 nori-m : 22:44 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月14日
ジャズ
この5月末、行きつけのお店、アートカフェ1107が閉店する。そして、六本木のジャズの老舗、バードランドも移転のため閉店する、という。
って、バードランド、知ってる人はぼくの年代ではそう多くないのかな?ぼくの年代はSweet Basilになっちゃう人がやっぱり多いみたい。
29日は、あのサッチモの真似をさせたら日本一、と言われる、名トランペット吹きの渡辺正典さんが出演。
ところで、「Bird Land」という店の名前。天才と言われたジャズ・ミュージシャン、Charlie Parkerのあだ名が「Bird」。その名前をつけたN.Y.のジャズクラブが「Bird Land」。1949年にできた。この名前をつけてできたのが、現在の六本木のバードランド。こちらは1974年開店。
日本には(特にネットには)メインカルチャー、サブカルチャーともに「文化」のにおいがまるでしない人ってのが多い。仕事でL.A.に長期滞在していたときも感じたけど、たしかに、ごく普通に音楽に親しむ、絵画に親しむ、写真を楽しむ、ってのは、やっぱり日本の文化には、いまひとつない。それに、向こうでは観劇するにも音楽を聴くにも、日本よりもはるかに安い。
いつだったか、N.Y.のSweet Basilに古いジャズを聴きに行った。N.Y.在勤の友達と食事を食べながら、聴いていたのはアート・ファーマー。いや、ナマであのおじいさんが吹いてるところを見られた、ってだけで感激しちゃう。でも、N.Y.のそれはいまの六本木のSweet Basilとは違って、かなり汚いところだった。でも、気分は最高!なところだったね。
そして、その舞台横に、なにやら人がやたら出入りする扉がある。演奏中でもかまわず人が出入りする。演奏を聴きながら、「なんだ?あれ?」と思っていた。
それからしばらくたって、「ところで、トイレに行きたくなったんだが」と、ぼくは店の人に聞いた。そしたら、店の人は、その舞台の横に堂々とあるその扉を指差した 。あ、トイレの出入り口だったんですね。あそこは。
なんてつくりをしてるんだ、この店は、と思ったが、これでもN.Y.のジャズの名店中の名店だ。
音楽を聴く、ってことが、日常的にあるといい。それもすごいプロの人たちが目の前で演奏しているところがあるといい。毎日こんな音楽を聴いて過ごしたい、と、そう思う。
投稿者 nori-m : 20:40 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月13日
「ネットカフェ難民のうた」
マイミクをさせていただいている信楽順三さんのカラオケ教室の生徒さんたちの発表会に行ってきました。
それこそ、ぼくが生まれる前に歌われた古い歌がたくさん出てきて、面白かった。お隣には、やはりマイミクの「カラリ・サバ・クー」さん。彼も大物プロデューサーとしてならした大人(たいじん)だ。
日本の歌謡曲の生き字引みたいな人とお話をしたのだが、とても面白い話が聞けた。
日本の歌謡曲。大衆芸能としてのうたってのは、「美空ひばり」で、大きな指標を築いた。
その次には「カラオケ」ができて、これが大きな転換点になった。
なんだかそういう感じが、したんだよね。古い歌を聴き、いろいろとお話をしていると。
そこで、「ネット難民のうた」もあった。
星の流れに 身を占って
何処をねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないか
泣けて涙も 涸れ果てた
こんな女に 誰がした
これは、昭和22年、日本国憲法発布の年に流行した「星の流れに」(作詞:清水みのる・作曲:利根一郎・歌:谷真酉美)からの引用だ。
この歌詞を見ていると、今の「ネット難民のうた」だねぇ、これは、と思った。
しかし、昭和22年といえば、戦争が終わって2年。日本国中が戦争が終わった放心状態から、なんとか抜け出そうと考え始めた、貧しい時代だったのじゃないか。朝鮮戦争はまだ始まっていない。つまり日本には朝鮮特需なんてものが来ることさえ、わからなかった時代だ。日本の戦後の経済は、朝鮮特需から復興を始めた、といっていいから、この歌がはやったそのときは、「これからみんな、どうやって生きていったらよいのだろう?」と、米国からの小麦の援助などを受けながら、考えあぐねていた時期ではなかったか。戦争は終わって、もう国に強圧的なちからで殺される、という心配はなくなったけれど、でも、なにから手をつけていいかわからない。そういう時代だったのではないか。
この時代、時間の流れも遅かっただろう。この歌の歌詞を見ると、そんな日本の国民のほとんどが経験していた「境遇」に、自分もまたありながら、そういう自分を客観視する余裕もあった、という感じがする。なにか熱にうかされて、戦争の暗い時代に突入した、そのことを思い出しながら、やはり戦争は終わったのだ、という安堵感と、これからの生活への不安。それらがないまっぜになった、おそらくは国民全部が持っていたであろう感情を、この歌は歌っていたのかも知れない。
やがて始まる朝鮮特需。それを足がかりに高度経済成長をはじめる日本の、その前夜の国民の気持ちが、この歌にこめられいたのではないだろうか。歌詞に歌われている、毎日どこに行くあてのない女の姿と、日本の姿、そして、その日本に生きる一市民としての自分の姿が、この歌にだぶったのではないだろうか?
投稿者 nori-m : 17:51 | コメント (0) | トラックバック
昨晩のはなし
昨晩はグリゴリー・セドゥフ氏のピッコロバイオリン演奏会に行きました。
とにかく、すばらしい演奏でした。一生に、この演奏を生で聴ける機会はそう多くはないはず。しかも、こんな近いところで、マイクもなく。
投稿者 nori-m : 08:11 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月12日
とりあえず

オーマイニュースの記事の件、自分のblogの件で、2件の話をまとめておきます。
1.オーマイニュースのこの記事の件。
「Banker buster」は、その弾頭に核を持ったものと、そうでないものがあります。この記事では弾頭に核を持ったものをこの記事の対象にしています。ですから、記事の内容では、「核弾頭のついたもの」と「ついていないもの」を明確に分けて書いていませんが、これを分けるべきだ、というご意見をいただきました。私もその通りと考えていますが、記事では、「バンカー・バスター」=「核」というように読めるし、編集前の私の書いた原文も、調べるとご指摘のように読めるように書いておりました。ということで、これはこのBLOGにて、お詫びして、訂正をいたします。
しかしながら、私が参考にさせていただいたいくつかの記事では、同じ間違いが多くあるように見受けられます。いずれも、オーマイニュースの私の記事以上のページビューも持ち、私の記事以上に多く世の中に影響を与えるもの、と考えられます。私にこの件の修正を求めた方にあっては、やはりこれらの記事への修正依頼も、当然されていることと思います。老婆心ながら、以下にそれら参考にさせていただいた記事のURLを入れておきますので、私の記事同様、抗議をされ、謝罪を迫ることを強くお勧めいたします。
記事その1
この記事では、明らかに「バンカーバスター=核」と書いてあります。
記事その2
この記事では、「劣化ウラン弾」の弾頭を持っているバンカーバスターについて書いてありますが「バンカーバスターは核である」ということに非常に近い表現が使われています。
記事その3
この記事の表現では「使用される可能性がもっとも高いのは、『B61-11』という超小型の核爆弾だ。これは地表貫通型の爆弾で、「バンカーバスター」(地下施設破壊爆弾)として知られている。」と書いてあり「バンカーバスター=核」ととれる表現となっています。
2.「遅れ兄」氏と「御崎の兄」氏の件。
現在トラックバックをいただいている「遅れ兄」氏は、「御崎の兄」は、自分ではない、と、主張しています。しかし、私の立場としては、いずれも匿名であり、本名その他の個人情報を私は入手できませんので、これについての結論は控えさせていただきます。また、この情報は、私の個人的な情報網からいただいた半分、Underground的情報によっています。そのため、その根拠を明確に発表はできないものです。したがって、この内容の真偽は問われるものであることは認めますが、「シロ」とも「クロ」とも、私の立場では、現状なんとも言いがたいのです。
加えて、オーマイニュース市民記者でもある(らしい)「御崎の兄」さんは、この騒ぎを聞きつけてか、5月12日に、私あてに友人記者の申請をしてきましたが、これらの問題が出てきている折でもあり、私はその要請を拒否いたしました。ただし、同氏は、先方からの要請により、マイミクに加えて欲しい、との申請がかつてあり、その歳は申請を許可しており、現在でもマイミクのままであり、彼のページも私は頻繁に見せていただいています。
また「遅れ兄」氏は、ご本人の掲示板等の書き込みをみる限り、オーマイニュース市民記者としての申請はされていない、ということを、又聞きですが、お聞きしています。
加えてオーマイニュース市民記者の方に
かつてより、オーマイニュースでは「匿名」「実名」論争というものがありましたが、実名で記事を書いている人間からすれば、また、そこに多くのアクセスを持つ人間からすれば、やはり「誰に見られているかわからない」という緊張感をいつも考えつつ、記事を書くことになります。しかしながら、それを超えて記事を書いても、ニックネームのみの匿名での誹謗中傷は非常に多く、正直なところ、記事を書く気も失せる、という人はとても多いはずです。私の場合、表に出ている記事の数が非常に多く、個人的な攻撃を受けることも非常に多いのですが、明らかに「匿名」かそれに近い人たちの誹謗中傷などには、心おだやかならざるものを感じます。
「自尊心がどうのこうの」という前に、明らかに悪意のみが前面に出ているようなトラックバックやコメントを見るのは、やはり腹が立ちますし、悲しいものがあります。しかし、そういう個人的なことだけですめば、私だけがたたかれれば、それで済むことです。
しかし、中には、たいして大きな問題でもない「記事の穴」を探り、それに突っ込みを入れて、記事そのもの、記者そのものに攻撃を加える、という手口も非常に多く見ます。これらの方法は、針小棒大にことを荒らげているだけですが、その書く内容は「とりあえずの理屈は通っている」だけに、扱いも厄介です。しかし、そういう話は最初から無視してかかれば、それでも一向にかまわないのです。
ここをお読みの市民記者の方がもしいらしたら、これらの激越な誹謗中傷などにめげることなく、記事を書き続け、より面白いネタを探してくることを、お願いしたいと思います。ときには、自分の記事の間違いもありますし、その間違いの指摘におろおろすることもあるでしょう。私も、そういうことはもちろんあります。しかし、そこでいやになっては、やはり実名で記事を書く市民記者としては、弱すぎます。
「憶測」は「憶測である」と前置きしてから書けばよいのです。自分が感じたこと、理不尽に思ったこと、楽しく感じたこと、面白いと思ったことを、そのまま記事にして、自分の心の声をみんなに聞いてもらう。職業記者と市民記者の違うところの1つは、こんなところにもあるのだと思います。ですから、自分の実感を、間違いを恐れずに記事にする、ということは、職業記者ではない市民記者の特権として、私は許されて良いことだと思っています。そうでなければ、「市民」と名のつくアマチュアの記者がこの世にいる意味がありません。
人を攻撃することだけが楽しみのおかしな人たちもこのネットにはたくさんいます。このやりかたは現実の社会よりもより陰湿です。こういうことを助長する人たちの中には、「正しいことを言う」ように見せて、記事を書く意欲、記事を見る気持ちを削いで、オーマイニュースそのもののアクセスを減らすことを目的とした人たちがいます。アマチュアの記者であるがゆえの「弱み」に付け込むことで、彼らはその目的を達成しようとしています。
ここをご覧の皆様にあっては「間違いを恐れずに」「誹謗中傷を恐れずに」多くの記事を書くこと、多くの人の記事を読むことを、強くお勧めします。私もまた、数々の問題を抱えながら、それでも記事を多く書いていこうと思っています。黙らず、記事を書き、楽しみましょう。
市民記者の皆様。絶対にあきらめず、書き続けましょう。お互いに。
投稿者 nori-m : 09:20 | コメント (7) | トラックバック
インタビューされたんだけど
ということで、昨日は朝から江ノ島に行って写真を撮っていた。いい天気だったからね。
そのときの写真はこれ。本当に気持ちのいい天気だった。こういう日の海の景色はいいね。昼ごろには、海の「荒れ」もそうたいしたものじゃなく、ほんわかした空気が漂っていた。
帰ったら、知人の秋葉なつみさんが亡くなった、という知らせのFAXが入っていた。秋葉なつみさんは、日本とブラジルを行ったりきたりしながら、イベント企画なんかをやっていた人で、この人の夫の写真家の楠野裕司さんともども、考えてみれば30年くらいつきあっている。ぼくが大学の時代くらいだから。死因は脳梗塞。自宅でなくなってから、1週間くらいはわからなかったそうだ。楠野さんは、ちょうど東京にいたとき、とのこと。もっとも、お会いすればちゃんとお互い覚えているけれど、普段はあまり仕事などでご一緒になるようなこともないので、年賀状とかの挨拶状ばかりになってしまう、このごろだった。
彼女は日本にブラジルの歌や舞踊を紹介し、ブラジルの人に日本を紹介した。5月の末に追悼の会がある、というお知らせだったのだが、おそらく、かなりの人が来るだろう。この会の呼びかけ人には、加藤登紀子、針生一郎、あがた森魚、なんて人たちだけじゃなく、大臣を経験した有名な政治家の名前も数多い。
で、帰ってから、夜の11時30分からメッセンジャーのChat経由で、オーマイニュース市民記者としてのインタビューを受けたわけです。この日のために、普段はPCからあとかたもなく消しているWindowsメッセンジャーを再度入れなおし、MSNのアカウントもとった。もっとも、終わった時点ですぐにアカウントごと消したけど。普段はこれ、使わないからね。
そこで、インタビューそのものの記録はきっとインタビューアであるながしまさんがきちんとまとめてくれると思うので、私はこのインタビュー用に用意した、受け答えのための自分のノートを公開することにします。中には、受け答えしなかった項目も含まれますが、それは私の意見の一部、ということで、書いておきます。
---
●オーマイニュースをとりまく現状の認識について
現在、オーマイニュース上のコメント欄、あるいは「オーマイニュース」をキーワードとして検索可能な掲示板やBLOGの記事において、オーマイニュースそのものや、その記者に対するさまざまな「妨害工作」がされているように、私には見えます。
これらのオーマイニュースやその記者をターゲットにした攻撃を行う人にはいくつかの種類がある、と私は考えています。
1.明らかにオーマイニュースそのものに対する悪い印象を与えるために、意図的にされているもの
2.オーマイニュースに思い入れがあるあまり、その至らないところや自分の考えで不満のあるところを指摘するもの
このうち、後者の場合は表現が下手で、物事をストレートに言ってしまうために、それが攻撃と受け取られる、という人たちもいる、と私は思います。
しかし、前者は、明らかに意図的なオーマイニュースつぶしの意志を感じます。 この前者の人間にも二種類あるようです。
1. オーマイニュースやその人脈と、組織的、あるいは個人的な怨恨があるもの
2. 「オーマイニュース」を、いわゆる「左翼」と定義し、その「左翼」への攻撃の一環であると考えるもの
当然のことながら、オーマイニュースの成立にあたっては、数億円というカネが動き、かつ、決定間際まであれこれと「迷走」があった、ということもあり、前者のような人たちがいても不思議はありません。また、後者のような人たちは、明らかに「オーマイニュースつぶし」を目的としています。彼らのやりかたは、簡単に言えば「地上げ屋」のやる「住居の不法占拠」のようなもので、そのサイトに威嚇のメッセージを投げつけ、「そのサイトにはかかわらないほうがいいぞ」と、脅しをかけるものです。
実際、あるところで、オーマイニュースへの組織的な攻撃を、これらの意図で行っている人たちが集まっていて、いろいろ作戦を練っている、ということを、耳にしたことがあります。これはオーマイニュースとはまったく別のところから聞いた情報ですが、真偽のほどは定かではないものの、いくぶんかの信憑性がないとも限らない、という印象を、私は持ちました。少なくとも、そういう人たちはいる、と私は思っています。
●オーマイニュースつぶしの方法について
その「彼ら」の「攻撃」の方法は、以下です。
1.コメント欄で「炎上」させ、記者に対する威嚇を行い、記事を書く意志を失わせ、最終的には市民記者の登録を解除させる。
2.また、同じ威嚇行為を行うことによって「オーマイニュースとはこんなヤクザな連中が来るところだ」と言う印象を周辺に与え、オーマイニュースへの読者の訪問をやめさせる。
3.2chはじめ、多くの掲示板やBLOGなどで「あそこはだめだ」「どうしようもない連中がそろっている」などの情報を意図的に流し、オーマイニュースを実態以上に悪く見せ、オーマイニュースのページビューに影響を与える。
とりあえず、その意図が成功しているかどうか、ということは別にして、このようなやりかたを、このような意図で行っている一部の人たちがいる、ということは、確かなことだと、私も感じています。
●その対処について
だから、私はオーマイニュースの記事で、オーマイニュース自身について書くとき、必ずその文章の最後を「でも記事を書こう」ということで締めくくります。つまり相手の目的が「記事を書かせないこと」「記事を読ませないこと」である以上、その反対を、特に強調して言うことにしています。これはオーマイニュースが自分の記事の発表の場として、健全なものであってほしい、という気持ちがあるからです。自分の住む環境は、自分でできるところは整備しよう、ということですね。
●自分とオーマイニュースのかかわりについて
そうは言うものの、私もオーマイニュースにはじめからかかわっていたわけではなく、2006年の9月30日に市民記者登録をし、10月1日に最初の記事を投稿しました。また、それまでオーマイニュースやその人脈、その周辺の人脈とのかかわりは一切ありません。市民記者登録をした動機は、自分のBLOGや、Webでの記名記事など以外にも、「他流試合」がしてみたかった、ということに尽きます。オーマイニュースで市民記者登録をするまでは、「市民記者」「市民メディア」などのことばも、知ってはいましたが、それは自分とは関係ないものだと思っていました。したがって、興味もなかったため、JANJANもなにも知りませんでした。
ですから、オーマイニュースそのものへの「思い入れ」は、今も含め、初期からかかわっていた人よりもはるかに低いでしょう。そのためオーマイニュースには「なにも期待していない」というのが、私の本音です。期待せずとも、私がいろいろな仕事(文章を書く以外の仕事も含め)をするフィールドはたくさんあります。オーマイニュースも、たまたま選んだに過ぎません。ちなみに、私の文書が私の実名で、活字になって出た最初は二十歳のとき、ある教育雑誌で出たのが初めてでした。それ以来、私のprofileで書いたように、多くの文章を書いて発表していますが。
だから、「オーマイニュースの不備(システムのバグ等)」などは、「不便だなぁ」とは思うものの、それを自らの負担で、オーマイニュース内の不具合報告記者クラブなどで書くほかは、必要がなければ指摘さえすることはありませんし、お仕事でもあるまいし、そこまでする義理もありません。だから、積極的にそういうことはしません。お仕事で今後そういうリクエストがあれば、それは別ですけれども。
だから、オーマイニュースがもしなくなったとしても、私は困らないし、別にいくらでも自分のやりたいことができる場所があるから、それも心配していません。むしろ、昔の活字の時代に比べれば自分の文章を発表する場は非常に多くあるから、なおさらオーマイニュースのみに思い入れる、ということはありません。いまはそのかかわり上、自分の「生活環境」の一部であるから、そこを住みやすくしたい、という程度のことです。
●ご質問の記事の件について
ところで、記事のことです。
この記事。
この記事のコメント欄のNo9ですが、基本的なところでの「合意」は、私は冥王星さんと同じものがある、という認識です。しかし、各論になったとき、「それにどう答えるべきか」ということが問題になります。同じ記事のコメント欄で「ディベートの場は意見をぶつけあう場」ということにも賛成しています。
しかし、これは私の感性が古いからからなのかどうか、はよくわかりませんが「負け犬の遠吠え」「屁こいてんじゃねぇ」「頭が悪い」というような、明らかに誹謗中傷を目的としたとしか考えられない暴言を言葉に織り交ぜる、という「書き方」は、相手に読んでもらえない、ということがかなり多い、という点において、議論に使う言葉としては不適当だ、と私は思っています。
ましてや、そういうやり方の「討論」の中身がたとえ的を射ていたとしても、表現の仕方に問題があれば、その人はまた同じことを繰り返す人だろう、と思って、最初からその人のものを読むことさえしない、というのは、普通の感性だと思っています。英語しか読み書きできない人に日本語で話しかけても無駄ですよね。
また、「三田さんも同じことをしているじゃないか」というように言われる方もいるかと思います。しかし、注意深く私の記事やBLOGを読んでいただければわかると思いますが、私は「反論」やそれに類する記事を書くときは、相手が怒るようなことは書いても、気をつけて「暴言」になることは避けています。また、双方のやりとりになる場合も、自分から最初の「攻撃」をすることは、ごく特別な場合を除いてまずありません。あくまでも「相手がそういうから、こちらも反論する」だけのことです。これは、前述のコメント欄の冥王星さんの言う「議論」ですよね?また、こういった攻撃をする方は、そういうやり方でしか、自分の意見を通せないし、同じやり方でしか他人の言うことに聞く耳を持たないかも知れない、という気持ちもあるんですよね。彼はボクシングをしているつもりかも知れない。だとしたら、言葉で言い返しても通じないだろう。であれば、同じボクシングのほうが話しが通じる人なのかも知れない。
いずれにしても、「反論」はするけれど、私は先制攻撃はしません。あくまでも「身に来る火の粉」を振り払うだけのために、同じことをしているだけですから。
●【過去の事件】編集長交代問題のときの「人殺し」発言について
ときどき、オーマイニュースの「編集長交代問題」で、ゴタゴタがあったときに、それについて私が語ったBLOGで「人殺し」ということばを使ったことについて、いろいろ言われる方がいます。しかし、この場合に限っては、私はこのことばをいまだに撤回するつもりはありません。Cahtの最中に、どなたかかから質問をいただいたときの「こたえ」として、それは「一時停止」でもすべきだろう、ということを言いたかったわけです。ちゃんとした追求をしたい、という方はもちろんいらっしゃるでしょうし、それををすること自体を云々はしていません。ただ、相手の病状をおもんばかる、などの一時的な措置くらいは、まともな人間であればすべきだろう、ということです。
あのときの「人殺し」ということばは、比喩としての表現ではありません。実際に検査入院をして、体に力の入らない病人へ不要なストレスを与えることは、その人の寿命をはなはだしく縮めます。その人がたとえ有名人であろうがなかろうが、説明責任があろうがなかろうが、相手が人間で、かつ病人である以上、そういうことはすべきではありません。私は実際にガンやその他の病気に侵された60歳代の人たちをたくさん見てきています。目の前でそういう人が死んでいくのも何度か見ました。そういう人にとって「ストレス」は死に至る近道そのものになる、ということを多く経験しています。そういう人の事情も考慮せずに自分の言いたいことだけを押し通すようなことは、はっきり「殺人」と言ってもいいと思っています。
もともと、私は左翼でも右翼でもない。一介のアナログ、ハードウエア、ソフトウエアのエンジニアです。政治に興味はあるけれども、それはどんな職業の人も持つのと同じくらいの興味です。JANJANなんてものを知らなかったし、気にもかけていなかったわけで、そこにどんな記者がいるかどうかも、まったく私は知らない。だから、オーマイニュースのため、ということではなく、あの記事には人間としての怒りを感じたので、それを書きました。だから「人殺し」は、私の本音です。
そして、余談ですが、そのBLOGに書いた通り、あの無神経な記事を書いた記者をJANJANの竹内氏は解雇しましたね。トカゲのシッポ切りであるのかどうか、私は知りませんが、好意的にこのことをとれば、やはり老齢で持病の1つも抱えているであろう(そして自分の周囲でもそういう人が多くいるであろう)編集長が、私の「人殺し」の意味をわかっていないわけがありません。おそらく、わかっているからこそ、記者としての不適切な人間性を見て解雇したのだと、私は思っていますが。
●書くことについて、コメント欄での返事をすることについて
私は論争のための論争、を好みません。そんな時間もない。だから、今でも1つの記事を書くのに、1時間以上の時間をかけたことがありません。通常は30分くらいで書きます。「Aを否定すればBに」「Bを否定すればCに」を延々と続けるような無駄な時間がありません。ですから、「この人は相手にしたら長くなりそうな粘着くんだね」と思えば、最初から相手にしない、ということにしています。
最近は「書くことの一部には反対する」が「別のところは賛成する」というようにして、相手を討論の場に出てきやすいようにして引きずり出し、その上で、また同じようなことをはじめる、という巧妙な方も増えてきています。そういう人は最初からその「匂い」がするので、暇なとき以外は、そういうのは相手にしません。
●【過去の事件】佐々木氏の事件についての私の意見
そして、次にオーマイニュースの市民記者規約。そこに書いてある記者の責任の問題。でも、まずは佐々木さんの問題から。
もちろん私は規約や倫理綱領を読んでいて、その内容をわかっているからこそ、市民記者への登録をしました。 私の場合は、もともと自分の実名を世の中に出して仕事をしているし、会社を経営していたときには、数回の訴訟(訴えるほうも、訴えられるほうも)も経験したから、自分でいろいろな責任を負う場も、その責任の重さも心得ているつもりです。東京地裁には何度通ったことか。。。今でも何人かの辣腕の弁護士の方とは交流があります。中には自民党の顧問弁護士をされていた方もいます。だから、佐々木さんの「あのITmediaの記事」の件で「訴訟」という言葉を持ち出したのは、その経験にもとずくことです。あれは、明らかに佐々木氏が訴えられても、何も言えるものではなかった。オーマイニュース社は佐々木氏と直接交渉されたようですが、よくあのことを収めたと思いますよ。ただし、オーマイニュースの中の人も、佐々木さんも、自分だけの責任において本格的な訴訟をしたことがないサラリーマンですから、それを「利用する」ということまでは思いがいたらなかったのでしょう。
私は、あそこで絶対に「勝てる」訴訟を、オーマイニュースが佐々木氏に対して起こして、世間にオーマイニュースの名前を広めるチャンスだと思いましたよ。時期もちょうど良いし、佐々木さんもあの年齢ではダメージを受けてもつぶれることもなかったと思うからね。ただ、仲間内の馴れ合いもあって、そうはできなかったんだと思いますが。
【追記】これに続く文章の副題は「遅れ兄」氏のBLOGのトラックバックでの要請により変更しました。「遅れ兄」氏がその名前で社会的に認知されている媒体そのものであるBLOGからの要請であるので、当然本人からの要請である、とみなしています。
●「ANSOCの御堂岡氏」と同一人物ではないかと個人的に思って(疑って)いる「遅れ兄」によるBLOGの件について
この件については、Chat上で取り上げられませんでしたが、別の理由で、このBLOGでは割愛させていただきます。ご興味のあるかたは「御堂岡 ANSOC」でぐぐっていただければと思います。
※ と、書いたものの、本人いわく「人違い」とのこと。ただしネットではみんな匿名だから、それが本当かどうか、まったく調べる術もなにもない。「本人だぜ」と言ってること自身がウソかもしれないし、それぞれの「匿名」を、どう結びつけたらいいのか?と同じように、「どう切り離したらいいのか?」が、まるでできない。そういうもんだ。
※ 以上の追記のあと、さらにトラックバックをいただいている。でも、この事に関しては、ぼくの「憶測」が大幅に入っていることなんで「人違い」の可能性は否定できない。けれども、人違いであるかどうか。「なんとか兄」とかいうような名前そのもののみならず、ほかの名前を持っていて、その名前さえ本名であるかどうか、は確かめようがない。「それはおれじゃない」と言うのであれば、当の本人がそう言ってるから、きっとそうなんでしょうが、その情報や本人のなりすましがあった場合はどうするのか?ってのは、やはり信用ができないことも多々ある。
※ 私が命名しているところの「粘着くん」は、みんな本名を明かさないで、「粘着」している人がとても多い。これを多く聞くほうは、誰が誰だかわからないし、しまいには、誰が誰でもいい、ということにならざるを得ない。みんな匿名で言いたいことを言っている、というだけのことだから、なおさら「十羽ひとからげ」にならざるを得ない。そこで書く内容がいかにすばらしいものであろうとも、匿名ではまるで説得力がない。「その人ではなく、その人の言ったことが大事なのだ」と言うのは勝手だけれども、責任のない「匿名」では、いつそれを誰がパクってもいいし、いつそれを誰が肩代わりしてもいい。つまり「信用できない」ということにおいては、みんな五十歩百歩、というのが「匿名の世界」なんだな。やっぱりこういう混乱を図らずも起こしてしまった私から言えば「匿名」とは、こんなふうに信用しにくいものなんだな。。。。
ということは、匿名ってのは、本当は「そうせざるを得ない事情があるときに」、匿名であることのデメリットとの比較で、「匿名のほうがいい、と判断された場合にのみ」、限定的に匿名にすべきなんじゃないだろうか。匿名でなにかモノをいうことの是非、という意味では、やはり「やむを得ず使われるもの」という認識が必要なものじゃないかと思う。
※ 「御崎の兄」氏=「ANSOCの御堂岡」氏は、「遅れ兄」と、同一人物ではないか?と思った私は、憶測とはいえ、そう感じる部分があった、とここにはまず書いておく。このまま、どちらも、本名なりなんなりが明かされないのだから、どちらも同じようなもの、とこの際は十羽一からげにされるだけの要素を、それぞれが(違う人間だったとして)持っている。私は「匿名」であることによって、図らずも匿名どうしを(誤って?)つなげてしまったけれども、よく考えれば同一であるか、そうでないかを確かめる術はない。あとは、ご本人たちがそれぞれ「違う」という言い方をしているのを見て、そのそれぞれのメッセージを見たそれぞれの方が判断するしかない。僕の場合は、どうも「同じだと疑っていたが、そうではないかも知れない」と言うにとどめておくことにする。
●市民記者規約と倫理綱領について
とりあえず、佐々木さんの件はともかく、私の場合は自分で記事についての訴訟などを起こされた場合の心構えはできています。だから、私の場合に限っては、あの規約でいい、ということになります。それだけです。むしろ、自分で書いたことが自分の責任にならない、ということのほうがおかしい。実際、アムゥエイの記事でも、そのアクセスは今でもかなり多くあります、。今は1万2千アクセスになろうしていて、この時点でもビューが増えています。おそらく、アムゥエイの関係者の方も多く見ているはずです。また、オーマイニュースという会社が記事に関してまったく関与していない、ということはありえないわけですから、オーマイニュース社も、もしこれらのことが訴訟になれば、当然「編集権」「著作権」を持つ、という意味で、同じように訴訟に巻き込まれるはずです。
オーマイニュースの市民記者規約といえど、日本の国の中の法律で禁止されていることをその中に盛り込むことはできないし、もし、盛り込まれていたとしたら、その規約自身が、法律にそぐわないもの、として実際の裁判では問題にされるでしょう。ですから、市民記者規約だけをタテに、すべてを考えることは、やはり問題がある、という場面もあると思います。
●あとがき
ということで、以上の文章に、おそらくはご質問になりたい内容がほとんど書いてあると思いますが、いかがでしょうか。
●さっそく追伸
今になって、トラックバックがついているのを確認。この前のログそのままで、改ざんなどはされていない。自分の意見と、実際におこなわれたやりとりがちゃんと分けて書かれている、というていねいなところは、やはり評価。でも、「詭弁」という単語はやっぱり「そう聞こえたのかな?」と思ってしまうし、「すぐには特定できない」を「まったく特定できない」にすり替えたかのごとき書き方には、少々の悪意は感じないでもない。それはともかく、彼はちゃんと正面切ってトラックバックしてくるから、そういう態度はとても評価できる。あちこちのBLOGや掲示板で、本人に見えるような、見えないような、そういうやりかたでコソコソと悪口を並べるようなのとは、明らかに違うものを感じる。
それにしても、MInt中山正志の行う暴言は、誰が見てもやっぱり「暴言」だよね。。。このトラックバック先にもそう書かれているし、Chatの中でながしまさんもはっきり言ってる。
また、続編が出れば、追伸を追加します。が、これから取材がてらライブに行くので、ちょっと時間が空くかも知れない。明日はPCを触らないかもしれないし。。。。なんかね、最近は仕事でもこういったオーマイニュースでも、ぎすぎすした気持ち悪い人が多くて、それと戦うのも疲れてきた、ってこともある。だからけっこういい加減に対応したりもするんだよね。まじめにコメントとか書いている人にはすまないけど。
毎度おなじみの重箱の隅をつついて、だからお前は全部だめなんだ、というやりかたは、ネットではそれが癖になっている人も多いんだろうね。音楽、芸術、そういう世界からは遠く隔たった、このぎすぎす感、ってのは、その品のなさ、礼の知らなさ、とかも含めて、なんか本質的に嫌悪する、ってところが、どうしてもぼくにはある。
簡単に言えば、そういう人が生理的に嫌いなんだよね。その人がいくら良い人でも、品とか礼とかって、けっこう大切なものなんだと思うから。もっとも、品とか礼だけで中身がないと、これもまたどうしようもないわけで、そういうのは品でも礼でもなんでもないわけなんだが。
投稿者 nori-m : 07:14 | コメント (5) | トラックバック
2007年05月10日
「理想」と「現実」
それは現実に整合しないから、単なる理想です(だから、理想を考えることはやめましょう)。
と、言う人がいる。
でも、「理想」というのは、実現の可能性とはまったく別の次元で、それが「正しいこと」である、と、頭の中に思い描くから、「理想」という名前がついている。そういうものだ。
もし、「理想」「空想」「夢」がなかったら、人間は空を飛ぶことだってあきらめていただろう。そうしたら、飛行機だってこの世に無かったかも知れない。
人間はこれまで「不可能」をたくさん持っていたし、今もまだ、たくさん持っている。
ここで言う「不可能」は「現実」ということばで置き換えてもいい。
でも、その中にあって「理想」「空想」「夢」を捨てなかったからこそ、「不可能」を「可能」にしてきた、という歴史も、また「現実」なのだ。
「理想を追うことばかりするのはやめよう」とつぶやいたとき、人は人でなくなる。
だから、ぼくらは「理想」を忘れて畜生に落ちないために「理想」を紙に書いて、いつもながめていなければならないのだ。
投稿者 nori-m : 08:47 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月08日
【動画】深町純・ライブ

オーマイニュースに送ったところ、1つの画像の大きさが大きく、どんなに圧縮しても、大きすぎてサーバに入りきらない、とのことで、以下の記事が不採用になったので、こちらのBLOGで表に出します。
1つの演奏が10分を超えるものがほとんどなので、YouTubeでもだめだし。。。
大きなもので700MB、小さなもので110MBくらいの動画です。ダウンロードには時間がかかりますが、それだけの価値があると思います。是非、深町純の芸術をお聞きください。
深町純、アートカフェ1107のライブも、前にオーマイニュースで書いた記事の通り、最後の一回を残すのみとなりました。今回は特別に、すべてのテイクをビデオで撮らせていただきました。深町純のアートカフェ1107でのすばらしい即興演奏をお楽しみください。
今回は9テイクをサーバに入れておきます。是非ダウンロードしてお聞きください。
※今回はすべて深町氏ご自身の許可を得て、すべてオーマイニュースで出すことを了承していただきましたが、オーマイニュースでは必要なクォリティの画像と音声では画像が大きすぎて入らない、とのことで、こちらで発表いたします。
即興演奏 ~その1~
即興演奏 ~その2~
即興演奏 ~その3~
聴衆の方にメロディを弾いてもらって、それを使う即興演奏 ~その1~
聴衆の方にメロディを弾いてもらって、それを使う即興演奏 ~その2~
君の誕生日
深町純の熱烈なファンであり、同じ深町ファンのぼくらの友人であり、すぐれた同時通訳でもあったJames MacDounnel氏が昨年11月に、事故でこの世を去りました。今回のライブには、そのJames氏の奥様がいらしていたので、Jamesが大好きだった、深町氏の作詞・作曲による「君の誕生日」が、演奏されました。James氏は幼少のころ、父親の仕事の関係で英国から日本に渡ったので、顔は完全なひげ面の英国人なのに、日本語がすごくうまい、「変な外人」でした。アートカフェの深町ライブは全部来ていました。いつもギネス・ビールを片手にピアノの傍らで深町さんの音楽を楽しんでいました。この演奏はその奥様に聞いていただくため、演奏されたものです。奥様も、ちょっと画面に映っています。深町純が最近では珍しく歌っています。曲もおぼえやすい、いい曲です。なお、途中で日本語の歌詞の英語訳を語っているのは、恵比寿のトーマス英語学校の校長、トーマス氏です。トーマス氏もよくアートカフェに来ています。
即興演奏 ~その4~
即興演奏 ~その5~
即興演奏 ~その6~
QuickTimeムービーですが、QuickTimeを開き、「ファイル(F)-URLを開く(Cirl-U)」として、出てきた画面に、上記のリンク先の.MOVファイルのURLを貼り付けて見ると、ダウンロードの開始とほぼ同時に演奏を見ることができます。
投稿者 nori-m : 21:18 | コメント (0) | トラックバック
谷中から上野へ
谷中墓地から上野までは歩いてほんの少しだ。連休の一日、ちょっと散歩に出た。
谷中では、朝倉彫塑館にまず行く。
館内は撮影禁止だが、説明員の方に聞けば、庭は写真を撮っていい、とのこと。しかし、まぁ、それでも遠慮はしたけれども。でも、館内はかなり古くはなっているものの、やはり表からは伺い知れない奥深い空間が広がっている。応接に使っていたという三階の和室からの眺望と差し込む光がすばらしい。
一階の入り口正面にある、アトリエは大きなスペースがとられている。その横にある、壁一面の本棚のある書斎。そして、そこから歩いて、小さな和風の中庭を眺めながら朝倉氏の家族の居室に向かう。コースはだんだん上の階に向かう。そして、最後にその応接の間にたどり着く。
応接の間から玄関に降りる途中に、朝倉氏がたくさん飼っていたという猫の像がたくさんある小部屋を通る。この部屋の採光は、本当にすばらしい。猫の像はまるで生きているように見えるのだが、その姿をいっそう引き立たせる、小さな部屋だ。
朝倉彫塑館の裏手が谷中墓地。そこから、上野に向かって歩くと、東京芸術大学がある。芸大の横を通り過ぎて、上野公園にたどりつく。「子供の日」だったから、上野動物園に行くたくさんの家族連れが、まるで川の流れのように目の前をいつまでもいつまでも流れていた。
投稿者 nori-m : 16:59 | コメント (0) | トラックバック
ピアノを弾く
久しぶりに、行き着けのアートカフェ1107でピアノを弾く。
だいぶ酔っていたけど、ピアノを弾く。
その場にいた女の子数人に呼ばれたけど、弾く。
酔って弾くピアノは、実は気持ちがいい。短時間でできるストレス解消といっていい。
でも、この感覚は知っている人しかわからないんだなぁ。。。。
投稿者 nori-m : 00:35 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月07日
大衆芸術を担う人のいま
たとえば、昔の映画を見てみる。1960年代くらいの映画だ。
邦画のそこで出てくる俳優たちの「存在感」のすごさ。おそらく、その人が、朝一番で「おはようございます!」と部屋に入ってくると、それだけで、世界全部が明るくなるような、そういう存在感が、そのころの俳優たちにはあったのではないか。
たとえば、自分の後ろをその人が「スッ」と通っただけであっても、なにかしら背中に感じるようなものを、その人は持っていたのではないか。
いまどき「庶民的」「気さく」ということばでくくられるスターは、実はスターでもなんでもなく、存在感の無い人のことなのではないか?
よくお伺いするカフェでは、何人かの「スター」と呼ばれる方々を見た。
みんな、なにかしらの「存在感」があった。
森昌子さんが近くの席に座っていた。彼女は小柄で、顔もかわいい顔立ちだが、きりっとした美人、ということではない。「庶民的」を売り物にした彼女だが、そういう人であっても、その存在感は圧倒的だ。単なる迫力でも、単なるやさしさでも、単なる庶民的、というのでもない。なにかがあるのだ。
拝見した最初のときは実は誰かわからなかったが、決して美人、というわけではなくとも、小柄で、品の良い女性が座っているな、というようにまずは感じた。その後、その人があの森さんであることを知った。
いまは民主党の参議院議員になってしまった、元クラリオンガールの蓮舫さん。彼女もこの前の選挙で生で見る機会があったけれど、彼女もとても小柄で美人という感じではない。容姿とかで見るだけであれば、やはりそこいらにいる、仕事はバリバリにできて文句ばかり言う、行き遅れそうなOL、と言っても言いすぎじゃない(失礼!)。でも、そういうものを感じさせない「迫力」と、「存在感」が、彼女の周りに漂っているのを感じた。男性に媚びを売らないからいわゆる「かわいい女」ではない。にこっと微笑むときと、なにか考えて無表情なときのメリハリがきいている。この人もまた、自分の後ろを通り過ぎただけで、その人の存在感が感じられる、そういう人だ。
人には、こういう「差」が抜きがたくある。なんとも言葉では説明できない、そして、他人には決してまねのできない、その人独特のもの。
そういうことが、ある。そして、そういう人たちに、ふっ、と会う瞬間がとても多いところ。それが東京というところだ。
投稿者 nori-m : 05:45 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月05日
安心して記事を書く
さて、オーマイニュースでは、システムのリニューアルの後、いろいろ混乱が続いていたみたいだが、なんとか慣れてきた、という時期に入った。それでも、まだいくつかのバグは残っている。
そして、オーマイニュースで、自分はほとんど記事を書かず、他人への罵詈雑言と失礼ばかり重ね、さらに自己正当化の極みのような人が一人記者から抜けたようだ。その代わり、外からあれれこ言ってストレス解消をするための自分のBLOGを立ち上げたとのこと。
そのBLOGを見に行くまでもなく、おそらくそこには、「自分の言うことを聞いてくれなかった」オーマイニュースへの感情的なことばが連ねられているのだろう、と想像するが、ぼくは別に見に行こうとも思わない。
どんなに正当だと自分が信じることを言うにも、その内容がネガティブなことであればあるだけ、礼というものを尽くさなければ、やはり相手は自分の言うことに耳なんか傾けてくれない。世の中というのはそういうものだ。
結局、「ぼくちゃんの言うことに従わなかった、オーマイニュースなんか嫌いだいっ!」とばかりに、自爆して、自分が戦場と決めたその場所から、自ら消えてしまった。それがどんなにまともな意図で書かれていようとも、こんなことではただの茶番でしかない。
その言うことが100%正しいとしても、それを伝えるやりかたが誤っていれば、言いたいことはまるで伝わらない。日本語しかわからない相手に、英語でしゃべっても無駄なんだね。
ところで、オーマイニュースの「読者が選んだ注目記事」というタブをクリックすると、なぜかかなり前の記事、それもオーマイニュースそのものが事件になった記事や、オーマイニュース社の元締めである韓国をわざと印象悪く書いた記事などが、常に上位にある。これは、システムの「穴」をつついて、誰かが、このランキングを操作しているからだろう。普通はこんなことはない。
他のBLOGを見れば「あんなランキングはオレの力でなんとでもなる」と、うそぶく人間までいる。技術的には簡単なことでも、「それをやったらまずいよね」ということに、足を踏み入れている、というのは、やはり社会人としての自覚が足りない、幼稚な感性を感じずにはおれない。
ぼくには、ロシアに友人がいる。韓国にも友人がいる。中国にも友人がいる。米国にも友人がいる。どこにも長く滞在して仕事や遊びで多く交わった人たちがいる。楽しかった思い出も、不快だった思い出もある。どんな国にも、善人がいて、悪人がいる。どんな国にも裏と表がある。
でも、どの国に行っても、いい人たちばかりとぼくは会ったのじゃないか?という気がする。みんな多種多様で、それぞれの個性がある。生身の人間との付き合いやぶつかりあいが、良い結果を生むときも、そうでないこともある。自分と考え方の違う人もいるし、よく考え方が似ている人もいる。
これまで会った人たちのことを考えながら、きっと、こんなことは昔も今も変わらないことだろう、とぼくは思う。
そして、誰に対しても、礼を失し、相手のことを考えずに発言することだけは、基本的にやめようと思う。そして、その表現力が足りない、という理由で礼を失することを自分や他人にする人には、そのことを知らせてあげようと思う。なぜなら、きっと、そういうことはけっこう大事なことじゃないか、と思うからだ。
しかしながら「激越なことばで誹謗中傷を繰り返す人間」や、そのことばの裏に別の意図を持つような輩には、やはり容赦はしない。その理由のいかんにかかわらず、「悪意」とはたたかう必要があると思うからだ。
しかしね、「ここはディベートの場だから、丁々発止は当たり前」ということを言う人もいる。しかし、「クソして寝ろ」「屁こいてんじゃねぇ」「バカ」のような感情的な言葉を使えば、当然、まともな議論などはできなくなるのは自明のことだ。それだけじゃなく、そういう言葉を使うことをしない場合でも、そのことばの向こうに、まともな議論への意思ではなく、悪意が感じられれば、その時点でまともなディベートなどはできるはずもない。
もし、こういう感情的なことばを使うことが「ディベートの丁々発止」である、と勘違いしている人がいるのであれば、やはりそういう人とは付き合うことはできないだろう。そういう輩にからまれるのであれば、黙っていることがいちばんだが、あまりにひどい場合は「反撃」は、当然する。
いちばんの問題は、こういった感情的で激越なことばを投げつけるようなことを、自己正当化をしておきながら、同じようなことばの応酬になる、というばかげたことを避ける、という知恵を、記事を書く記者が普通はあまり持っていないことだろう。
本当に必要なのは、これらの「悪意あることばを使う輩」に物怖じをして、記者がちゃんと記事を書く、という意思を削がれることだ。プロの職業記者であれば、それでも書かねばならないし、書く必要があるが、アマチュアの「市民記者」には、「いやであればやめればいい」という逃げ道が常にある。だから、匿名で悪意を持った感情的な言葉を投げつける輩の存在こそが、オーマイニュースに限らず、ネット上の問題児として、認識される必要がある。
こういう「悪意で攻撃する」人間は「お前だって同じようなことをしているじゃないか」という、レトリックを使う。
よく考えればわかることだが、それはそのやりかたで最初に攻撃したのは、どちらか?ということが実はいちばん大切なことだ。
とは言うものの、ぼくは「やられたらやりかえす」ということを推奨するかというと、そうではない。あくまで、「無視する」ことを推奨している。攻撃された側は腹が立ってしょうがない、ということもあるだろうが、まず無視したほうがいい。
なぜかと言うと、本来の目的は、「そういう攻撃をさせないこと」であって、彼らと同じ次元でたたかって消耗することではないからだ。だから、ぼくはオーマイニュースのあの記事では、仕掛けられた攻撃全般に対しての反撃は漠然とするが、いくら攻撃されても大丈夫、という記者を多く出してほしい、と願うから、オーマイニュースのその記事のあの場のコメントなどでは、ほとんど反撃しないことにしている。
そういう意味で、あれこれ捨てゼリフをはきながら「抜けた」、冒頭の「ある人」の例は、良いことであったと、ぼくは思うよ。うんざりしていなくなるにしろ、やる気が起きなくていなくなったにしろ、いなくなったことそのものが、なにを置いても、とても良いことだと考えているからだ。
無視もまたコミュニケーションの1つだ。少なくとも「ののしりあい」を「双方向」だと勘違いするよりはましだ。
真摯にものをいってくる人間には対応しても、悪意とか罵詈雑言でものをいってくる人間には対処する義務はない。そういう人間が消えても、それはそれだけのことだ。
---
しかし、そのページのアクセスをあげないように、あるいは、アクセスしたことをなるべく悟られないように、「Web魚拓」なんかを使って、読んだことにしている、という人たちがいるが、これも意味はない。このBLOGや私のかかわるいくつかのページ場合は、作成日時を変更することなく、内容をときどき変更しているからね。オーマイニュースがそうしているかどうかは、私の知るところではないけれども。
投稿者 nori-m : 20:20 | コメント (0) | トラックバック
2007年05月03日
江の島のトビ
江の島にたくさんトビが飛んでいる。
そんだけ。
投稿者 nori-m : 09:41 | コメント (2) | トラックバック
2007年04月30日
「日本国憲法発布記念」と「W3」
実家に帰って、屋根裏部屋を調べていたら、昔、父親とかぼくが収集した切手が出てきた。
写真はそこで見つけた日本国憲法発布を記念した小型切手シート。昭和22年、ということは、戦争が終わって2年しかたっていない。紙も粗末な紙だ。
で、その頃の実家は練馬区にあったわけだが、近くにあった虫プロ(手塚治虫)があった。そこに行くと、撮影が終了して使わなくなったセル画を、土に埋めて捨てていた。
そこに、当時小学生のガキだったぼくらが行くと、そのセル画をもらえた。で、それがいまだに実家にとってあった。10枚くらいある。
これはおそらく、当時ちょっとテレビでやった「バンパイア」だと思う。いや違った。これ、W3(ワンダー・スリー)だ。。。。
白黒なんだね。。。。
投稿者 nori-m : 20:37 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月28日
鈴木章治とリズムエース
「鈴木章治とリズムエース」って、知ってますか?
昨日、一緒に飲んでた人たちはそのバンドにいたおじいさんたち。ジョージ川口とかも、この時代の人たちばかりでした。
みんな60代半ばです。
トランペットの渡辺正典さんは、今でも力強いトランペットを吹くし、ルイ・アームストロングの真似がうまい!いや、トランペットは言うまでもなく超一流。
みんなディキシーとかジャズのフルオケの時代の人たちですね。
ディキシーランドジャズは、ご存知の通り、アフリカンのリズムとアメリカ南部の民謡、その他が混ざった音楽です。
日本も米国も、なんだかすごく元気だった時代の音楽。
酒の席でしたが、ディキシーの名曲のセッションが、バンジョーとクラリネットで始まりました。音に艶のある、きっとその年齢の人しかできない音楽。うまいだけじゃない、なにかが聞こえます。
そして、今日の昼、青山墓地の横にある青山斎場を通り過ぎたら、植木等さんのお別れの会、というのをやっていて、テレビの中継車なんかがたくさん来てた。そういえばクレイジーキャッツも同じ時代かな?
2005年に、洪水でまさに言葉通り「壊滅」した、ジャズの都、ニューオルリンズ。
ひとつの音楽の時代が、きっと、少しずつ、終わろうとしているんじゃないか?。その最後の音色を、ぼくは今日、聞いたのじゃないか?。
音楽を愛し、酒を愛し、たばこを愛し、女を愛し、やがて終わる人生の宴の音が、少しずつ遠ざかっていく、その音色を、ぼくはそんな時代はリアルタイムでは知らないはずなのに、なぜか懐かしく聞いていました。
それも、たった10人しかいない、酒の席の即興のライブで。
静かな至福のときのひとつでした。
投稿者 nori-m : 08:19 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月27日
なぜ「カルト」にハマるのか
mixiを見ていたら、マイミクの方が、mixi内にいるアーレフ(旧:オウム真理教)の人たちや、そこを脱会した人たちのmixi内のアドレスを公開していた。。。。
実は、私は宗教にハマったことがまるでない。
いや、より正確に言えば「既成の団体としての宗教団体の標榜する宗教にハマったことがない」ということになるかな?
団体で徒党を組んで、みんながなぜ同じことを考えなきゃならないのか?ってのが、そもそもつまらない。それが正しいかどうか、ではなくて、面白いかどうか。正しさ、ってのは、最後の最後まで突き詰めると、実際には確かめようがないものだったりするから、それだけを求めていると、人間はドツボにはまって出られなくなる。だから、「正しさ」というのは、それが一般的な社会規範の範囲内に収まっていればいい、という程度のものだと思うんだな。
だから、行動の基準は、自分が楽しいもの、ということになるのが、自分の場合なんだな。
「宗教は麻薬だ」と言ったのはレーニンだが、人の集団を、今ある場所ではなく、違う場所(物理的な場所の意味もあるけど、もっと抽象的な意味もある)に置く必要がある場合は、どうしても「複数の人間に共通の精神的統一」みたいなものが必要で、そのための組織の組成や維持にも、そういうものが必要になることがある。宗教ってのは、どうも、そういう人間の集団を作らざるを得ないときに、この世に現れる。たとえば、戦争なんてのはわかりやすいその1つの例だろう。
そういう外形をとらえた意味としては、社会主義とか共産主義ってのも、宗教の1つ、と考えていいけれども、まぁ、その程度のものだ。
逆に考えれば、カルト的宗教が多くはびこる世の中は、「面白いもの」が少ない世の中なのかも知れない。自分で自分の「面白さ」を見つけられれば、カルトなんてどうでもよくなるだろう。自分で面白いものは作れない、と、思い込まされていることもあるのかも知れない。
投稿者 nori-m : 04:03 | コメント (2) | トラックバック
2007年04月26日
想像力の働かないひと
目の前のことにしか想像力が働かない、って人がやっぱり増えてる。特に「オンライン」でのコミュニケーションが普通になってくると、このあたりの「想像力」のある、なし、ってのが大きなファクターを占めるんじゃないだろうか?と個人的には思っている。特に「説明責任」などの言葉をオンラインで多く使う人ほど、自分の想像力の欠如の自覚がなく、危機感も無い、と、ぼくは思うけどね。
最初から想像力というものがちゃんと働いていれば、オンライン上で人を罵倒し、不快感を与えるようなことばは使えないはずなんだな。でも、相手に実際に会ったら、どんな会話があって、どういうやりとりがあって、どういうことになるか、で、この場合はこうする、とか、そういうことが想像がつかないから、「自分は絶対に正しい」「自分がおかしいと思う相手は絶対におかしい」という「脳内鉄腕アトム」になってしまって、「悪いやつは倒さなければならぬ」と熱くなる。
まぁ、そういうのは「熱い」というよりは「暑苦しい」という感じだが、そういうのに限って、実際に罵倒するその人や組織に実際に触れると、「あのときはすみませんでした」みたいな一言もまるでなく、コロっと態度が変わってしまう。
想像力がまるでないために、人とのコミュニケーション能力が非常に低い人がネットで大声で騒ぐと、すぐに口汚いことばでの攻撃が始まる。「説明責任が。。。」ということばはそういうときにたくさん使われるが、要するに相手がことばだけでは説明しきれないところを「オンラインなんだからことばで説明しろ!」という無理難題をふっかけてる、ってことに、気がつかない。
その後、実際に相手と会って、自分の態度が豹変しても、その自覚もなく、自分は自然に変わったのだから、なにも説明をする必要がない、と思っている。暴言を吐いた相手に謝る必要もない、と思っている。
おそらく、蝶よ花よと大事に育てられた、いいとこのぼっちゃんが、なんの時代のめぐりあわせかネットというものを知ってしまったがために、自分というものを他者の視点から見る、という想像力が欠如しているまま、自分がお山の大将の状態になった気分になって、後先も考えずに暴言を吐いている、という図。そして、実際に暴言を吐いた相手に面と向かって対峙し、事情が飲み込めたところで「ピタっ」となにも言えなくなってしまう。ジコチューって、のは、こういう「想像力が欠如した人」のことを言うんだよね。
でも、ネット上で見るこの手の「ええとこのぼっちゃん」は、なんだかオトコが多い。それもそういうオトコは学歴が低い、って人はあまり見ない。女性の場合もいないわけじゃないが、女性の場合は自分で自覚して「道を外す」人が多いから、自覚のないオトコの場合と違って、「覚悟」が見える。変節もまずしない。
しかしね、それが本当かどうか確かめるために、フットワークも軽く、いちばんに外国から東京に来て、体当たりしたのは女性のほうだった。暴言を吐き続ける大人のオトコどもは、いつまでも遠くから吼えるばかりでなにも体を動かさない。痺れをきらして、暴言を吐かれた人たちが東京からわざわざそのうるさいオトコどものいるところまで出張すれば、案の定コロっと態度が変わる。自覚もなく。
で、そのふがいないオトコどもに、くだんの「体当たりした女性」は、。。。「やっぱ怒る」よなぁ。
いやね、オトコってのは、いつまでたっても子供みたいなところがあって、それが愛すべきところでもあるんだよね。はは。
「女はとしをとる。でも、オトコはとしをとらない」。昔、知り合った女性の名言だけどね。
え?なんのことかわからない?って?。
ここのコメント欄とか読むとわかるかも。
投稿者 nori-m : 05:31 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月24日
ネット視野狭窄症
最近、主に私があれこれ市民記者として記事を書いているオーマイニュースのコメント欄、記事、そして、オーマイニュース以外のさまざまなニュースサイトを回ってみると、面白いことがわかる。
私もそうだが、だいたい、市井の普通の人にとって、毎日が毎日、ドラマティックである、なんてことはまずない。そんなにドラマティックであったら、家庭崩壊なんて今の何倍も増えるだろうし、安定した社会基盤なんて考えようもないから、国なんかもやっていけなくなることだろうね。
だから、「普通ではない」ことを描いた映画とかが面白く見えるわけだ。
もし、毎日を戦争で過ごすイラクの人たちに戦争映画のシリーズを見せたって、面白くもなんともないことだろう。
そして、日本の普通の市民の場合だって事は同じだ。
一人ひとりがそんなに広い守備範囲を持っているわけでもない。専門家であれば、その専門を持つがゆえに、他の分野にはまるで無頓着なものだ、ということだってある。ルネッサンス的な幅広い教養、なんてものは、同じように幅広い教養を持つ人たちどうしでしか、その価値観は共有できない。
オーマイニュースはじめ多くのネットメディアでは「ネットの専門家」と自称する人たちが、山のようにいる。鈴木なんとか馬のくそ、というくらい、掃いて捨てるほどいるのだ。なんせ「自称」ですからね。
で、その人たちの教養の狭さってのは、毎日仕事して、疲れて帰ってきて、憂さ晴らしと実益を兼ねてネットにアクセスしている、というその日常から生まれてる。毎日、自分が主体的にできることはネットであれこれを言うことくらいしかないから、ここぞとばかりに、大声で吼える。
そしてネットの話題とか、たとえばオーマイニュースであれば、「シミンメディアがどーしたこうした」とか、そういう話題でしか盛り上がれない。教養の域がすごく狭いんだな。こういう人たちは。
「市民メディアについて語る」なんて言ったって、それ「器」のことでしょ?器だけで人が豊かになれるなら、ご飯の載っていないお茶碗で、空気を食べて「おなかを一杯にしよう」なんて言ってるようなもんだね。ご飯について語るとよだれが出てくるけど、お茶碗についてだけ語っても、なんか虚しくないかね?
で、絵画の話、音楽の話、そしていろいろな芸術の奥深い話などになると、これらの人はとたんに黙る。誰しも、自分がお山の大将になれない、ってことろでつまずきたくはないからなんだね。
いいじゃないの、つまずいたって。自分の教養を広く深く求めて、悪いことはどこにもない。ネットでの罵詈雑言をあれこれ言う「エラソーな人たち」って、自分が人から教わる、っていうような謙虚な姿勢をしたことがないから、「自分が主張する」「黙る」のどちらかしか、自己表現の仕方を知らない。
自分のわからないところに突っ込んでいって、バカもやって、大恥かいて、そしてなにかを獲得していく、ってことに慣れてないんだな。たとえ壮年、老年と言われるほどに年齢を経た人でも、それができる人はやっぱり美しいし、人からの尊敬も得るよね。きっと、そこには「自分を殺して」生きる、その覚悟が、小さくてもちゃんと見えるからだろうね。自分のことだけを考えていないからだろうね。
かくして、ネットのような「ドツボ」で育つオトナやワカモノは、自分を殺して自分を生かす、という「人生の極意」を知らずに大きくなるのかな。人生を豊かにする幅広く、深い教養、というものに気がつくこともなく、他人への誹謗中傷、攻撃などしか、することがない、って人は淋しいもんだね。
芸術ってのは、音楽なんかも含めて、自分を殺して心開く人にしか、その豊穣を手にできない、そういうものなんだな。虚しくした自分に新たに発見するもう一つの豊かな自分。それが芸術なんだな。
でね、オーマイニュースのコメント欄を見ていて、教養の無い大人のなんと多いことか、と思うわけです。芸術系のアクセスもなかなか上がらない、ってのも、ネット住民の「不幸」を表現している、って感じがする。
つまらないことにこだわっていないで、もっと謙虚になって、自分をもっと大きくして、人生を楽しむ。人の周りにあるすべてのものの、豊かさを楽しむ生き方を、もっとしたらいいのに、と、私は思うのだけれども。
この前亡くなった鈴木ヒロミツ氏は、自分が死ぬ前に一冊の本を書いた。ニュースによれば、そこにはこう書いてある、ということだ。
「お別れ前に、一つだけ生意気を言わせてください。皆さん、これからの人生を、どうか楽しむために生きてください。人にはそれぞれ願いがあると思います。でも、目的が何であれ、笑って、笑って、腹の底から笑えるような人生を送って欲しい。僕はね、死を前にして、はっきり思ったんです。人生とは楽しいものだと。だから、どうか、楽しむために生きてください」
ああ、そうそう。教養って、学歴とは関係ないよ。
投稿者 nori-m : 08:07 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月23日
「自省」のない国
米国って言う国は、「自省」ということを知らない人たちがとても多い国。
日本でも同じだけど、ネットとかで常に誰かとつながっている状況ってのは、生きている安心感を与えると同時に、人から孤独を奪い去り、一人で自分のことを考える時間を奪う。
他人のことがいつも気になり、変わった人を認めるよりも排斥するほうに心が動く。
人は社会的動物だけれど、結局生死は固体の属性であって、それ以外にはなりようもない。だから、このような社会で人と常につながっていなければ不安、という人たちは、孤独をなくすことによって心の安定を得る。自分という固体の生死という逃れられない定めを深く心に刻む、豊穣で残酷なときの流れをなかったことにして。
で、それは確実に、誰にでもやってくる。
今の人の、この社会での本当の悲劇は、実はそこにあるんじゃないだろうか?
投稿者 nori-m : 07:59 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月22日
重なる笑顔
なんだか、ある人と、ある人の笑顔が、どうしても同じように見えてしまう。区別がつかないのだ。
いずれも、友人?知人?という人たちなのだが、なにかぼくとは違う感性を感じてしまう。
なにか、この世の中には、抗し難い大きなちからがあって、自分の信条とか、感情とか、そういうものを押し殺してでも、なにかそれにあわせていかなければならない、という、「なにか」を信じて生きている、というその感覚が、同じような笑顔に重なるのだ。
人間とはなんだろう、という哲学的な問いではなく、「人間とはこういうものだ」という生活感覚。その生活感覚におもねると、人は大きなことができなくなってしまうと、ぼくは思う。人がその人の枠を超えられず、発展もなにもない、と、思う。でも、それをこなす人たちもまた、どこかに必要なのだ。
それはわかっている。でも、ぼくはきっとその人たちの感性にはなりきれない。
堅実なものはどこかでつかみながら、もっと広く大きな世界を、ぼくは望んでいる。
そういうことを考えていたら、ぼくは吹っ切れてきた。あることに。
人の世はぼくが作る。人の世はぼくが見る。それがどこかで間違っていようと、結局はそれしか見る目というものがない以上、自分を信じて先に進むしかないではないか。
投稿者 nori-m : 21:06 | コメント (0) | トラックバック
「勝手カフェ」の勝手
で、まぁ、昨日の東京でのオーマイニュース「勝手カフェ」がどうなったか、というよりも、個人的には札幌で行われた「オーマイカフェ」がどうなったか、ということがとても気になる。今朝の新聞の社会面を読んでも「ネットニュースサイト関係者襲われ重症」というニュースはとりあえず無いので、ほっと胸をなでおろしている。
というのは、もちろん冗談だ。
今回の東京の勝手カフェでは、人数が少ないものの、大物ゲストの登場、これからやることなどが、とりあえず決まった感じがする。いろいろな意味で面白かった。
で、勝手カフェが終わったら、そのまま恵比寿へ。
この日曜日に誕生日を迎える方に、ちょっとした誕生日のプレゼントを渡しがてら、食事をする。
で、アートカフェ1107に行く。
イケメンのバーテン、野上くんはお休みで、マスターのすずきまさかつさんだけがカウンターに。
いろいろな人とお話をして、帰りました。昨晩のお酒の上での会話は、なんか楽しかったな。ほのぼのとしていて。
投稿者 nori-m : 12:29 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月19日
いまどき子供のような所業。。。
オーマイニュースの市民記者が、オーマイニュースのサイト内で交流を図れる、というシステムができあがり、その中の「コミュニティ(記者クラブと呼ぶ)」の中に、いまだに安定しないシステムのバグ報告の記者クラブができた。
しかし、そこに、「オレはこんなことも知ってるんだぞ」とばかりに、自己顕示欲の塊みたいなのが(いやまぁ、市民記者なんて私を含めてみんな自己顕示欲については同じようなモンではあるのだが)、そのサーバ構成を外部から調べ、空いているポートをスキャンして調べる、などのことをした奴がいるらしいのだ。
しかも、記者クラブ「不具合報告」に、その調べた情報を載せて、多くの市民記者がそれを見られるようにしてあった。
しかしなぁ、これって法律違反だろう。
サーバ管理者に無許可でポートスキャンする(←まずこれが法律違反:ハッキングの準備行動とみなされる)ことや、調べた内容を市民記者などの不特定多数やそれに準ずる人たちに公表(←市民記者としてのモラルにも反する)する、ってのは、いかにも自己顕示欲の塊らしい、子供みたいなやりかただ。
この程度の技術をひけらかして、あーでもない、こーでもない、というレベルなら、いまやネット上には掃いて捨てるほどいる。しかし、今はネットはこの程度の技術で威張れるような世界ではない。また、いくら技術があっても、モラルも法律も知らない人間では話にもならない。
自分が法律もなにも知らないことを露見させている時点で、バカ丸出しそのものだ。仕事でもないのに、暇人のおせっかいもほどほどにしたらどうだ?という感じだね。
【追記】ということで、不具合報告にこの件を書いたところ、19日午前8時30分、これらの情報は消されました。
投稿者 nori-m : 07:51 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月18日
雨が降る。忙しくなる。
雨が降る。今週はずっと雨だろう。地方選を戦ってるひとたち、ご苦労様です。そして、なんだか忙しい。
雨だと写真を撮りにいくのは、ちょっと限られたところになる。さすがに屋外の日本晴れの写真はもちろん撮れない。カメラを持ち出す機会が減る。
そして、忙しいから、あまり文章の量が書けない。
長崎市長選での凶行。そして、米国での銃乱射事件。なんだか他の話題はみんな色あせてしまう。
今の世の中の「暗さ」が、この忙しさの中でいっそう引き立って見えてしまう。
そろそろ、なにかが始まろうとしているけれど、決してそれが明るく希望にあふれたものだとは、ちょっと思えない。そういう感じだ。
今年は、いろいろなことが始まるだろう。そして、ひっそりと、なにかが終わるのだ。
投稿者 nori-m : 21:53 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月15日
オーマイニュースのシステムのデバッグ
なんかオーマイニュースのシステムのデバッグがかなり大変な状態になっているみたいだが。。。
システムってのは、ちょっと複雑にしただけで、デバッグ量がすごい勢いで増えていく、ってことは基本中の基本なんだが、そういうことがわかっていない人がシステムの見積もりをやったんじゃないかな?
機能A単体で2つの項目があって、これらをデバッグするとすると、2つデバッグすればいい、ということになる。
しかし、機能Aに加えて、それに関連する機能Bがあって、その2つでシステムができているとして、その機能Bにも2箇所のデバッグ項目があるとすると、機能Aのデバッグ項目×機能Bのデバッグ項目=4つのデバッグをしなければならない。
というように単純な計算なんだが、察しのいい人はお分かりのとおり、機能が増えれば増えるだけ、そしてその機能ごとにデバッグ項目が増えるだけ、システム全体のデバッグ項目は指数関数的(実際の数学的な根拠からすると「指数関数」ではないんだけど、感じとして、そういう感じ)に増えていく。
これを全部マトリックスの表にして、1つ1つその項目をつぶしていく。これがちゃんとしたデバッグなんだよね。
つまり、いっぺんに多くの機能をリリースする、ってのは、よほど慎重に時間をかけてやらないと、混乱が長く続くばかりでなく、リリース後の不確定要素が多すぎて、収拾がつかなくなる。
巨大なシステムを作った経験がないと、こういう仕事の気合の入れ方とか、実際のデバッグ時間の見積もりとか、そういう当たり前のことができない。
どうもね、オーマイニュースのシステムを作っている人って、このあたりのことがよくわかっていないみたいです。だからこういう混乱が起きるんだよね。あと、こういうときは必ずネットに露出しているシステムだから、この混乱に乗じてシステムに侵入しようとするやつらもいっぱいいます。この混乱の時期だけ、これ専門に一人張りつけてもいいくらいです。
なにかね、大変に申し訳ないのだが、ほとんど素人の仕事みたいです。。。。
投稿者 nori-m : 23:00 | コメント (0) | トラックバック
「おらが国」は世界である
日本の、特にネットの世論は、見ていると「日本バンザイ」みたいな、そういう話が、感情的なものをあおっていて、とても多い。でも、世界から日本をながめると、自分の国がそれなりにいとおしく思えると同時に、そんなに単純なことではないな、ということがよくわかる。
インターネット、そして国際金融のネットワークをはじめとしたグローバリズムの波は、正直なところ、それをよく知れば知るほど、「国」というローカルな存在をなくす方向に進んでいると、いまさらながらに思う。
中国の首相が日本に来て、日本の首相と握手を交わし、天皇のオリンピックへの招請を請う。韓国は半日イデオローグが多い、なんて言っていながら、今でも日本語教室が盛んだ。たとえ中国、韓国でさえ、「国として1つにまとまる」なんてことはなく、国民の世論なんてのは、バラバラで、日本と同じような状況だ。
「社会主義国」である北朝鮮は、いまや「資本主義国家」韓国の友人になっている。中国・北京の秋葉原、「中閑村」にあふれているPCやPCのパーツ、電子部品は、いまだに台湾製のものが非常に多い。台湾資本は、香港や米国を経由して中国への融資をしている。表では喧嘩をしているように見えるけれども、一歩裏に回れば、彼らはお金の面から人の交流など、多くの面ですでに抜き差しならない関係にあることは明白だ。
仕事で中国、日本、韓国、米国、には仕事でよく行く。日本にいてもそのかかわりが大きい。そしてこの前は「学力世界一」のフィンランドに行ったけれども、みんな国の中は日本みたいにバラバラだ。日本にもよこしまな人がいるように、これらの国にもよこしまな人がいるし、日本にも立派な人がいるように、これらの国にも立派な人がいる。日本にも泥棒がいるように、どの国にも泥棒がいる。
韓国でも中国でも「反日」を言う人もいれば、「親日」の鏡のような人もいる。みんないろいろな立場で、いろいろなことを言っている。
みんな自分以外の国とか人は自分がそれを理解したいがために、どこか無意識に「単純化」して物事を見てしおう、とするから、「あの人はこういう人ですね」「この人はこういうことをする人ですね」「あの国はこんな国ですね」と、ついついレッテルを貼ってしまうけれども、実際その人や国と接してみれば、これらが「幻想」のようなものだった、ということにすぐに気が付く。
ぼくみたいに、いろいろなことを仕事にしていると、「いったいあなたはなんなのですか?」「なにを仕事にしているのですか?」と、あらためて聞かれてしまうけれども、実はその全部が「ぼく」なので、なんとも答えようがない。でも、他人は「単純に理解」をしたがるから、ついつい人を「あの人はこういう人」と、自分の心の中に整理をして置いておきたがる。整理がつかないときは、それだけでイライラする人さえいる。
自分のこころをもっと開いて、自分を眺めなおせば、自分が陥っている「機能主義」みたいな、なにか目の前にあることを分類・整理しなければ気が気でない、という状態から抜け出せるのではないかな?
あるものをあるがままに受け入れ、あるものをあるがままによしとする。
そのうえで、自分はどうしたいかを考える。
だから、いま、単純化されて言われている物事は、実はウソばかりだと思っていいだろう。本当のことはみな複雑に絡み合っているから、単純なものはどこにも無い。複雑に決まっている。だから、その複雑さを理解できない人は、みな脱落していく。複雑なものを複雑なまま扱えない人は、みな脱落していく。
世界大戦前の世界はそれでも国単位で物事を考えていれば、まだなんとかなった。今に比べてではあるけれど、そういう意味の「明快さ」があった。
しかし、今は違う。世界を行き来する交通手段は極限まで安くなり、庶民でも大陸間の移動なんて、屁でもない。加えて、インターネットなどの日常のコミュニケーション手段も、これまた極限まで安価になり、日本国内でさえ、億を数える人たちがお互いにコミュニケーションをとる。放送などのマスコミの「位置」そのものが、すでに20年前と違う。
やがて「国」という単位も、いま、金融でそうであるように、「どうでもいいこと」になっていくことだろう。国は行政単位としてだけ残り、その対立そのものが、がんじがらめの国際関係の中で常に他のものとの関係の中で簡単に「消化」されていく。
世の中には、そういうことを理解できない人のほうが実は多い。だから、そういう人には「ありのままを語られると、難しくてわからないでしょうが、実は対立しているんですよ」という単純化された幻想を持たせて、安心させてあげて、どこかへの利益誘導を図る、なんてことまでされていたりするんだよね。
複雑な世の中は、ネットなどのコミュニケーション手段の発達によって「高度情報化」され、その複雑さと多様さをより深め、物事を単純に考える人、物事を単純に考えたい人を置き去りにしていく。
中国の首相のあの笑顔での来日。突然のシナリオにない発言。みな、その裏にはなにかあるんじゃないか?とかをいろいろ考える人がいるだろう。実際、裏はあるんでしょうね。ないわけがない。でも、感情はきっと一切ない。そういう問題でない、もっと複雑な関係が横たわっていて、それがあまりに複雑なために、今のマスコミ程度じゃ読み解けないし、それを読み解いたとしても、多くの人がその複雑さを受け入れられない、ということなんだと思うよ。
若い人にはこう言っておこう。
物事は複雑だ。それを簡単にすると、みんなウソが混じる。本当のことを知りたければ、自分で勉強して、複雑なことを自分の中にそのまま取り込む術を身に着けること。そうしなければ、やがてあなたは落伍していくよ。
と。
投稿者 nori-m : 08:44 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月14日
カメラバッグ

カメラバッグもいろいろ使った。かなり高い専用のものから、安っぽいもの、カメラにちょっと大きめな望遠ズームレンズをつけて、これをまとめて入れられるもの。ライブ撮りなんかだと、三脚を使うこともあるが、そういう用途では、やはり専用の大きなバッグに全部入れていく。自宅にあるカメラバッグの数はかなりの数にのぼる。
でも、最近、アウトドアで撮りに行くときなんかのお気に入りはちょっと違う。
無印良品で買ってきた、安物の真っ黒いブランド名もなにも入っていないトートバッグ。やわらかいキルティングの素材で、手提げの部分はとても強度がある。でも、バッグそのもののの自重は500gくらいしかない。このバッグはなんと\1,500-円也。
そこに、クッションとしてインナーのソフトボックス(こんなやつですね)を入れ、カメラが入るように、中の仕切りを調節する。これでもバッグそのものの自重は700gくらい。このインナーバッグは700円くらいだったかな。。。
僕の場合は、ちょいと長めの望遠ズームつきDSLR(デジタル一眼レフ)1台と、超広角ズームつきのDSLR1台。それに電池とかCFカードとかのほか、大物としてはB5サイズのノートPC(とACアダプタ)をモバイル環境として持って歩く。ときどき、これに加えて望遠ズームつきのコンパクトデジカメ(といっても、28-200mmみたいなレンズつきのもの)を持っていく。行った先でのレンズ交換は一切しないですむ組み合わせにしてある。
もともとが重いものばかりだから、バッグそのものの自重はできるだけ軽いほうがいいし、とっさにカメラを出す、というシチュエーションも多いから、トート型のバッグのように上が常に開いているタイプのバッグはとても使いやすい。
もともと、よっぽどのことがなければ三脚は使わないから、三脚は持って歩かない。今はちょっとしたライブの撮影であれば、普通は手ぶれ補正とISO感度アップで対応できる。
いずれにしても、これら全部のものを入れ、かつ、ティシュとかその他小物を入れて移動するわけだから、バッグそのものの自重がどれだけ軽いか、ということは大きな問題になる。
それに、ぼくは写真以外の仕事も多いから、写真関係でない人に途中で会うこともある。あまり持ち物のメーカー名なんかは表に出したくないことも多い。なにを持ってるんだかわからない、というバッグのほうが好きだ。いかにも「このメーカーのカメラ持ってるんですよ」というように、カメラメーカーの名前の入ったバッグなんか持つのは、なんだか恥ずかしい。
だから、ぼくがこれだけの機材を持って歩いていても、ぼくのバッグにはなにが入っているのだか、外からは一切わからないし、そのほうがぼくにはいい。バッグのブランドなんかも見えないほうがいい。
日本もだいぶ変わってきたとは思うけれども、ブランド物をひけらかして歩く、なんてのがぼくは好きではないし、カメラなんてのは写真を撮る道具として完成されていればよいのだから、ブランドはあまり関係ない。カメラという「モノ」を持つことが楽しい、というアマチュアも多いけれども、やっぱり、僕の場合は違うなぁ。
投稿者 nori-m : 19:58 | コメント (0) | トラックバック
都議選を近くで見ると
「石原vs民主党」。まぁ、それが結論だと思う。
民主党が擁立した浅野氏は、最後までゴタゴタして対抗馬が決まらなかった末になんとか決めた候補だったから、浅野個人が前面に出るわけもなかった。
石原のほうはと言えば、自民党の内部からも「あいつはもうヤメロ」と言われ続けて、各種のスキャンダルもあれこれ取りざたされた。
石原自身は勇ましいことを言うわりに、非常に小心者、という評判をあの周辺では多く聞く。結局、東京都くらい大きな行政組織となると、個人があれこれとできるような組織ではないから、役人がいろいろなことを決め、各部と調整をして、やっと物事が決まる。
官僚出身の政治家が多いのも、このあたりのやり方を心得ているからなんだが、官僚出身ではない石原は、そういう意味ではほとんど役人の言うがまま、と言っていい。
政治にも、役人にも「感情」はない。それに思い入れるのは勝手だが、イデオロギー抜きで誰がいったい「事実」を動かしているのか?という目で見れば、いろいろなことが見えてくる。
投稿者 nori-m : 18:20 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月13日
オーマイニュースの混乱
ある意味シンプルであるがゆえに、時代にあわない、と非難されていたものの、それを人間系のシステムでなんとかカバーしていた「古いシステム」は、それはそれなりに、まともに動いていたし、それにあわせて人間系のシステムがなんとか機能していた。
それがオーマイニュースの、この4月9日までに動いていたシステムだった。
しかし、10日にリニューアル再開されたシステムは、3日たった今日でも、大小のバグが多く、いくつかの機能が動いていない。特にこういったシステムの混乱のサバイバルに慣れていない市民記者にとっては、大変な重課になっていると思う。
また、すべての記事のURLが変更になったため、貴重な外部からの記事への直リンクなどが一切使えなくなってしまった。今までのリンクが使えるように方策をとっておくべきだった。なにせ、「特徴あるニュース」を標榜しているこのニュースサイトにとって「リンクしてくれる」というのは、非常に大きな財産のはずだ。
※ リンクについては復活したみたいですね。【2007/04/14】
今までいた市民記者も、あまりに多い機能に悲鳴を上げているだけではなく、バグのためにその機能の一部が完全に動かず、混乱が生じていて、使うことを躊躇する市民記者も多い。
このサイトの機能が完全に動いたとしても、この機能の多さは、一部のネットが大好き、という「マニア」には良くても「機械オンチ」を自認するより多くの記者や読者を戸惑わせるように感じる。市民記者でも「エキスパート」と「ノーマル」くらいの操作の選択ができるといいんじゃないかと思うのだが。
あと、リリース時期をもっと遅らせたほうがよかっただろうと思う。開発技術者のスキルの低さもかなり見えるのだが、なによりもスケジューリングのまずさがそれ以上に目に入るからだ。通常、この規模のシステムは「個人技」で短期間にできるものではなく、できたように見えても、大量のアクセスなどがあるといっぺんに破綻したりするものだからだ。このレベルの開発者では、おそらくもっと試験期間、バグ取り期間をとってからディストリビューションするのが望ましかっただろう。たとえ少々開発者がヘボでも、時間を多めにとればちゃんと開発が終わることだってあるからだ。
システム開発は趣味ではないから、個人的なアイデアが多くの力を持つと思うのは幻想に過ぎない。そのサイトをとりまくさまざまな社会状況を勘案し、配慮したうえ、その環境とも整合性を取ることを考え、システム開発だけではなく、その運営や時系列としてのディストリビューションのスケジュールなども、短期、長期にわたって考える必要がある。
それを限られた時間と予算の中でどう行うか。それが、SEの腕の見せ所なんだが、当然無理なことは無理、とはねつけることが、開発者側にも必要だ。
この記事にあるように、ね。
投稿者 nori-m : 07:21 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月12日
人知れず微笑まん
昨晩、北岡和義氏とお話をする機会があった。
LAにいるときにお世話になった鶴亀彰氏から紹介され、ぼくがJETRO LosAngelesで講演した後に、ぼくを取材してくれた、LAの日本語ケーブルTV局JATV(Japan America Television Inc.,)の創設者だ。もと読売にいらした記者で、多くの著書もある。
昨晩はその鶴亀氏の集まりだったのだが、いろいろな人がその新橋のクラブに来ていた。
私たちとは別のグループだったが、そのお店には某大臣とか、某知事とかも来て飲んでいた。
北岡氏の話は、いつでも非常に明快だ。 もちろん、LAといえばUCLAなどの世界的な学術研究をしている大学も地元にあるから、学術方面のお話もできる方だ。
人のつながりが人のつながりを作る。東京という場所は、そういう人たちの輪を作る場所だ。都会とはそういうところだ。
その席ではいろいろなお話があったけど、あまり多すぎてここには書ききれない。いろいろな人を紹介もしてもらった。これも書ききれない。世界をまたぐ人たちが集まった。おそらく、ここに書けば「ああ、あの人!」といわれるような、そういう人たちばかりだ。
この人のつながりを見ていると、「オンラインで」なんて言ってるのが、いかに世界の狭い話であるか、ということが肌にしみる。量も、質も、実際にその人に会って話すからこそ、意味がある。オンラインしか人と会えない、というのは、やはり不幸なのだ、と、思う。
オンラインはなにかを作るのではなく、それはコミュニケーションの補間手段でしかない。昨晩の出会いはそう思える出会いだった、とだけ、ここに書いて置こうと思う。
-----
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と
でも私はいつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら 最後に
人知れずほゝえみたいものだ
一九五六年 美智子作
投稿者 nori-m : 23:05 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月11日
なんとか動いたか?オーマイニュース
小さなバグはまだ残るものの、オーマイニュースのリニューアルは小さなバグのUpdateを残して、ほぼ終わったようだ。
いろいろな問題はあるものの、システムとしては「面白い」システムになっている。
SNSのような「友人記者」という、mixiの「マイミク」みたいな概念とか、「市民記者クラブ」のように、同じような興味を持った記者が集まるスペースを作ったのは、とても面白い。
ただ、こういった仕組みは「派閥」も作るだろう。特にオーマイニュースの場合は、韓国発であることや、どちらかと言えばリベラルな人たちのよりどころになっていたりとか、そういう意味での「攻撃対象」にされやすいところがどうしてもある。だから、この「市民記者クラブ」で、オーマイニュースをなんとかつぶしたい、などの方向性を持つ人たちを「養成」してしまう場になることだってあるだろう。もちろん、それだってオーマイニュースのシステム内のことであるわけだから、オーマイニュース社内でコントロールできる範囲にそれらの人たちが「見える」ことは、悪いことではないし、ページビューの増加に貢献すれば、それはそれでいいことなのかも知れない。
複雑なシステムになったぶん、編集部員がこれを運用して、その中の迷惑行為などやそれに準ずる行為などを探し出すのは、前よりも難しくなったかも知れない。もっとも、これも「慣れ」の問題、ということかも知れないが。
記事への一般からの評価システムは、とても面白いことだと思うが、やはりこれの圧力を嫌って、怖いから記事を書かない、という記者もいるかも知れない。編集部は、そういう記者への「フォロー」も、いろいろと行う必要がある可能性がある。いずれにしても、全体としては、編集部の主体性を前面に出しつつ、一般からの評価なども取り入れることができるシステムは、大変に面白い。
しばらくはこのシステムがこの日本の社会でどう働くか、見てみようと思う。
投稿者 nori-m : 08:18 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月10日
オーマイニュースのリニューアル
本日午前0時に始まって、本日午前5時に終わるはずだったオーマイニュースのリニューアル開始が遅れている。現時点でもまだ動いていないようだ。
こういうシステムって、お決まりのようにこういうことが起きる。
オーマイニュースくらいの規模になれば、DBの変換も含めたリニューアル用の変換ツールなどの開発もしておけばよいわけなんだけれども、どうもかなり手作業が入っているようだ。
また、こういった作業には、必ず「不測の事態」が起きるものだ。
だから、なにも知らない外部には、サバを読んで「5時間」を「12時間」くらいにして知らせておく必要がある。もし、作業が予告より早く終わった場合は、その時間を使って試験をしないとだめだ。なにがあるかわからないのだけれども、その「わからない」を見積もるのが「プロの仕事」なんだな。
で、まぁ、動くのを待つかな。。。と。
これでも読んで。
で、いま14:00なんだが、まだ「マイページ」の更新ができない、など、なんだかあちこちに問題があるみたいに見えるんだが。。。
投稿者 nori-m : 10:12 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月09日
他にはいないだろうなぁ。。。
ところで、最近の製造業の大企業は、このところのデンソーなどのニュースの影響で、外国人プログラマの締め出しをあちこちで始めている。そうは言うものの日本の企業だって、プログラムを組む人員がいなくて困っているからオフショアの開発に力を入れている。
日本のシステムハウスの技術はどんどん遅れているし、人件費も高い。だからオフショア開発にみんなシフトしているのに、肝心の仕事(もちろん、下請け仕事のこと)は、外国人追い出しが始まっている。
やがて、日本人だけの開発会社と、そうでない会社は二極に分かれることになるだろう。
投稿者 nori-m : 10:12 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月08日
戦争のこと
TBNという毎日数万からのアクセスがあるニュースを集めたサイトの管理人さん。開高腱氏の小説中の戦争中の慰安婦の話を読んで、「本当にあったのか。。。」と、驚いている。
慰安婦問題なども含め、「あれは実はなかったんだよ」という話が過剰に多くネットに流れすぎているためか、完全な否定論を信じてしまった若い人も数多くいるんだなあ。
戦争だから、敵味方問わず、おそらく「そういうこと」はあったと思う。大きなものも、小さなものも。
敵が悪い、味方が悪い、というのではなく「戦争をはじめた人たちが悪い」のだ、という認識がやはり必要な感じがする。
戦争は為政者の立場に立てばゲームかも知れないが、われわれ庶民からして見れば、それが敵であれ味方であれ、ただの混乱であり、ただの浪費であり、そして殺戮であり破壊だ。
投稿者 nori-m : 13:35 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月07日
桜の季節を
桜の季節をスライドショーにまとめました。すでに表に出したものも含んでいますけど、全部で172枚あります。
期末と期のはじまり。そして、桜の季節。人生の節目に咲く桜を、懐かしい思いで眺めた人も多いと思います。
いろいろな人の節目を、暖かい淡い色で包む桜の花が日本独特の季節感をかもし出す、とよく言われるのは、きっと日本の暦の上での節目と、それがあっているからでしょう。
投稿者 nori-m : 09:02 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月06日
5万8千って???
オーマイニュースに書いた記事なんだが。
いま、調べたらアクセス数が5万8千。
昨晩はもっと低かったし、この記事そのものはすでにオーマイニュースのトップページからフェイドアウトしたものだ。
Yahooニュースからのリンクがあったのは知っていたけど、それだけでここまでいくか?と、思ったが、編集部に問い合わせたら、やっぱりYahooからのものとのこと。。。。Yahoo強し。
で、選挙管理委員会はこのリンクにある、東京都知事候補者である外山恒一氏の政見放送の動画をYouTubeから削除するよう、YouTubeに訴えたそうで、実際にこのリンクはいま見たら死んでいた。あんなに面白い「見世物」は、ここしばらくなかったのに。。。
しかし、政見放送のようなものこそ、有権者はVODで好きなときに、何度も見たい、というようなものだと思うのだが。それこそ、選挙管理委員会がビデオサーバをちゃんと用意して携帯からでもストリーミングのビデオが見られるようにするべきだと思うのだが。
投稿者 nori-m : 19:43 | コメント (0) | トラックバック
100本め
今朝のオーマイニュースのトップになったこの記事:
「エゴ・サーチのすすめ」。
「粘着くん」の攻撃にもめげず、気が付けばその事象を黙々と記事として書き続け、これをもって、オーマイニュースでの自分の記事は100件を達成。ちょっとうれしいね。
しかしね、「おめでとう」と、トラックバックでコメントしてくれるのはうれしいのだが、早過ぎ。あと、FireFoxで、そのページが見えない。。。。
オーマイニュースに市民記者として登録したのは昨年の9月30日だから、実質10月1日。ということは、自分としては「半年と6日」での100件達成。そのうち1件は長島記者とのコラボ記事。あのときは、雨の中、ご苦労様でした。
投稿者 nori-m : 08:30 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月05日
オーマイニュースの規約改正
オーマイニュースの規約改正があった。
そして、その中にオーマイニュースの新しいシステムでは、(1)記者登録をしていない人も記事にコメントをつけることができる、ということが書いてある。さらに、ほかのところの発表では、(2)SNS機能を持つ、ということも公にされたようだ。
それに伴って、倫理規定なども改正され、私が「粘着くん」と呼んでいる人の「粘着コメント」には、かなり厳しい態度がとられると同時に、市民記者個人にもかなりの負担がかかるような感じも受けた。
本当のところは実際に4月11日に発表されるシステムを見てみないとわからないが、面白いことが始まる可能性もある。SNSということであれば、記者どうしのコミュニケーションもこのシステムで図られると思うが、それがどのように実現されているのかはとても楽しみだ。
しかしながら、一方で「粘着くん」の活躍もまた、多くなることだってあるかも知れない。だから、「無視」という方法論もまた、有効なように思うのだが、いかがだろうか?とは言うものの、みんな言いたい放題で自分の正当なことを主張しあうこのネットの世界では、「俺の意見を聞け」「俺の意見が正しい」ということばかりが強調されるようになるんだろうなぁ、とも思う。
ある意味、なにも変わらないのではないか?ということも、あるかも知れない。
まぁ、それにつけても、最初はやっぱりバグ取りなんだろうなぁ。。。
【追記】昨日このエントリを上げたが、寝ぼけて誤字が多かったので、バグとりしました。
投稿者 nori-m : 00:40 | コメント (0) | トラックバック
2007年04月03日
Everything but the girl

もう十数年前にかなり流行ったグループだが「Everything but the girl」というデュオ・グループがある。いまもあるんだが。
この音楽のセンスのよさ。Manhattan Transferなんかも洗練されたいい感じで、ぼくはいまだにファンなんだけれども、このEBTGのセンスのよさ、軽さ、ってのは、それ以上に肩の力の抜けた、いい感じがする。
アルバム「Language of Life」なんかは、最初のDrivingという曲のイントロがいい感じだ。引っ越してきたばかりの洋室の部屋で、部屋にまだじゅうたんも家具も荷物の梱包も解いていないときには、部屋の反響というのが少々はするものだが、そういうちょっと反響のある部屋でこの音楽を小さく流すと、なんだか乾いているけど、どこか部分的にWetな、そういう空間に来た感じがする。
安らぎの映像のイメージをかきたてる現代的なセンスのよさ。それがこのEBTGの音楽のよさなんだと思う。
Everything but the girl。知ってますか?
投稿者 nori-m : 23:26 | コメント (3) | トラックバック
2007年04月02日
狭い世界
どんな世界でも、そうそう広くはないものだが、ネットというものができていらい、その「タコツボ」から出られない人たちもまた、多く見る。
相変わらず粘着コメントを書くことに生きがいを見出しているとか、煽って人を怒らせるとか、そういうことを楽しみにしている、なんてのは、まだかわいい。ぼくでなくても、あまりにたくさんのああいう粘着コメントを見ると、うんざりしてくるだろう。うんざりはするけど、やっぱり書くけどね。
まぁ、そういう人たちは横に置いておいて、オーマイニュースでさまざまなジャンルの記事を書いていて思うのは、特に芸術系などの人たちがあのサイトに来ていない、ってこと。むしろ、そういう人たちにも多くの作品を出して自分をアピールしてほしいな、と思うのだが、芸術系の記事のアクセスはいまひとつ伸びない。
この国は、アーティストがちゃんと食えない国なんだが、特にネットの話題を多く書くと人が集まるのに、アート系はほとんど人が集まらない。芸能系はけっこう人が集まるけど、それでもネット系の話題のアクセス数には追いつかない。
現状、それは仕方ないし、そのアクセス数は現状納得がいく。でも、また、いろいろな記事を見ると、全体的に「暗い」ってのも、なんだか辛い。もうちょっと明るい話題も欲しい。そして、アート、音楽、そういうったものに、ちゃんとした記事の位置を与えてくれることができれば、と思う。
ぼくもネットにいないことが最近多くなった。仕事が忙しくなってきたこともあるし、なによりも、ネットだけの世界では、広がる人脈が限られることがわかってきたからだ。そして、やはり気持ちのいい外の空気は吸いたい。もっと、広い世界で動きたい。
タコツボ議論の大好きな「粘着くん」の相手ばかりじゃ、疲れるしね。
投稿者 nori-m : 07:23 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月30日
桜の季節(2)
田園調布の多摩川べりのところに、小高いちょっと大きな丘があって、ここが多摩川台公園という公園になっています。この季節のここの桜はたいへんにきれいです。ちょっとした散策にはすごくいい環境なので、ちょくちょく行きます。東急東横線の多摩川駅のすぐ近くです。
投稿者 nori-m : 22:16 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月29日
桜の季節(1)
投稿者 nori-m : 20:50 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月26日
ぼくが会社をやめたわけ

足掛け17年間。小さいながらも「システムハウス」を経営してきた。でも、あるとき、ぼくはそれをやめた。たいした金額の負債があったわけではなかった。でも、ぼくは黙った。この国でぼくが考えていたような、創造的で新しいことを常に追い求めていく仕事は望まれていないのだ、と、わかったからだ。
ぼくが肌で感じたそのことを、松原氏は的確にまとめていた。
まさにその渦中でぼくが見た日本のソフトウエア産業の堕落と、なだれを打ったようにあらぬ方向になんの危機感もなく流れていく、経営者や技術者の群れ。
その流れに「さよなら」を言ったそのときを、この文章を読んで、あらためて鮮やかに思い出した。
長い文だが、日本のソフトウエア産業に携わるすべての人に、これを読んでいただきたい。
【追記】 私が作ったその会社の最初の仕事をいただいた会社は、松原友夫氏がその初代の取締役として就任した日立の子会社「日立ソフトウエアエンジニアリング(略称:日立ソフト)」だった。会社のあった17年間、さまざまなお仕事で何度もお付き合いをいただいた。
投稿者 nori-m : 17:45 | コメント (4) | トラックバック
ひと段落・と・ピッコロバイオリン
忙しさもひと段落してきた。
PCの前に座る時間が久しぶりに短かった週末を過ごした。
やがて始まるこれからのことは、忙しくなっていくのか?そうではないのか?まだわからないところ。
ところで、5月の12日、昨年来日して日本で唯一の公演を行った、サンクトペテルブルグ交響楽団の第一バイオリン奏者: グリゴリー・セドゥフ氏の来日公演が、またあの恵比寿アートカフェ1107である。今回はピッコロバイオリンを主にした公演とのことで、大変に期待が持てる。完璧であたたかい。このときは、涙を流している人さえいた。
この前の11月にセドゥフ氏が来たとき、アートカフェでやった演奏のビデオはここにある。聞いていただければ、あの場所での演奏のすばらしさがわかる。ピッコロバイオリンの音色にちょうど良い大きさの場所だ。おそらく、他のコンサートホールやライブハウス等ではこの音は出ない、と私は思う。
---
※ この画像は、DivX形式と言う形式なので、見られない場合は、ここからプレイヤーをダウンロードしてから見てください。
投稿者 nori-m : 07:52 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月25日
ネットで「変節漢」
いわゆる、「オレはネットの住人だぜぃ」と自称する人たちがいるんだが、この人たちの主張は、ネットはフラットな空間であるべきなので、なにを言ったか」が問題であって、「その人がどういう人か」は問題ではない、という。。。。
で、そういうことを強く主張する人が、議論に詰まってきて、いよいよ旗色が悪くなると、比較的良心的な人でも、まず「黙る」。決して「間違っていました、ごめんなさい」とは言わない。他人を打ち負かした、あいつに間違いを認めさせた、どうだ、おれは偉いだろう?と、やる人間に限って、こういう子供のような態度をとる、ってのは、笑える。
こういった状況で黙る人はまだいい。子供のような、どこか可愛気を感じることさえ、ないではない(実際、私に言わせれば精神構造がコドモだが)。いや、リアルなおじさんとかニートとか秋葉原系とかの本物を見ると引くかも知れないが、とりあえずネットでの書き込みをみれば、その限りにおいては可愛い。いや、ネット以外で会いたい、って言ってるわけじゃないよ。
中には、そこから議論を横っちょにそらして、議論している相手の個人情報や、過去に言ったこと、書いたことをあれこれと詮索したり、それをわざわざ探してきて、暴露して、反論ができない腹いせをする、という悪質な連中もいる。いわく、「おまえは昔、こんなことを言っていたじゃないか。一貫性のない変節漢め!」と、やるわけだ。このやりかたで、その「人」の主張する言論の信頼を貶めてやろう、という意図が丸見えだ。
もっとも、こんなときには、本人が必要があってネット上にさらしている情報しか、こういう連中は持ってくることができない、ってのが普通だから、これもたいした影響はない。ただ、外野から見れば、そういう「あがき」の様子が、見苦しく見えるだけだ。
それに、こういうことをしてしまうと、「そこになにが書かれているかが問題であって、誰が言ったか、は問題ではない」という看板に大きな偽りが出てくることになる。やっていることが矛盾している。
つまり、その「誰」に対する執拗ないやがらせをはじめるに至っては、「誰」が大変に意識されまくっていて、「言ったことの中身」が横に追いやられている。ほら、「言った内容で判断」するんじゃなくて、「その人で判断」しちゃってる。
「誰」という「人」は、それが人である限り「歴史」を背負っている。つまり「誰」という特定は、その人の重ねてきた「歴史」でしかできない。その人の「過去やったこと」を言う、その時点で「そこで言ったこと」ではなく「その人はどういう人か」ということが問題となるので、「言ったこと」の重みが相対的に軽くなってしまう。結果として、フラットなはずのネットという言論の場が、「そこになにが書かれているかが問題であって、誰が言ったか、は問題ではない」、というように言ったその人の自らの行動によって、矛盾を露呈する。
「誰が言ったか」が問題ではなく「なにを言ったか」が問題である、とする「フラットな場」は、こうやって内部から腐っていく。
私が思うに、はっきり言えば「フラットな場」は幻想だ。力関係があり、歴史を背負った一人一人がそこにいる以上、「完全にフラットな場」は存在しない。ネットでも、だ。
この一貫性のなさを見れば、「ネットはフラットな場だから、肩書きとか、その人がなにをしてきたか、ってのは関係ない」と言うことが明らかなウソになっていることがよくわかる。きっと、自分でもそれには気がつかないから、いつまでも同じことを繰り返すのだろうと思うけど。人間は自分には甘く、他人には厳しいものだからね。こういうこともあってもいいかも知れないし、ぼくは赦しちゃうね。だって、ぼくはその人がいま言ったそのことだけで、人を判断はしないから。
「言った内容が大切で、それで判断しろ」と言うのであれば、その人が過去になにを言ったのか?ということも、気にしてはいけない。いま、そこに書かれたそのことのみで判断しなければならない。
---
で、それはぼくの見るところ、できないんだよね。「ネットはフラット」なんてことばを頼りにしている人であればあるほど。
投稿者 nori-m : 12:20 | コメント (2) | トラックバック
2007年03月23日
軍の遺構
日本にはたくさんの旧軍の遺構がある。上の写真は、三浦半島・観音崎のトンネル入り口。コンクリートで塗り固められ、ふさがれた入り口がある。この下には弾薬庫があった、と言われているが、場所から考えて、水雷艇などの基地があった可能性もある。戦前まではこのあたりは軍関係者以外は立ち入り禁止の区域だった。
そのトンネルを入ると、左右に扉のあった跡らしい、やはりコンクリートで塗り固められた入り口らしきものがある。この上部のところの四角いものは、電力、電話などの電線が通るところだったのだろう。
現在防衛省の敷地となっている海岸線の先には、海の上にこんな遺構がある。
これは軍が使っていた桟橋と船着場だ。現在はちょうど良い海岸の飛び込み台となっている。
昭和という時代は、結局日本を軍事国家として、それだけで終わった。そして、戦争に負けたそのとき、軍事国家は終焉を迎えた。
兵器の多くが飛行機やミサイルの時代となった現代では、海岸線の守り、というものの意味が半減した、といっていい。特に大都市東京の海からの狭い入り口である浦賀水道は、海上交通の要衝であると同時に、軍事的拠点でもあった。
観音崎の自然はすばらしい。でも、こういった軍の遺構が数多く見られるところでもあって、そういう意味ではなにか暗い感じがするところでもある。
投稿者 nori-m : 22:53 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月22日
制度と中身
大学ってのは制度に過ぎない。学問をするのに、制度が不可欠かというとそんなことはない。
大学に行けば、学問をするためにより良い環境が手に入る、ということは言えるけど、制度や権威が学問を作っているわけではなく、学問が制度を必要とすることがある、っていうことであって、権威が学問を作るわけではない。
学問を面白くなくしたのは誰だ?
そっちのほうが問題。
この問題を解かないと、「学力低下」に対する答えは出てこない。この問題は今の制度にドップリ漬かって本末転倒さえ意識しない人たちには解けないことだろう。
学校の崩壊はこれからもっと進む。「なにを教えるか」「なにを学び取るか」という中身ではなくて、その器としての再度の存続が大切だ、ということにしか、関係者の頭が行っていないからだ。
投稿者 nori-m : 06:36 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月18日
The Kamakura Images
投稿者 nori-m : 10:58 | コメント (0) | トラックバック
オーマイニュース勝手カフェと桜の写真
毎年、この時期になるとちょっとユウウツなことがある。
桜の写真だ。
毎年、桜の写真を撮る。「きれいだから」と、ついつい花のアップを撮る。
しかし、花のアップの構図ってのは、けっこう限られていて、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、毎年、同じ写真になる。
で、写真を見ただけでは、「ああ、これはあのとき撮ったものだ」なんてことがまずわからない。
しょうがないので、遠めから撮って、なにか他のものも交えた構図を作ろうとする。で、毎年悩む。
花のアップの写真ってのは、写真のウデにかかわらずきれいに撮れるから、初心者にはお勧めの被写体だ。「えー!私が撮ったものがこんなにキレイに!」なんて感動できる。
でも、撮りなれてくると、疲れる。みんな同じ感じになるし、誰が撮っても同じ感じになるからだ。
だから、あまり花の写真、特にアップの写真はあまり撮らない。まったく撮らない、というわけじゃないけど。
※で、オーマイニュース勝手カフェのことだが、内容は他の参加者の人が内輪のメーリングリストで発表する、ということなので、それを待つことにします。が、実はオーマイカフェのその後の飲み会もまた、かなり楽しかった。どう楽しかったか、は、ここでは言わぬが花、だねぇ。。。ああ、可哀想に。。。
投稿者 nori-m : 10:53 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月17日
オーマイニュース勝手カフェ
ということで、今日はオーマイニュース市民記者による「勝手カフェ」でした。
今回は誰が来るのかな?
と、思っていたのですが、新しい人、きました。
元木編集長代理。
いろいろな意見交換をさせていただきました。今まで以上にざっくばらんにお話をさせていただきました。
内容は。。。。
投稿者 nori-m : 07:25 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月15日
「プラス思考」ではなく「正確な思考」
●「プラス思考」のいかがわしさ
十何年前から「プラス思考」とか「ポジティブ(あるいはPositive Thinking)」とか言うことばをあちこちで聞くようになった。新興宗教団体から、米国からわたってきたマルチ商法、などなど、これをキーワードにする人たちのいかがわしさとともに、このことばは私の心のどこかにひっかかるものがあった。いや、自分にも心当たりがあるだろ?ということじゃなくて、そのことばの裏に潜む「いかがわしさ」に、まずわたしなどは拒否反応を示してしまう、という感じがある。
●投資の場合
本来であれば、投資の判断は多大な資料を専門家が繰り、それをまとめて「成功率XX%でしょうね」というコトバを聞き、投資家はそのXX%が一定以上大きければ投資をする。以下なら投資はしない。なぜならば、一定以上の確率で成功する投資を多く続けていけば、よほどの天変地異でもない限り、絶対に損はしない、という線を引くことができるからだ。プロはそういうように、豊富な資料と豊富な人材と豊富なコンピュータ資源を繰り、かつ投資の回数は1回きりではない。論理的であり、科学的なのだ。
●素人の投資判断にはお金がかかっていない
たとえば、この会社に投資をしようか?やめようか?こういう判断があなたにあったとする。「プラス思考」は、こういうとき、必ず「Go」の判断を出すための「後押し」のキーワードとして使われる。それも、このコトバは判断に迷うあなたからではなく、投資をさせようとしている人の口から出る。もし、そのあなた自身からこのコトバが出るとしたら、それはあなたが「そうしたい」と思っているときだ。要するに、あなたの投資があればそれだけでOK、という人、投資にかかわる手数料が儲かればよい、という人がこのコトバを使うのだ。素人の場合は科学的な根拠を手にすることができない場所にいる。投資の判断に時間もお金もかけることができない。だから、専門家に「Go」を言われると弱いだけでなく、自分で迷ったときは、まさに「迷える子羊」になってしまう。
●「プラス思考」は貧者のおまじない
要するに、数字の根拠を持ち得ないから、あとは呪術に頼って、自分を納得させるしかない。「プラス思考」はその「おまじない」のことばなのである。複雑な理屈を繰る専門家を多数抱えたプロは、おいしそうな餌を仔細に調べてその餌が食べても大丈夫なものかどうかを判断できるけれども、私を含めた多くの貧乏人はそうはいかない。だから「理屈」に触ることなく、投資を成功させたいと考える。しかし、それは本当はできないことなのだ。仕方なく、私たちは「プラス思考」というおまじないのことばに、ついうっかり自分を託してしまう。
●プラス思考教
つまり、プラス思考ということばの多くは、お金がなく、また判断の力もない庶民のおまじないのことばなのだ。問題なのは、このことばができたことによって、このことばが一人歩きし、あらゆるところで使われることによって、それが、あたかも「万人が信じなければならないこと」のように思われていることだ。プラス思考を持たないビジネスマンはすでにビジネスマンではなく、プラス思考を持たない主婦は誰の夫としてもふさわしくない、というように。
●本当はプラスでもマイナスでもなく
では、私たちはどうしたらよいのだろう?簡単なことだ。
判断のできないことは、保留することだ。安易に「Go」をかけてはならない。時間を稼いだうえで調査研究をすることだ。かける時間のない判断は、100% の損失を覚悟して行うことだ。つまり、それは判断ではなく、率の非常に悪いギャンブル、ということだ。できれば手をつけないほうがいい。そしてなによりも「プラス思考」ということばに希望はない、と知ることだ。そのことばは、誰かがあなたに「Go」と言わせるために仕組んだ、巧妙な新興宗教の類だ。こんな安易なキーワードにあなたの人生を託すのは、ばかげている。
●ものを考えよう
「プラス思考」と言った時点で、人は悩んだり考えたり、ということをやめて、その辛く苦しい「調査研究」から逃げてしまう。結果は確率の非常に悪いギャンブルをやらざるをえないはめになる。どんなに辛くても、悩みを自分のものにし、調査や研究を怠らなければ、間違える判断というものは、そうそうないものだ。つまり、「プラス思考」というキーワードは、実は思考を止めて悩まず、言うことを聞け、という、詐欺師が人を騙すときに使うことばなのである。「プラス思考」というキーワードは賢者ではなく愚者を多く作るためのキーワードなのだ。もし、あなたが愚者の群れから抜け出たいのであれば「プラス思考」ということばを否定することから始める必要がある。
(写真はうちの近所のスナック。志が高いのはよくわかるが英語がヘタだ)
投稿者 nori-m : 19:04 | コメント (2) | トラックバック
MLM駆除法
昨晩、MLMの勧誘を受けて困っている、という友人の助けに行きました。アムウェイですな。
で、MLM撃退法です。
- 相手の用意した場所には絶対に行かない。
- 必ず「多勢に無勢」という陣形をとってくるので、味方を多く連れていく。
こういうとき物事を論理的に考えて、不確定なものや理屈の通らないことを一刀両断できる「理系の男」は、かなりたよりになる。 - 必ず「エラそうな人」が出て来るので「なんでお金持ってエラそうな人がこんなことしてるんですかね?」などとツッコミを用意しておき、その「権威」を無力化する話題を盛り上げる。
- その勧誘している団体や会社について、事前にネットで情報収集しておく。
- 自分の専門の話題で専門用語満載でまくし立て、相手にしゃべらせない。
要するにMLMなんて、簡単な心理学です。ある同じ考えを持った人たちの集団の中に一人を閉じ込めるわけですな。そして、その環境で同じことを何度も何度も吹き込んでいるうちに、その人は「染まって」いく。
だから、自分は弱そうだと思ったら、まずそういう人たちの集まりには絶対に行かないこと。
ぼくなんかは、こういうものが昔から大嫌いだったから、いくら多勢に無勢で勧誘されても、ビクともしないだけじゃなく、若いころから権威そのものを認めない、なんていう感じだったから、宗教からなにから、まるで動じなかった。
若いころから、自分で自分が作った、他人には見えない目標を自分が持ったから、こんな勧誘は屁でもなく粉砕できるんだが、そういう人ばかりじゃないだろう。宗教の脱会とかも、何人もさせた覚えもある。
もし、勧誘された場合は、絶対に相手のところに行かないことです。
これから、こういうMLMとか宗教の勧誘が増える季節です。気をつけてね。
投稿者 nori-m : 12:59 | コメント (0) | トラックバック
2007年03月13日
芸術家は
芸術家は一人で立たなければならない
芸術の世界に生きるということは、この日本の社会では組織から離れて生きるということだ。
組織を維持するための「世間」を捨てることだ。表現をする者として、自立する、ということは、この日本では結局そういうことなのだと思う。社会からの孤立を意識できない芸術は芸術の名に値しない。表現の名に値しない。
表現をするためには、表現する主体としての自分がはっきりとした主張を持っている必要がある。はっきりとした主張は、この日本では嫌われる。自分の主張は嫌われる。だから、みんなと仲良くやることだけが大事、という場所であれば、芸術の質は当然下がってしまう。人のこころに届く表現は孤独を背景にしてしか生まれない。
芸術を愛で、そして芸術を解する者。その芸術を作り出す者。これらは共犯者である。既存の社会秩序の維持を第一に考え、和を持って貴しとする大勢に毒を盛るテロリストどうしである。人間に感情や知性というものがある限り、このテロリストは自らの属する人間社会の外にいることを決意するほか、生きる道がないのだ。
このテロリストの盛る毒があるからこそ、「普通の人」の社会に、人間としての生きる喜びが意識され、生きる活力が湧き上がる。芸術とはそういうものなのだ。芸術家のしごととは、つまるところ、そういうものなのだ。
芸術家よ。きみはいよいよ、テロリスト呼ばわりされ、社会の中でみんなで和気藹々として生きることのできる暖かな場を奪われて、それでも生きていかなければならなくなるだろう。それでも、きみは芸術家をやめるわけにはいかない。今までたどったその人生の軌跡が、それを拒む。芸術家よ。悩んではいけない。人の和に入ることができない自分を悩むことはない。
芸術家よ。なんの偶然がそうさせたのか、あなたは人間最高の「なにか」であるところの「孤独」という、多くの人にはわからない贅沢を手に入れることになった。その贅沢を味わい尽くし、その孤独の中を生ききるほか、あなたの歩むべき道はない。
芸術家よ。いつまでも孤独で。いつまでも元気で。
投稿者 nori-m : 21:32 | コメント (0) | トラックバック
金と名誉と長寿と
カネのある人は名誉を欲しがる。
カネも名誉もある人は命を欲しがる。
どちらもない人はなにも欲しがらない。
でも、
カネも名誉もない、という人は2種類いる。
どちらも欲しくて、でも得られない人。
きっとこれが大多数。
そして、どちらも欲しがらない人。
こういう人は正しく生きて正しく死んでいく。
そして、これらの人々は互いに理解しあうことはない。
ここに、人間の社会の不幸がある。