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2007年09月01日

作詞の話をもうちょっと

いまだに、阿久悠のこと、その作品を考えている。

うーん、阿久悠さんと親しかったまさかつさんにその作詞の真髄を聞いたけど、ええー!こんなやり方をしていたのか!と驚いたけど、納得もいった。さすがに、ここではオフレコなんだけど。。。

しかし、いま、あの「テレビの時代」の楽曲を聴いていると、いかにも「作詞家」が作詞して「作曲家」がいて、そして編曲者がいて。。。という、「分業」が見える。作詞がよければよいほど、「詩」と「曲」の間にある「溝」がよく見える。詩が主張すると、曲と喧嘩する。そして、この2つがばらばらになる。

さらに歌い手が主張すると、三者の喧嘩になる。

そして、この三者の喧嘩が、どうしても西洋音楽的なものになれば、よく見えてしまう。ポップスとかなんかでは、ね。でもなぜだかわからないが、演歌だと、これが融合する。歌を聴くその人の心のなかで、溶け合う。

前にも紹介した森進一が歌う「北の蛍」の歌詞は、西洋的な「対置」を使う。「山が鳴る 風が鳴る」みたいに。そして、クリムトの絵画を見るような「乳房を突き破り」という鮮烈な詞が続く。曲は演歌だ。そして、森の声のあまりに特徴的なことはよくご存知だろう。

でも、この曲はそこで歌われている「情念」のゆえに、詩、曲、歌の三者が聞き手の中でちゃんと混ざり合う。

沢田研二が歌った「勝手にしやがれ」だと、白々しく見えるほど、この三者がばらばらだ。そして、いつまでたってもばらばらなままだ。いや、発表された当時はそう思わなかったが、今になって聞くと、それを感じる。

演歌のすごさ、ってのは、本当はこういうところにあるんじゃないか。日本人のこころの歴史の中に連綿と続く「なにか」が、演歌を作るあんなにはっきりしたシステムをなぜかこえて、日本人の心の中に届く曲を、歌い継がせていくのだ。

投稿者 nori-m : 2007年09月01日 14:02

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