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2007年08月13日
実は「戦争を知らなかった」大人たち
とりあえず、後述のこの記事のコメント欄の続きのつもりで、こちらは書く。なにしろ、あのコメント欄への「ひとこと」のスペースではあまりに文字数が少ないため、自分の意見が言いにくいのだ。私への意見はこちらで聞くことにしようと思う。が、ここでコメントをするのをためらわれる人も数名いるようだが、それはここに示した理由により、放っておくことにする。
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さて、従軍慰安婦問題、というのがある。特に最近は中国、韓国などから日本の国に補償を求める、という動きが報道されることが多い。
しかし、ネット上の情報を探して見るだけでも、実際に従軍慰安婦そのものの存在を否定する人たちもいれば、そうではない人もいる。特に、米国議会での日本の従軍慰安婦問題決議というものがあってから、さらにこれらの議論に拍車がかかるのは必至な情勢だ。
賛否両論ともかまびすしいが、最近はネット上で行われる議論も数多い。この中には「元になる資料が間違っている」「米国の議会には失望した」「従軍慰安婦は世界的な戦争の問題であって、日本だけに矮小化すべきではない」「韓国や中国だけではなく、オランダ人はじめ、多くの従軍慰安婦がいた」「貧困と戦争が原因だ」などなど、多くの議論があるだけでなく、ことの本質が錯綜した意見の中に埋もれてしまっている感じがしないでもない。
加えて、資料の間違いなどをあげつらい、文章の趣旨そのものを否定してしまうような「揚げ足取り」や、長い論戦でちょっとした相手の間違いを誘発させ、そこで相手が「ちょっと間違える」と、そこを突破口に、自分が優位に立とうとする、などの論戦のテクニックは、こういう議論では特に多い。ネットの世の中になってから、これらのレトリックを巧妙に使い、自分の意見を声高に言うような「言葉の香具師」が増えた。こういう輩と遭遇したときは、しっかりと黙ることだ。
この論戦の中で、やがて本来の原因である「戦争」そのものをいかにやめるか、などの本質的な議論や、相手の国の一人一人の人の顔が見えなくなるような「国」を単位とした「ナショナリズム」が、やがて台頭してくる。現場の声、被害者の声がその大きな声の向こうに小さくなっていく。
ところで、戦争は人が一人ではできない。だから国を単位として行わざるを得ず、結果としてナショナリズムを前面に出して「戦争」をするしかない。だから、「ナショナリズムは戦争への一里塚」と言っていい。
また、戦争は富を一部に集めることでもあるので、戦争には「格差」や「貧困」がつきものだ。だから、従軍慰安婦の問題とは、戦争の問題に尽きる、と言ってもいい。オーマイニュースでもこれらの問題が記事になっているので、参考にしてほしい。
記事は実際に従軍慰安婦をした、というおばあさんたちをたずね、そこで記者が感じたことを書いている。この記者の書いた記事は、正直なところあまり具体的に書いてあることはない。記事としては私は出来はよくないと思う。それでも、記者の方は精一杯、自分の感じたことを、感想文のように、ではあったとしても、ちゃんと書いている。
この記事の中には、以下の文章がある。
「慰安婦は軍による強制連行だったのか」という論点や、「性奴隷なのか、公娼なのか」という問いは、慰安婦決議案の本質的なテーマではない。
それは、いずれにせよ、辛い目にあった人がいることに変わりはないからだ。
韓国や中国だけではなく、日本にも、日本人の従軍慰安婦は多くいた。貧しい農村から「売られた」女たちであった。そして、日本や韓国、中国だけではなく、戦争が始まれば、国は富の偏在をする必要に迫られ、「格差」が生み出され、そして、「貧困」が生み出され、従軍慰安婦の問題はじめ、多くの問題を抱えることになる。
そして、その道具として使われるのは、いつの時代でも「ナショナリズム」だ。
「国として。。。」という言葉が多く語られ、そして「外から仕掛けられる戦争には、国として対処するしかない」と言われる。国がなくなれば、あなたは大変なことになりますよ、と国が個人に脅しをかける。
そこがナショナリズムの入り口である。
ナショナリズムそのものを成立させない努力が、戦争そのものをなくすために一番必要なことだ。
ところで、そういう動きとは裏腹に、現代はその目的はある程度達成できていると言えるかも知れない。グローバルな人やお金、モノの流通が、数十年前よりも活発に行われているからだ。インターネットもまた、多くの人々を直につなぐ役割をしている。もはや、経済には旧来の国家ナショナリズムは邪魔、というのが、世界の産業界の認識だ。
そして、国対国、ということで言えば、日本と中国・韓国のような国どうしは、もはやいくらナショナリズムを煽ったところで、どうにもならない。経済的に強い依存関係があるからだ。戦争で使う富の蓄積は、お金という紙切れではなく、具体的な産業としてその威力を発揮するから、産業を無視して戦争はできない。
そういう意味で、国家をベースとしたナショナリズムはすでに時代遅れとなっている。石橋湛山がかつて日本と国交のなかった共産中国に行き、夢見た世界がそこにあるもかも知れない。しかし、それと同時に、今度は「経済ナショナリズム」あるいは「企業ナショナリズム」とも言うべき世界が出現したのが、現代という時代だ。
すでに多くの日本企業の株の70%は外資であることからも、それは伺える。
国境をまたぐ多国籍企業は、国に代わるナショナリズムを人々に要求しているから、この波に乗れなければ、国さえ危うくなる。「国という単位」はすでにかつてのように富の中心ではない。今は企業があからさまに国にとって代わっている。そういう時代なのだ。
このままいけば、やがて麻薬産業のように、国を無視した多国籍企業が人々の生活を支配し、企業が私兵を持ち、国は消えてなくなるだろう。すでに「FTA(Free Trade Agreement)」のようなかたちで、それは進行しているといってよい。
日本に名だたる巨大企業の役員会には、すでに多くの外国人がいる。そしてそこでの会話は英語で行われているところも非常に多い。
国家ナショナリズムは崩壊した。いま、ナショナリズムの残り火が、今わの際の雄たけびを上げているに過ぎないように見える。そして、これから始まることは、おそらく、企業を「国」のように扱う、新しい文化だろう。そして、そこには、相変わらず「企業ナショナリズム」が、かつての「国家によるナショナリズム」の次に生まれてくるに違いない。
いま、この地球の主権は国ではなく、企業になったこと。そして、企業は国家のナショナリズムの裏に隠れて、あたかも国やそのナショナリズムがあるかのようにして、企業そのものの「罪悪」を隠そうとするだろうこと。だからこそ、今、国家ナショナリズムが声高に煽られることになる、ということもあるだろう。
「ナショナリズム」はこうやって時代をこえて、かたちを変えて、人間の社会に影響を及ぼしていくだろう。
すでに、ナショナリズムはここで示したように単一のものではない。この「ナショナリズム」という「宗教」は、おそらく姿形を変えて、今後も生き続けるに違いない。いま、本当に必要なことは、この「ナショナリズム」という見えないお化けを、超えることだろう。
そして、そのためには、ここでご紹介した記事にあるような、元従軍慰安婦の人たちに話を聞く、という、「実際にそこに行く、人の話を聞く、触れ合う」という小さな行動が大きな意味を持つのではないか、と、私は思っている。
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しかし、どうも「戦争」の話を「国対国」の話にしたがる人が多いようだ。
自分は国民だから、その国のメンバーとしてどうするか考えるべき、という大前提そのものを疑うことが無い限り、戦争の問題は解決しないことだろう。富の集中とナショナリズムこそ、戦争の本質である以上、富の集中をできるだけ防げ、そのうえでナショナリズムを否定し、自分が国のメンバーである、という「当たり前と思われていること」を否定しないと、戦争の問題は解決しない。
戦争は国で行う。個人はその犠牲になる。その図式とか構造を拒否してこそ、戦争は否定できる。従軍慰安婦などの問題も含め「国」という存在が個人に押し付ける行為そのものを、いかにやめさせるか。本当はそのことのほうがどれだけ大事なことか。
投稿者 nori-m : 2007年08月13日 11:16