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2007年03月07日

公共の場での覆面ストリップショー

よく考えれば、ネット上の掲示板とか、あるいはニュースサイトは言うに及ばず、BLOGなんかも含めて「公共の場」なんだよね。

誰だったか「書く、というのは恥ずかしい行為だ。他人の目の前でストリップをしているようなものだ」ということを書いた作家がいた。

してみれば、そこいらへんのBLOGとかのネット上の「書き物」ってのは、みんながみんな、男女問わず「こっち向いてぇ~」とか言いながら、ハダカになっているようなものだ。見るほうにとって見れば、見たいハダカもあるし、見たくないハダカもあるんだけどな、と言いたくなる(オマエはどうなんだ、というツッコミは強引に放置)。

そしてこれがハンドル名、ニックネームとか匿名とか言うことになれば、顔だけ隠した覆面ストリップショー、ということになる。顔を見えなくしているから、まさにカラダとポーズだけでなんとか人をひきつけなければならない。

顔は印象的だ。人は顔を見て、「ああ、あの人はこんな人だ」と識別する。

立派なひげをたくわえていれば、それはえらそうな人であり、細面の美人であれば、繊細な神経を持つ女性だろう、と、見るほうは勝手に想像する。顔は人が個人として社会で識別されるときに使われる、けっこう大きな意味を持つIDだ。カテゴライズも、個人識別も、これまで多くの人の識別の中心は顔だった。

ことばで言えば、「今日は良い天気だ」と、書いても、それが名だたる文豪の書いたことばと、私立大学文学部在学中の文学を勉強中の学生が書いた日記では、それを社会でどう受け取るかが違ってくる。

でも、ネットの世界では、BLOGなんかでなにかを書く、ってことが「言葉のストリップショー」になる。今まで使っていたIDである「顔」そして、そのIDで象徴されることがある「権威」があまり見えない。だから、「今日は良い天気だ」と書いたものが、文豪の書いたものと、学生の書いたもので、同価値になるように見える。

だから、ネットではIDとか権威なんかがなくなったのだ、と勘違いする。

でも、世の中には厳然として「顔」をIDにする社会が広がる。

私たちが使うPCとかネットのインフラとか、そういうものは、みな人との信頼関係でできた仕事の結果だ。人が人と一定以上の信頼関係を結ぶためには、人を識別するIDが必要だ。生身の「顔」が必要なのだ。それは自分がリスクを負います、というサインアップの行動でもある。だから、直接その人と会うと、信頼関係が生まれる場合が多い。

匿名であることがすべてではなく、実名であることがすべてでもない。だが、信頼関係とは、人と人との関係において、リスクを負うことをお互いに承諾しあうことによって、お互いのつながりを作ったり維持したりすることなんじゃないか、と、ぼくは思う。

よく「ハダカのつきあい」と言う。

文学作品、とくに私小説などはあからさまだが、そういう作品を書く、発表する、ということは、自分の顔のみならずハダカの自分をも晒すことによって、リスクを自分で引き受け、自分の社会的な位置を得たり確認したりする行為そのものだ。

ネットには、そのリスクを負わなくても自分の言ったことが手軽に言える仕組みがある。でも、そういう仕組みを使ったところで、その言説には信頼がない。社会の中での信頼の高さこそが、その人の社会的な位置そのものであるとすれば、覆面の上で行われる言論の内容がいくら良いことを言っていても、それには子供の戯れ言以上の重さはない。

「ストリップ」は誰も彼もができるものではない。でも、手軽でマスな、覆面ストリップができるようにした仕組み。それがBLOGとか掲示板なんだろうね。

もし、ネット上の覆面の言論が本当に重い意味を持ち始めたとしたら、きっと、世の中の人のつながりが、それだけ軽いものになったから、そう見えるだけなんだろう。

投稿者 nori-m : 2007年03月07日 07:48

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