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2005年04月30日
戦争の足音

韓国、日本、中国。戦前と戦中の日本の蛮行。同じく、アメリカの「非人間的な原爆投下」。どれをとっても、戦争というのは殺し合いであり、それ以外ではない。だから「戦争はやむをえずする」ということになる。しかし、「やむおえず」であっても、絶対にしてはならないもの。それが戦争だ。
きれいごとと言われようが、なんと言われようが、やはり戦争そのものに至るあらゆる道はきちんと閉ざしておきたい。戦争は、お金もうけをする人にとっては宝の山だ。だから、極端な資本の集中を避けることが、まず戦争の抑止力になる。
日本の戦後の経済成長の引き金を引いたのは朝鮮戦争だった。トヨタはじめ、日本の名だたる「メーカー」は朝鮮特需で潤い、戦後の経済的基盤を作った。だから、この10年、経済界の裏側では「こんなに景気が悪くては、戦争でもしなきゃいけませんな」という話が、飛び交っていることをご存知だろうか?
次に、経済に政治がはっきりと介入し、政治が経済を抑止することが必要だ。これは米国のルーズベルトが第二次大戦の直後にはっきり言っている。つまり、政治が経済の下僕になるのではなく、経済を政治の支配下に置かなければならない。と。そうしないと、米国民のすべてが幸福になることはできない、と彼は言っている。ちなみに、歴代の米国大統領でも、彼は飛びぬけたインテリであったことで知られる。
次に、「戦争ではなにも解決しない」という事実を、しっかり認識することだ。それは壮大な無駄であり、地球の経済全体にも悪い影響を与える、ということを知ることだ。ベトナム戦争での枯葉剤の使用がその後何十年も同国の経済に与えた悪影響がある。また、これからの戦争は核兵器こそ使用が控えられるであろうものの、時代は生物兵器、化学兵器、宇宙兵器の時代だ。ちょっとした戦闘が世界中に大きな影響を与える可能性があり、その副作用が局地だけですまなくなる可能性が高い。
加えて、今の戦争は「テロ戦争」という「地下に潜った戦争」の時代だ。かつてはスパイ戦と称して、正規の戦闘ではない、というものが、いまや表に出てきた。戦闘地域以外での戦闘が日常化すれば、経済もインフラもすべてマヒする可能性が高い。今は核兵器などを相手にしているようでは、戦争は負けたも同然だ。今の戦闘の主流は銃後を狙う無差別テロである。派手な武器のドンパチの時代は終わり、仁義も規則もへったくれもない、ぐちゃぐちゃの戦闘の時代がはじまったのだ。
上海などでも、既に企業の主導権をめぐって殺人事件も多く起こっている。もし、ライブドアが上海で国営企業に対し同じようなことをしたのであれば、彼はすぐに殺されていたかも知れない。これもまた、戦争の一部でしかない。
最近、いろいろな本を読んでいるけれど、やはり、「テロによる戦争の多様化」に伴い、「経済活動の行き過ぎの規制」が必要だな、と思う。かつては「王制専制」の世の中だったが、今は「資本専制」の世の中に変わっただけだ。それはいまや自由主義でさえない。どちらが、警察や軍隊などの国家暴力を独占するか、という問題に過ぎない。その認識をしっかり持つ必要があるのじゃないか?
このままいけば、やがて自分の息子や娘のことも忘れ「戦争しないとやっていけませんわね」という専業主婦さえ、現れそうな気がしている。そういう時代にならないことを祈るばかりだ。
投稿者 nori-m : 11:11 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月29日
「神をも恐れぬ」ひと

たとえば、天動説を間違いだ、と言って地動説を主張したガリレオ・ガリレイは、つい最近までキリスト教の「破門」を解かれていなかった。あのジャンヌ・ダルクでさえナポレオンの時代に破門を解かれている、というのに、だ。
米国のキリスト教徒は、欧州のそれよりもはるかに「カルト」だ。いまだに百万人に達するといわれる「キリスト教ファンダメンタリスト(原理主義者)」という「キリスト教過激派」とでも呼べるような人たちがいる。彼らは聖書に書いてあることをそのまま100パーセント真実である、と信じている。
コンピュータの仕事のうち、特にインターネットの黎明期を生きてきたぼくらの中には、あまり宗教にはまる、ってヤツはいなかったように思う。「なにかを信じて生きる」という感性よりは「面白いことをしよう」とか「壊してやろう」という感性がとても強かったと思う。言って見れば「パイオニアの感性」だったと思うのだが、それは、「なにかを信じる」ことから始まる「宗教」とは相容れない。信じる前に「疑い」が必要だからだ。
科学とか学問って、物事を論理的に捉えて、普遍性を得る、という大命題があるから、自然と、疑うこととか、人間そのものに不信感があるとか、そういう感性が育つものなんじゃないかと思うな。つまり、そういう感性からは「カルト的」な信仰は生まれにくいと思う。
だから、特に優秀な人ほど、宗教みたいなものにあまりかかわりたくない、って考えてた。実際、そうだったし。もちろん、例外はあるよ。でも、そういう人は本当にその宗教にはまればはまるほど、変わっていく。そして「ただのつまらない人」に成り果ててしまう。ぼくはそういう人間を何人も見てきた。
でも、科学とか技術の世界に限らず、経営とかでも呪術よりは論理的思考が大切なのは変わらない。だから、カルト的な宗教にはまる人には、総じて、優秀な人材がいない。もともと優秀だった人も、そういう宗教にはまることで、おかしな方向に行ってしまう。
特にカルト的な宗教では、「言うことを聞く人」=「人に使われる人」を作ることに重点を置いているから、人とは違う突飛なことを考えたり、誰も先人のいない分野でリーダーになったり、という感性を持つ人は、そこにいられなくなる。
しかし、この停滞した時代に必要とされる「優秀な人材」とは、そういう「神をも恐れぬ人」なんじゃないかな?なにかに自分を合わせていくのではなく、なにか人とは別のことを考える、という感性。ぼくはそう思うけれど。
投稿者 nori-m : 22:41 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月28日
中国と日本の仲違いを望む人たちがいる

以前のblogで「中国と日本の仲違いを望む勢力があるのではないか?」ということを書いた。陰謀論、というように読んだ方も多かった。でも、この月曜日に出た「AERA」2005年5月2-9日号の99ページに、それを裏付けるような取材記事が出ている。
反対に、私が前に書いた「貧富の差の不満」を貧困層が持ったための暴動、は誤りである、という見解も同記事に書いてある。内容を読めば、それは納得に足るものだ。私のそこのところの予想は、間違っていた。
いまや、中国経済と日本の経済は密接な関係を持っている。いや、中国という「世界の製造工場」を中心に、世界中が密接に関連しあっている、といってよい。
いま、NAFTAの北米圏、EUの欧州圏の次に、中国、日本を中心とした「アジア経済圏」を作ることは急務だ。元の切り上げがあるであろうこの時期は、「アジア経済圏」を作る絶好の時期だと言っていい。いや、そのきっかけを創る重要な時期だ。
そうすることによって、アジア経済圏が他の2つの既存の経済圏を凌駕することができる。今回の騒動は「いや、そんなこと、無理だろ」ということを全体の雰囲気としてかもし出すための陰謀に、私にはやはり、見える。
アジアはやはりここでアジア自身のために目覚めるときなんだろうな、と思う。ただし、日本中心ではなく、中国が中心になる。
各国の経済が、すでに密接につながりあっていて、どうはがしてもはがし切れないものである以上、つまらないケンカをしている場合ではない。
投稿者 nori-m : 09:19 | コメント (1) | トラックバック
老人と人の海

電車の中で、老人に席を譲る、譲らない、で、ひと悶着があったらしい(詳細はリンク先を参照)。しかし、相手が老人であろうとなかろうと、こんな態度で、直接ではなく、遠まわしに「こんな連中は」みたいな言い方をされたら、言い返したくもなる。誰がそんないやみったらしい老人に席なんか譲るもんか、と思うはずだ。
席を譲ってほしいなら、真正面から、「すみませんが、ここにいる方たちのために、席を譲っていただけませんでしょうか?」と言えばいいものを、なんでまた、これ見よがしに、周りに聞こえるような言い方で「最近の若いのはなってない」となるのか。まともなことを主張するのに、勇気のないダメな人間は、この老人たちのほうだろう。まったく、なってないのは、最近の若者じゃなくて、最近の老人のほうだ。
人に不快感を与えておいて、自分が他人の優位に立つ。そうして、自分がいっとき相手を支配できる立場に持っていき、その他人を動かす。動かされるほうにとっては、不快極まりない。誰だって、そうされたら、「席なんか譲ってやるもんか」となるに決まっている。
北風と太陽のたとえもある。それがたとえ自分よりも年齢が低い人間で、経験の少ない若者であろうと、その人の人格を辱めるようなことをされれば、誰だって傷つく。傷つけられれば、仕返しだってしたくなる。
そして、その場での年長者であれば、当然そのより長い人生の経験で、こういうときはどうしたらいいか、どういう言い方をしたらいいか、わかりそうなもんだが、このご老人は高度成長とバブルに浮かれて、そういった人間としてまともな、自分自身に対する教育を怠ってきたらしいな。
真正面からストレートに来る若者の正論に絶句して、すごすごとなにも言い返せずに引き上げたのも当然だろう。だって、真正面から向かい合ってなくて、自分のメンツばかり気にしてるんだから。腰が据わってないこのご老人は、同年代の恥さらしだ。
どんなにトシをとっても、そういう老人にだけはなりたくないね。自分がみじめだもの。いや、バカで思慮の浅い老人があまりに日本は多くないか?
投稿者 nori-m : 01:38 | コメント (1) | トラックバック
「正義」大嫌い!

前回の続き。
まぁ、つまりそんなことだから、blogのような「検閲のされないマスコミ」は、自分で書き方を考えないといけないよ、ということなんです。
「自分はこう思う」と書くのはもちろんいい。でも、あたかも自分の意見が世間一般の普遍的な意見だ、という書き方は、たとえそれが本当に普遍的であっても、そうは書かないほうがいい。違う意見の人もいるかも知れないからね。
でも、そういう、自分とは違う種類の意見をもつ人への配慮を欠いた書き方がされているblogを最近は本当に多く見るようになった。それ、まるで子供だよね。書き方は子供っぽくなって、それが可愛く見えるかも知れないけれど、他人への配慮がまるでない。
よくあるのは「生活者の視点」とか言いながら、自分の主張があたかも普遍的なものであるように書く、ってやりかただね。誰も彼も「生活」していなけりゃ「人」じゃないんだから、「生活している人」と「生活していない人」なんてのは、分けようがない。そこに「生活者は」と来る。これは一見して「自分はこう思う」と言っているように見えて、実は「普遍性の押し売り」をしている。だいいち、他人に対して「あんたは生活者ではない」ってのは、「あんたは人間ではない」って言ってるのと同じだよね。なんて失礼なやつなんだ。
まぁ、あまり女性に嫌われるから言いたかないが、「女性の目から見ると」ってのもあるよね。毛沢東の言う「天の半分」は、あくまで半分ですからね。その半分と、もう片方の半分は「違う」。そして「半分」は「もう半分にあわせなければならない」というこの言い方。これも脅迫。圧力、と見える人には見えるんじゃないかな?
たしかに、テレビのヒーローものとか、そういうものを見れば「善人」と「悪人」が鮮やか過ぎる対比で出てくる。そのほうがストーリーを作りやすいからね。だから知らないうちに、子供の頃から「世の中ってのは悪いやつといいやつがいる」なんて思考が植え付けられているんじゃないかな?
人間は経験を積むほど、善と悪の区別がよく理解できるようになるものだけれども、それとともに「善人」と「悪人」の区別はしなくなるものだと思うんだね。なぜかというと、誰もが後ろ指をさす「悪人」だって、それになりたいと思ってなったわけじゃない。善人と呼ばれるようになった人だって、なにかの偶然の結果かもしれない。それくらい、人生ってのはわからない。そういうことが、経験を経るとともにわかってくるからだね。
そういう人は他人への思いやりとか、そういうものを深いところで持つ人になる。悪人として生きなければならない人の悲しさとか、なぜそのようになったのか、とか、善人の苦しみとか。そういう「裏」がわかってくる。これが大人になる、ってことなんだろう。つまり、これがわからないってことは、その人の感性はまだまだ幼い、っていうことなじゃないか、と、ぼくは思うよ。
だからこそ、どんなblogでも、自分とは違う立場の人がいることを考慮に入れた書き方で、「他人へのいたわり」を、表現する必要があると思うのです。前にも書いた「正義」ということばはとても勇ましいけれど、そういう「自分とは立場が違う人へのいたわり」が感じられない。だからぼくはそのことばが大嫌いなんだ。
繰り返し、言っておきたい。
ぼくは、正義ということばを使う人は大嫌いです。
投稿者 nori-m : 01:08 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月27日
違う意見、違う見方を認めよう

このblogというツールは、けっこうIT関連のスキルとか、HTMLを書く技術とかがなくても、いくらでも自分のホームページが「殴り書き」できる。便利だ。だから、誤字脱字といった単純な間違いも、やはり多くなる傾向にある。もっとも、それくらいだったら、いくらでも書き直せばいいし、そのくらいのことだったら、読むほうが、勝手に正しく解釈してくれることだってある。
間違えていることでも、知識不足でも、書けてしまう「blog」を読むほうは、やはり、警戒して読む必要がある、ってことだよね。つまり、その人は断定的に物事を書いているけれど、実は違う、とか、その人はある立場からだけ世の中を見ているから、こういう書き方になるけれど、違う見方からすれば、それはそうは見えないんじゃないか、とか、ね。
意見の違い、出自の違い、感覚の違い、生まれ育った環境の違い。そんなものが、どうしてもみんながそれぞれにあるものだから、「違う意見」を持つ人にも寛容であること、ってのは、実はbloggerの最低のマナーなのかも知れない。
話は飛ぶけれど、だから、ぼくは「正義」なんて言葉を使う人たちがとても信用できないんだな。
つまり正義っていうことばが使われるときって、その裏側に、誰かを自分の立場に誘導しよう、って言う意図を感じることがままあるから。その人にとってはそれは正義だけれど、違う人にとってはそれは正義でもなんでもない、ってことがあるよね。正義ってのは、人の間に争いごとを起こすためのキーワードなんじゃないかな、と思うよ。怖いことだなぁ。それが戦争とか、犯罪を起こすこともあるのだから。
自分と違う意見の人とか、自分とは違う正義を持っている人とも、アタマからそういう人たちを否定せずに、よくその人の話を聞いて、ちゃんと付き合おうよ。そして喧嘩は、たとえどんなことがあっても、やめよう。
ぼくはネットの時代こそ、そういうことが大切になってくると思うんだよね。自分と違う人、自分と違う感性。そういうものをお互いに大切にしあうこと。世界はそうしなければならないほど、狭くなった。いや、インターネットというものをぼくらが作って、狭くしたんだ。これはぼくはいいことをした、と思っているよ。
投稿者 nori-m : 17:24 | コメント (3) | トラックバック
関西の電車

東京に住んでいると、関西の事情にはけっこう疎かったりする。今回の列車脱線事故でも、そこに到る背景がいろいろ取りざたされているけれど、まずは大阪を中心とした関西圏の鉄道事情がアタマにないと、よくわからないことも多いだろう。今回は東京のみを知るけっこう多くの人たちに、関西の鉄道の基礎の基礎をお話する。もっとも、私見も入っているので、その点はご容赦を。
まず、関西周辺の電車はなんといっても大阪、それも梅田が中心。ここから、神戸方面、京都方面、奈良方面、と電車が縦横に延びている。
たとえば、交通全般で見ると「大阪-京都」間は私鉄だけではなく、タクシーなども含めた「交通激戦区」だ。京都-大阪間の鉄道だけでも、京阪、阪急、JR、などなど、選択肢がたくさんある。私鉄はJRより幾分安いけれど、JRはそのぶんを急行や快速と各駅停車のつながりのよさみたいなものでカバーしている。この京都-大阪間の「国鉄-私鉄」戦争は、なんと戦前からやっているらしい。また、タクシーは5000円以上乗ると、半額になる。そこで、京都と大阪をあいだをタクシーで移動する人も少なくない。
鉄道の場合、この「つながりのよさ」を維持するために、ターミナル駅周辺は非常に過密かつ精密なダイヤを組んでいる。それが平日のラッシュ時となればなおさらだ。1秒の遅れ、進みを気にする体制ができあがっている。マージンなんか、全くない。
JRであっても東京以上にこういう競争に晒されている。大変なんだろうな、とは思う。朝のラッシュ時なんか、問題がなにも起きなかった、っていうほうが不思議なくらいだ。競争の中で余裕が持てなくなる、ってのは誰も同じだ。
おそらく、今回の事故調査で、こういう面がかなり大きくクローズアップされてくるんじゃないかな?
しかし、関西の阪急は「私鉄の優等生」だ。線路は高速・大量輸送を前提とした「広軌」というやつで、新幹線と同じ線路の幅(普通のものより広い)をだいぶ前から採用して、日常的な高速・大量輸送のある今日を予測していたばかりではなく、神戸方面に向かう線路も、できる限りまっすぐにする、などして、高速でも事故が起きにくいようにしてある。ちなみに、梅田と神戸三宮間もまた、JR、阪急、阪神の3社が競合している。
要するに、関西の鉄道はJRと各私鉄でしのぎを削っている。東京のように、私鉄も含めて管理がしっかりされていて住み分けができている状態とは訳が違う。
今回の事故は、実はそんな中で起きた事故だったんだな。そう見るとニュースの見方も多少変わってくるよね。
投稿者 nori-m : 10:41 | コメント (0) | トラックバック
解説コスト

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。
最近またプログラムの開発の仕事が増えてきている。昔はプログラムを組める人自体が希少だった。そんな時代には、金額とか納期とかにこちらのわがままが通る場面も多かった。もちろん、最近はそういうことはない。
でも、あちこちに「技術の肝」みたいなところがある開発はけっこうある。そういう開発に当たったときは、最近は憂鬱になる。最近のことだから、発注側も少しはIT技術のなんたるかを知っている。でもそのご自分の持っているIT知識が「少し」という自覚がない発注者がけっこう多い。だから、「このくらいのものなら、このぐらいでてきるんじゃないの?」と、過小な納期や金額を提示されることがあるんだな。
「いや、これこれこういうことなので、もっとかかると思う」と言うと「そんなことはない」と反論してくる。「じゃぁ、あんたがやれば?」と言いたいところをぐっと抑えて、根気よく説得する。お仕事ですから。
当然、説明の過程でこちらが出す技術用語は先方ではわからないものも出てくる。べつに煙に巻いて騙そうというわけじゃないんだが、こちらが意図していなくても、そう聞こえることだってあるだろう。ときには「プログラミング」という仕事の基礎的解説までしなければならないこともある。
ITそのものの認知が広がり、仕事の場も広がった。だからこの「失われた10年」でも仕事はなんとかある。でも、その一方で「こんなこと簡単にできる」という「実はやったことがない人」も、増えた。昔の言葉で言えば「耳年増」だね。
前にも書いたけど、最近はそれに加えて「専門家」というものの存在をあまり重く見ない場面も多くなった。たしかに、「専門家」と称しているまがい物も多いから、専門家を雇う側も慎重になる。また「トレーサビリティ」とか「説明責任」ということばも重要な意味を持つ世の中になった。
いずれにしても、最近はシステム開発の仕事には、もう1つ上乗せされた、隠れた「コスト」がある。「開発コスト」ならぬ「解説コスト」って言うんだが、よく考えればこのコストも本当に必要なコストなのかも知れない。作るほうは作ることにだけ専念したいし、実際、そのほうが安く済むわけなんだが、そうもいかない世の中になってきたんだね。
投稿者 nori-m : 06:24 | コメント (2) | トラックバック
2005年04月26日
ヒトゲノム国際会議の報道

先日、ここでもお知らせしたとおり、ヒトゲノム国際会議というのが、京都であったので、行ってきました。そして、週明けの4月25日、日経新聞にこの会議の話題について書いていた記者の方がいました。が、ちょっとその内容が気になったので、ここに書いておきます。
要するに、記事では「今後はテイラーメイド医療などの研究でヒトのゲノム研究が云々」という内容になっていて、その方面に向かった研究が、この会議ではほとんどだった、というようなことが書かれていたわけです。
私は実際そこに行き、会議全体の発表について書かれたレジメもいただき、全部の会議にはもちろん出られなかったけれども、レジメにも一通り目を通したわけなのですけれど、会議全体はヒトに限らないゲノムについて、非常に多岐にわたる研究やプロジェクトの発表がされていました。「テーラーメイド医療だけ」というようなことや、「テイラーメイド医療にかかわる研究が主流」なんてことは、なかったのですね。
たしかに、テーラーメイド医療というのは非常にわかりやすい。遺伝子などの個人の情報を元にした、その人に合った医療を行う、ということです。もちろん、悪いことでもない。でも、この会議全体ではヒトだけではなく、あらゆる生物のゲノムについての多様な研究の発表がされていました。しかし、記事の内容を読むと、「ヒトゲノム国際会議はテイラーメイド医療一色」みたいに書かれている。
もちろん、テイラーメイド医療は、商売に一番つながりやすいものですから、日経新聞のようなところがついつい持ち上げたくなるのはわかりますが、多くのこの会議を知らない人たちに、間違った印象が与えられてしまう。悪く言えば「我田引水」の見本のような記事でした。
そうは言うものの、一般的に言って、どこの研究者と話をしても、バイオについてまともな記事の書ける記者は、現状ほとんどいない、と言う話になってしまいます。日経新聞のこの記者などは(あえて名前は伏せますが)まだ良いほうだ、というのが、大方の意見です。それくらい、バイオに対する認知度が、日本では低い、ということです。
投稿者 nori-m : 14:16 | コメント (0) | トラックバック
こんなこともある

昨日の4月25日、朝一番の東京羽田発大阪伊丹行きの飛行機に乗った。伊丹空港でちょっとした朝食を摂ってから、さて、今日は少し時間があるから、伊丹市の市バスに乗ってJRか阪急の伊丹駅まで行って、そこから梅田の仕事場に行くかな?それとも、空港のバスでそのまま梅田に行くかな?と考えた。
2年前、やはり尼崎の研究所で仕事をしていたので、市バスで伊丹駅、というルートは慣れていたし、時間があれば、懐かしさも手伝って、またこのルートも乗ってみたいな、と思っていたからだった。
迷ったあげく、8時半近く、空港バスで梅田に向かうことにした。
もし、ここでJRを選んでいたとしたら、時間的にもあの事故に巻き込まれていた可能性が高かった。こういうこと、あるんだな。
投稿者 nori-m : 11:59 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月25日
「国際化」って「英語化」?

子供の通う学校で「国際化を目指した教育カリキュラム」が始まる、という。講師にネイティブスピーカーの英語の先生がつき、週1回は英語で授業をする、という。普通の公立の小学校なんだけどね。でも、「国際化」のための教育、ってのは、それだけなんだってさ(ため息)。
国語だって、社会だって、数学だって、やり方をちゃんと考えればそれは「国際化教育」じゃないかな?「英語が話せれば国際人」っていうのは、あまりに短絡的なアホを晒しているだけじゃないか?
ぼくの高校時代の英語の成績は大変に悪かった。いわゆる学校の優等生じゃなかったから、なおさら。でも、仕事となれば、英語を使わざるを得ない場面がたくさんあって、いやでも英語でのコミュニケーションはとらざるを得ないことも何度もあった。はっきり言って、ぼくの英語は今でも「下手」だ。
でも、仕事の内容を相手に伝えたり、相手から伝えられたりするとき、英語が必須となれば、それでコミュニケーションするしかないから、下手でもなんとかしてしまう。ぴったりくる単語が思い出せないときは、知っている単語でぴったりする表現をなんとか文章でひねり出し、それを使う。つまり、単語もそう多く知っているわけではない。
それでも、英語の文献も短いあいだにたくさん読まなければならない、となれば、必死で読む。もちろん、辞書も使う。
本当に大切な「国際化」教育ってのは、英語なんかの「表現手段を持っているかいないか」ということではなくて、相手の大切にしているものがわかること、だったり、自分の大切にしているものを表現できたり、ということなんだな。自分が表現したいことが、相手に大きなインパクトを与えるものであれば、こちらの英語が拙くても、相手はちゃんと聞いてくれる。こちらの言うことが伝わる。
国際化ってのは、その表現手段の問題じゃない。自分が大切にしているものとか事、それがあるかないか、ということだ。それが表現手段を選ぶ。必要な表現の訓練にも身が入る。本当の表現になる。まぁ、いちばん英語の勉強にいいのは、連れ合いに英語をしゃべる国の人を選ぶことだ、とよく言うけれど、だから、それはその通りだ。あるいは、留学なんかで、その言語でなければ生活できないところに行くことだね。でも、たとえそれをしても、だめなものはだめだ。
つまり、自分の表現したいことを持っているかどうか。表現したいことがあるからこそ、表現手段が選ばれ、表現手段の訓練に身が入るんだよね。だから、学校で「英語さえできれば」ってのは、時間の無駄のように思うんだね。
要するに、当たり前の人間として、毎日を充実して暮らすための、中心になるようなものをあなたが持っているかどうか、ということ。趣味でもしごとでも、彼女でも、家族でも、なんでもいいけれど。自分が本当に考えていること、興味があることだったら、人に話したくなるよね?そして話したくなる相手が日本人じゃなければ、日本語以外の表現手段を持つ必要が出てくる。だから、国際化ってのは、そういうものなんだ、ってことだね。
困ったことに、学校の先生方は社会で多くの経験をしてから学校に来た、って人は少ない。学校というある意味「守られた社会」での処世術を身につけているぶん、本当の世間のことを知らない。本当の世間って、もっと厳しくてもっと暖かくて、というものなんだが、そこでの喜怒哀楽を知らないから、実社会で本当に求められているものがわからない。そういう人が多い。
ことさら「国際化」などという必要はない。義務教育の段階で英語を話せなければならない、という脅迫観念にとらわれる必要もない。普通に、自然に、今の社会で仕事をしていれば、英語を多く使う場面も、そうでない場面も出てくる。その場面に当たったり、当たることが予想されれば、そのときに、はじめて英語の勉強をやる気が起きてくる。短い時間で効率的な学習ができる。
それよりも、子供が生き生きとする、「自分の好きなもの」を持つことや「自分がなぜそれが好きか」ということを追求するような人間として育つこと。本当は、そこに「国際化」の一番の要である「表現したいこと」や「表現のための訓練」が充実してくるように思うんだけどな。
投稿者 nori-m : 10:31 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月24日
ウィルス対策ソフトの事故

トレンドマイクロ社の「ウィルスバスター」のウィルス定義ファイルが壊れていて、それをインストールすると(ほとんどネットワークから自動でインストールできる - いや、されてしまう)、PCが非常に遅くなって、まるでウィルスに感染したかのようになってしまう、という。そんな事故が発生した。
実際、こういう事故はそう多くはないし、もちろんメーカーもこの種の事故には非常ナーバスになっているはずだ。しかし、事故は起きた。幸いにして、この定義ファイルが出たのは週末にかかるところだったので、被害は比較的少なかったようだ。
共同通信などの通信社、新聞社などでは「仕事にならない」という声も多く聞こえた。そのためか、マスコミには大きく報道される結果となってしまった。
しかし、ウィルス対策ソフトは昔から「事故」が多かった。たとえば、通信そのものができなくなってしまう、とか、あるプログラムを実行しようとすると、システムが停止してしまう、とか。だが、そういう事故も、これだけ世の中に広まってからだと、影響が大きいだけに「プログラムのバグでした、すみません」だけでは、ユーザはなかなか納得しないだろう、というところまできているように、私には思える。
私のウィルスへの対処方法は、実は簡単だ。原則は「シンプルなものほどトラブルが少ない」だ。だから、ウィルス対策ソフトはハナから入れていない。そして、普段からの生活習慣(?)をきちんとしてさえいれば、普通はそれでウィルス対策は万全だ。その生活習慣とは以下だ。
1.メールの設定はHTMLメールを読めないようにする。
2.危ない内容とわかるメールは一切開かない。タイトルだけ見たら必ず捨てる
3.Windowsであれば、Windows Updateは出るたびに行っておく。
4.怪しいフリーソフトをインストールしない。
これだけのことをしていれば、通常はウィルスに感染することはない。これに加えて、「Spybot Search & Destroy」などの「スパイウエア駆除ソフト」を定期的に動かしておく。これで何年も私のPCはウィルスなどから無傷である。
「生活習慣の改善」だけで、お金のかからないウィルス対策ができる。もし、今回のトラブルに懲りた方がいらしたら、是非このやり方をおすすめする。
投稿者 nori-m : 17:26 | コメント (13) | トラックバック
2005年04月23日
自殺に対する扱い

新聞ではこんな記事が掲載されているけれど、この類のことにはなんだか違和感がある。自殺って、誰に迷惑をかけるわけじゃない。犯罪でもない。
「心理的に」自殺という行為や、その予告と言う行為は「助けてくれ」と、言っているに等しいことも、もちろんある。でも、そうじゃない場合だってある。
結局、人は人のこころの中を直接覗くことはできない。その人の表現したものからしか、その人がなにを考えているのか、を推し量ることはできない。単純に「自殺はいけない」だけでは、この不可解極まりない人間という生き物の、だれもとがめだてすることができない行為を、規制はできない。
自殺というのは自分に対する殺人だから、いけない、って言うことを言う人もいるようだけれど、それはあまりに底の浅い言い方じゃないかな?なぜ自殺そのものに「罪」も「罰」もないのか?それでは理屈がつかない。深く考えもせず「いけないものはいけない」と言っているだけだね。
自分の死ぬときくらい、自分の自由にさせてくれよ、というところがホンネなんじゃないかな?
いまや、日本人の人口あたりの自殺率はどんどん上昇していて、先進国中一番になっている。暮らしに困って、という人が多いのだ。
一方、「フリーターが増えている」「ニートが増えている」のはいけない、という議論もある。だから、就業意欲のない人に就業意欲を持たせるのが必要だ、という。
しかし、日本でこの種の研究をまじめにやっている大学の先生方は口をそろえて「低所得者層ほど、定職につけない」現状を指摘している。ということは、これもまた、経済的な問題であって、決して本人の意欲だけでは解決できないことであることは明白だ。
この厳しい状況を隠し、施策として本当の意味ではなにもしない。郵政民営化など、日本という国の基幹にかかわるものを政府管轄から民間に移し、日本を外資のいいようにさせ、米国のように40%の国民が銀行口座も持てないような、激しい貧富の差を作ろうとしているこの現状においては、ニートもフリーターも、彼らが勝手になったものではなく、「そうさせられた」ものであるなんて、自明のことじゃないか。
なにものからも見放された人間であろうとなかろうと、自ら選ぶ「死」は、だれにもとがめる権利はない。
日本の人口が減るから税収が減って、日本の国力が衰える?って?ほほう、そういう見方からすれば、自殺も少子化も、日本に同じ影響を与えることだろう。そしてこの2つの問題の根は同じだ。
こんな住みにくいところにいたくない。誰にもここに住むことをすすめない。
そういうことだね?
凶悪で自暴自棄な犯罪の増加。ニートやフリーターの増加。自殺者の増加。子供を作らないという傾向。どれも根は同じなんじゃないか、と私は思っている。誰かの一人勝ちを許す国を作るのではなく、一人ひとりが住みやすい国を作らなければこの傾向はもっと極端になっていくだろう。結果として一人勝ちをした人たちも、その周辺をじわじわと侵食され、米国のように高い塀に囲まれた小さな楽園でしか、生きることができなくなってしまうだろう。
投稿者 nori-m : 07:01 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月22日
「商売がすべて」ではない

どんな仕事でも、最低限の「食っていける」ベースというものは必ず必要だ。もし、それができない、ということであれば、その仕事が世間に必要とされていない、ということになる。逆にいえば最低限であっても食えている、ということであれば、その仕事は誰にどう罵られようと、世間に認められている、ということになる。
資本家、出資者は、自分の持っているお金を極大化するためだけに、お金を出しているわけではない。自分の投資したお金が、世間の役に立つことに使われ、そこから、少々でも利益が上がればよい、という考え方の「出資者」もまたいる。
世の中に役に立つことをしたいと思ったら、世の中の役に立つことと明らかに思われることだけがそういうことだと思ったら、大きな間違いだ。エジソンは大変な苦労をして「電球」を発明したけれど、その開発をしている最中は「世の中の役に立つ」と、みんなに思われていただろうか?それに電球が完成した後だって、ガス灯をつけている会社からの反対にあった。自分のやっていることは世の中を変えたかも知れないが、それが世の中のある人々には害になった、ということだってある。「電球」は、予定調和を崩した発明だったのだ(おそらく、ITもそういうものだった)。
役に立つと一見して見えるものだけが役に立つわけではない。今、私の周りにいる、研究している人たちを見ると、この「バイオ」という分野だって、いろいろなところからの出資を受けて仕事をしているけれども、それがすぐになにかの役に立つかどうか、という視点で見れば、どれもこれも投資には値しない、というものばかりだ。それどころか、本人以外は誰もわからない研究、ってことだってある。
誰にも見向きもされなかった優れた新聞記事とか、本にもならなかった文章が、ある時点を境に、人の社会にぐんぐん浸透していって、結局は世の中のためになった、というものだってたくさんある。今、目の前にあるものだけを、今の社会情勢からだけ見て「これは役に立つ」「これは役に立たない」という、底の浅い「目利き」で判断しただけでは、人間の社会や技術、文化のどれもが、ここまで発展はしなかっただろうと思う。
一見して今の世界では「役に立たないもの」「無駄なもの」「バカバカしいもの」「投資に値しないもの」と見られるものが、実は次の時代には、必要不可欠になる、というものは実はたくさんある。良い意味でも、また悪い意味でも、予測可能なものだけ、この世の中にあるわけではない。
それでもなお、予測可能なものだけを選んで「投資」はしたいものだ、と、投資家は思うだろう。損はしたくはないからだ。お金がすべて、という世の中は、その結果として、「予測可能なもの」しか大事にされない世の中でもある。理由の如何を問わず、無駄なものが切り捨てられる。予測不可能なものへの畏敬が失われる。それはそのまま、人類が作ってきたものの衰退そのものだ。
だから、利益の極大化だけ、商売だけを考えてできあがった世の中はいずれ衰退していく。予測不可能なものを切り捨て、大切にしない世の中は、つまらない世の中になっていく。結果として、経済全体も不活性なものになる。新しいものが生まれないからだ。なぜかって、「新しいもの」っていうのは要するに「多くの人が予測できなかったもの」なんだから。
人のことを「役に立たない」「世の中のためにならない」と言う前に、自分自身はそういうものの中に、なにか新しくて予測不可能なものを見て、それを面白がる、という、健全な感性を忘れていないかどうか、ぼくらは反省してみることが必要なのじゃないかな?それを、本来の意味での知性、と言うのじゃないか?
最近はネットとかblogで、物事をある一側面からだけ見て「これはいい」「悪い」と、自分自身の狭い了見の中でだけ批評をする人がけっこうあるように見える。この前のラジオ局乗っ取り事件だって、乗っ取った側のやったことは合法で法的には非の打ち所はなかったが、世間の攻める側、守る側に対する評価は場面が変わるたびにくるくる変わった。しまいには、なにがなんだかわからない決着があって、勝ったのはこっちだ、いやこっちだ、というように、その評価も分かれた。結果として「おれはこう思う」という、毒にも薬にもならない「意見」ばかりがネット上に振りまかれたが、いまだに評価は分かれたままだ。
移ろいゆく世の中にあわせる、というだけでは、まともな仕事ができない、ということも非常に多くの場合、あるように思う。でも、それだからこそ、ネット上のblogなどのメディアは良いものといえる。どんな意見でも、玉石混交であっても、それを誰でもが見る機会が得られた、ということは、やはりたいしたことなのだ。
こういう「世界」では、自分の意見を言うときにも「違う意見もあるかも知れないが」という枕がやはり必要になる。自分と違う意見をもつ人間への尊敬や畏敬があって、はじめてまともな議論になるからだ。自分の意見を言うだけ言って、相手をつぶすことだけを考えるようになったら、それは「議論」ではなくなってしまう。いや、ネットでなくても、それは相手に失礼なことだ。
「経済の活性」に、本当は一番必要なもの、ってそういう「自分と違うものを認める」っていうこと、言い換えれば「新しいもの」「見たことがないもの」「予測不可能なもの」を、面白がる、ってことなんじゃないか?
投稿者 nori-m : 17:45 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月21日
会社は誰に従うべきか

最近の「株の買占め」などの話題で「会社は誰のものか」という言い方をされることが多い。でも、ぼくはそれはちょっと違うのじゃないか?と思う。つまりもっと直接的に「会社は誰の指示に従って経営をするべきか」と言ったほうが良いと思うのだ。
アシストの社長、ビル・トッテン氏のこのコラムによれば、彼は「会社とはお客様と従業員のものだ」とはっきりテレビで主張したところ、「株主を大事にしないあなたの会社の製品は買わない」と、脅迫を受けた、ということだ。
よくこういう場面があると必ず「会社は誰のものか」という言い方をされることがあるけれど、実際、会社という「営利を生み出す」場所には、さまざまな人たちが群れ集う。その群れ集う人たちの中には、お互いに利害関係が一致しない、と考え、わざわざおかねを産む「金のたまごを産むニワトリ」の首をしめて殺すようなことをする人たちもいる。会社がどんな仕組みで利益を生み出すのか、という「中身」には目もくれず、ひたすら「産めるんだからどんどん産め」という、会社を人間の集まりとは考えないで、あくまで「利益を生み出す機械」と考える「投資家」は、いまや主流なんだろうな、と思う。
実際、「お金」だけで会社とつながっている「投資家」は、それしか考えないし、それ以上のことを考えなくとも良い、という割り切りがある、って場合も多いだろう。でも、なんらかの利益を生み出す人や人たちは、経営の中身にちゃんとこだわっているからこそ、利益を出す仕組みとして、会社を作ることができる。投資家はそれが容易にできないから、自分で経営をしない。他人に経営を任せるのだ。
ましてや、何十年も本人の出自とは違う異国の地で、バブル崩壊の失われた10年にも、それなりの経営をしてきたまともな会社の経営者に「脅し」などする、というのは浅薄の極みだろう。トッテン氏は昨日今日に出てきた、お飾りの単なる雇われ経営者ではない。この「経営のエキスパート」がいるからこそ、株主の利益だって守られる。彼だって株主の利益を守らない、と言ってるわけじゃない。株主の利益を守るためには、会社を存続させなければならず、そのためには従業員とお客様を大切にしなければならない、と言っているだけだ。彼は当たり前の経営をしているに過ぎない。
中身に手を出せないから、仕方なく「投資」をする、ってのが「非専門家」である「投資家」なんだね。だから、彼らが経営の中身に口を出したときから、経営はおかしくなっていくことが多い。普通の経営者でも、自分が投資を始めるとおかしくなっていく。世の中にもし、こういう専門家がいなくなって、投資家ばかりの世の中になったら、誰が利益を生み出すのだろう?
投資家、経営者、従業員。みな求めるところは同じはずだ。このうちの誰かだけが利益を得るような仕組みは、会社の存続のための会社内のバランスを崩し、経営をおかしくしていく。お互いがお互いに相手のことを考え合っていかなければ、会社の経営などうまく行くはずがない。
「Winners take all」という、いかにも浅薄で思慮の浅い、にわか個人投資家のケチな根性が言わせることばは、言ってみればオウム真理教のあの汚い教祖が言っていることと同じだ。簡単に言えば「みんなオレのものだ」。持ったことのない人間が、たまたま手にした支配の一部と小金で、舞い上がってしまったのじゃないかな?
「お金を使え。お金に使われるな」とはよく言うことばだが、偶然にも手にした「小金」で舞い上がるケチな「投資家」には、自分がお金に使われている、ってことが見えないだけなんだね。自分なんてたいした人間じゃない、ってことがみえなくなっている人間ほど、醜いものはない。昔の人はよく言った。「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」。そうありたいものだけど、なかなかそうはいかないよね。
いや、どこでもよく見る光景だけれどさ。
投稿者 nori-m : 06:38 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月20日
政治の季節と経済の季節

だいぶ前になるけれど、沖縄出身の友達がこう言った。
「沖縄からいろいろな芸能人とか出てくるの、あまりいい気持ちがしないんだよね...」
え?なぜ?とぼくは聞いた。彼はこう答えた。
「だって、経済とか産業とかが衰退するところって、必ずそういう娯楽とか芸能とか観光とか、そういうものが発達をするじゃない。つまり、沖縄は産業的には見るべきものがない、ってことを言われているように思うんだよね」
なるほどな、たしかにそうかも知れない。世界的に縮小しつつある経済のマネーの行き先は、やがて娯楽などの「サービス産業」になるだろう。ある意味元手の非常に少ない資源で日銭を稼ぐしかなくなってくる。成長するためには成長ができるだけの「空き」が、世の中になければいけないけれど、それがなくなったときは、「空き」を、誰もが見える「モノ」から、「こころ」みたいな、あるのだかないのだかわからないほうにシフトしていかないと、たしかにやることがなくなってしまう。
してみると「こころの時代」なんていう言い方は「産業、経済の衰退の時代」ということになるのかな?などと思う。
ある人がハーバードで使われているMBA取得のためのカリキュラムについて語っていた。そこでは「産業とは拡大する一方である」ことが大前提で物事が定義付けられている、という。だから、あれは今の時代にマッチしないんだ、と、彼は言っていた。ぼくはまだそのカリキュラムを見たことがないから、今度見てそれを確かめてみようと思う。
でも、それは現実と符合している。Microsoftのゲーツはじめ、米国のそうそうたる経営者は誰もMBAなんか取ってないからね。本当に「たいした経営者」ってのは、そういう勉強に頼る人じゃだめっぽいよね。ましてや、この成長ならぬ衰退の時代であれば、なおさらだ。「法則」なんて無いに等しいのだから。
まぁ、MBAが役に立つかどうか、ってことは置いとく。そんなことはいまや経済にもあまり関係なさそうだし。
で、かつての60年代、70年代が、高度経済成長の時代とともに「政治の季節」だったことはよく知られているけれど、きっとまた、すぐにこの経済の衰退が「政治の季節」になるような予感が、ぼくにはある。韓国、中国の「反日」は今に始まったことじゃないのに、いま、なぜ騒ぐのか?その裏には成長著しい、と言われている中国の経済がある、と言われている。でも、中国でも、もうITなんかのバブルは終わりかけてる、ってのは、もうみんな知ってるよね。
で、6月には元の実質上の切り上げがあるだろう、って言うことをメリルリンチとかリーマンとかの調査部がちゃんと発表してる。中国の高官がそう言ってるし。つまり、中国へ投資したお金がみんな減るぞ、ってことですね。その代わり、中国の経済は助かるわけです。そしてこれはこれから来るであろうドルの急落の予想からきている、って言ってる。まさに政治と経済は一体、ということを感じさせるね。
今の日本や韓国の経済の好調は中国に支えられているから、この意味するところは明白だね。経済を知るには政治や歴史もまた知らなければ、本当のところはわからない。経済だけが一人歩きしているんじゃないんだもの。まぁ、そう勘違いされた時代はありましたけどね。でも、経済も政治も歴史もわかったからといって、将来が100%予測できる、ってわけでもない。人間の社会ってそれくらい複雑なんだよね。だから勉強は怠れないわけで。
21世紀のアジアはいよいよ「中国が中心の時代」になりつつあるね。そして、日本ではやがて政治の時代が訪れるだろう。そして、中国の政府はその流れの引き金となるであろう「元の切り上げ」をするタイミングを虎視眈々と狙う。そして、それはこの6月かもしれない、ってのが、前記の記事の言わんとしていることじゃないかな、とぼくは思うのだけれども。
やっぱり日本は観光で生きてくしかないかな?でも、日本は観光地としてはかなりいいところだと思うよ。治安はそこそこいいし、人心もとりあえず(周辺諸国に比べれば)安定してるから、外国人観光客にとっては過ごしやすいところだし。それに世界的に有名になった京都みたいな観光地があるしね。うん、これはいいかも知れない。
なんでもかんでも、「オラが国さ」が一番でないと気がすまない、なんていう「ビョーキ」からは、日本人もそろそろ開放されていいんじゃないかね?と思うけれども。
投稿者 nori-m : 21:37 | コメント (3) | トラックバック
blogの次

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。
ここ数年、ネットの世界にはめまぐるしいほどに新しいアイテムが次から次に出てきた。mixiのようなソーシャルネットワーキングやblogなんかもその1つ。そしてそのblogは成熟期を迎えた、という感じがある。いま、米国でblogの次はこれ、と言われているのが「ポッドキャスティング」だ。
これは音声や映像によるblogのようなものだ。
もっとも、ネットの時代になると、本とか新聞などはなくなると言われていたけれど、影響はあっても実際にすべていっぺんになくなることがなかったのと同じように、blogもポッドキャスティングが流行したとしても、すぐになくなることはないだろう。
blogはSix Aparts社のMovableTypeという製品が出てきて、それをいろいろなところが使い始めたために流行した、と言ってもいい。この「ツール」は、手軽に自分のホームページが作れる、ということが最大のポイントだった。つまり「簡単なblog構築ツール」の存在こそがblogの流行を作った。
でも、ポッドキャスティングでは、まだそういった「シロウトでも手軽に使えるツール」がない。今後、ポッドキャスティングがblog並みになるかどうか、ということは、この「ツール」に負うところが大きいのかもしれない。
投稿者 nori-m : 00:20 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月19日
高田渡氏亡くなる

関西で垢抜けたフォークを目指した「ロック・キャンディーズ」:ちなみに、手前のお兄さんは谷村新司さん。この当時はひげはない。しかし、まだ短パンははいていない(笑)。
フォークソングの歌手、高田渡さんが亡くなったということです。
まずはご冥福をお祈りします。
ところで、今回のトピックはちょっとマニアックな名前とかが出ます。知らない人、面白くない人は飛ばしてください(笑)。
ぼくはちょうど中学生から高校生の頃、日本のフォークソングにはまった。日本のフォークソングは、もともとアメリカのフォークソングの真似から始まった。
アメリカのフォークソングはピート・シーガーなどの「ガスリーズ・チルドレン」と呼ばれる、ウディ・ガスリーの系譜から始まったといっていいけれども、その音楽はやはり古くからあるブルーグラスなどのカントリーの源流とも言える音楽が根底にあった。そのカントリーの音楽と、当時のアメリカの政治勢力としての左翼=コミュニズムが密接な関係を持ってできたのが、アメリカのフォークソングといっても良いだろう。ウディ・ガスリーの一生は「我が心のふるさと」という映画で見ることができるが、その映画ではなんどもコミュニストの集会の場面が出てくる。
あの「チェ・ゲバラ」のかかわったキューバというアメリカにごく近い社会主義国がある。「アメリカののどぼとけに突き刺さったとげ」と言われていたその「島」は、かつて東西冷戦の大きなトピックである「キューバ危機」の舞台ともなった。あそこで歌われたさとうきびの収穫のうた=キューバの労働者のうた「グァンタナメラ」などを、その当時、ピート・シーガーもフォークソングとして歌っていた。「NHKみんなのうた」などでも歌われ、後には小学校の音楽の教科書にも載るようになった「ドナドナ」なども、この系譜のアメリカン・フォークソングだ。もっとも、当時のアメリカのフォークソングといわれた音楽は、政治色の濃いものもあれば、そうではない「キングストン・トリオ」などに代表される垢抜けたものもあった。この垢抜けたほうを好んだのは、やっぱり東京の連中だった。ブロードサイド・フォーの黒澤久雄とかね。「きみのーいくみちはー」ってやつですね。毒にも薬にもならない「フォーク」だったけど、まぁ、それはそれで存在意義がないわけじゃなかった。
ちょうど、ぼくが高校生のとき、数学の先生がブルーグラスのバンジョーの名手で、すごいテクニックで弾いていたので、かなりブルーグラスも聞いたし、いくつかは自分でも演奏した。でも、「オハイオの岸辺で」はなんとかなったけれども、さすがに「フォギー・マウンテン・ブレイクダウン」までは手が届かなかった。いずれにしても「フォークソング」ってぼくにとっては懐かしい。
でも、日本のフォークソングは、そんなアメリカのフォークソングと比べても、非常に特異な文化的側面があったように今は思っている。フォークソングの流行の後、それらの、「古賀メロディー」とは全然違う新しい日本の音楽は「ニュー・ミュージック」というわけのわからない名前に変化して、そこから日本の今のポップシーンが始まった、といってよいだろう。ヤマハのやった軽音楽系新人登用のための「ポプコン」なんかも、この時代はいっしょくたにされていた。中島みゆきもここの出身だ。
いやね、最初にポプコンの「音」を聞いたときはびっくりしたよ。ジョー・コッカーみたいな声で迫る上田正樹だとか、今見ればそうそうたるメンバーが(今はもう忘れられた人も)いた。そのバックの音楽も、当時としてはあまりに垢抜けていて、なによりもそのリズムと音作りが、今までの日本の音楽とはまるで違った。あまりにびっくりして、ぼくはなんどもなんども、FM放送で流れていたその音を聞いた。いや、これはこれで、かっこよかった。
とにかく、そうこうしているうちに日本のフォークソングは、いつのまにか「平和な日本のポップ」の一部になっちゃったんだが、その中で、やはり日本にいながら、精神的にもウディ・ガスリーの後を追う、素朴で面白い、そして渋い、大酒飲みの、ギター1つで歌う、朴訥とした歌声を持つやつが、何人かいた。その雄が、高田渡だ。そして、彼は吉祥寺あたりにいた。ぼくもまた、学生の頃、ときどき彼を吉祥寺あたりでみかけた。
高田渡の大酒飲みはとにかく普通じゃなかったらしい。数々の酒の上の武勇伝は、やはり日本のフォーク(の歴史)といえばこの人、と言われる、なぎらけんいち氏の著作「日本私的フォークソング大全」に詳し(いや、これは面白い本です)。この本によると、高田渡は、自分が主演してるコンサートの途中、それも歌を歌ってる最中に、二日酔いでいびきかいて寝たりした、なんていうエピソードが満載なのだ。
高田渡があの時代、ちょっと違ったのは、関西から出てきたにもかかわらず、古いアメリカンフォークそのものをもともと追っかけていた関西の人たち - 高石ともやとか岡林信康とか - とはまた違った、「東京の貧しさ」を歌ったところだろう。貧しさや、日常の生活をうたう日本の詩人の詩に、アメリカンフォークのメロディをくっつけて面白い味を出したりしていた。彼自身が「学校の給食で出る脱脂粉乳がごちそうだった」と言うくらいの極貧の家庭に生まれたこともあるのだろう。高度成長の裏で忘れられた生活を送る人たちのうたを多く歌った。
よく今から思い返してみれば、その頃のフォークシンガーはみんな(いや、間違いなく、ほとんどみんな)「個性的」な人ばかりだった。言い換えれば「美男・美女はいなかった」(失礼-例外はないわけではないが)。その人間臭い個性と、その個性がにじみ出る歌のその「におい」が、いまでも強烈な「なつかしさ」を誘う。日本のフォークソングは、アメリカから来た「正統」からはっきりと外れたけれど、その中に、日本独自の「なんだか面白いもの」がうようよと群れをなしていた、という感じがする。
高田渡はその中でもアメリカンフォークに寄っていたほうだろう。でも、彼の個性はやはり他の誰にも代え難いものだった。高田渡というその人間の個性の奥深さ、面白さがにじみ出るその歌は、他の人にはやはり歌えない。
つらつらと思いつくまま書いたけれど、あれだけの大酒飲みのじいさんが、よくここまで長生きしたよなぁ、という思いもまた、あるね。いや、56歳だから、そうたいした年齢ではないわけですが、「大酒飲みにしては」ね。
さよなら、高田渡さん。
おまけ:
なつかしい写真です
投稿者 nori-m : 15:08 | コメント (0) | トラックバック
煽る、煽る

中国は社会階層での貧富の差が非常に激しい。特に都市部では、その「差」をまざまざと見せ付けられる場面が、もちろん多くなる。その不満がどのように爆発するか、ということが実はけっこう大きな支配層の関心事だったりする。
急激な経済成長の裏には、常にこういった「忘れ去られた人々」がいるものだ。日本の高度成長のときでもそうだった。そして、この人たちの数が一定以上になると、犯罪の増加などで社会不安が起きる。
いま、そういう瀬戸際の中国が、この「日本への怒り」を利用しない手はないだろう。
でも、中国も日本も、米国、韓国、どこも経済的には相互依存の関係があるので、なかなか割り切って「切る」などの政策は、どこの国の政府も取りにくい、というのが実状だろう。感情的になるのではなく、理性的に見れば、この相互に絡み合った関係を断ち切ると、断ち切ったほうもただの怪我ではすまない。
中国の庶民の感情の発露は、政府に向かっての攻撃になっては困る。だから、日本など外の話題に向かう。あるいはそうすることが奨励されて、「ガス抜き」がされる。
さらに、この6月に控えている、と言われている「元の実質切り上げ」に向かって、経済の動きそのものも、非常に中国情勢に敏感になっている。場合によったら、この「煽り」をしている連中は、感情的にではなく、それが起こったときのことを考えて、「煽っている」可能性もある。
感情的になる人の裏には、冷静にこれらの人たちを「繰る」ことを考えている人たちもまた、いるのだ。
投稿者 nori-m : 11:26 | コメント (4) | トラックバック
2005年04月18日
中国と韓国と日本国外務省

韓国にはもうかなり長い間、仕事で行ったりきたりしている。「やはり全体的に日本人への韓国の人の感情はよくないことが多いです」と、ちゃんと正面から話してくれる韓国人の友人がいる。彼の今までの話を聞くと、どちらの国の人たちにも、公平な見方をしていることがわかる。韓国にも、もちろん、感情的になったりせず、まともな思考をしている人がいるのだ。
中国の人も、日本にたくさんいる。韓国の人もいる。おそらく、安全にすごしている。
しかし、こういう問題は古くて新しい問題だから、いまさらなぜ噴出したのか?というところ、その引き金を引いたのは、誰がどんな目的で行ったか、ということのほうに、ぼくは興味がある。どの問題も、みな古い問題だ。この時点でなぜ火を噴いたのか?
日本の外務省の中では、小泉政権になってから「親米派」だけが優遇されるようになった。アジア局(中国、韓国、インド等を扱う)で、中国などアジア各国を良く知るエキスパートが、本省の外に出されてしまったのだ。そして、中国、韓国と日本はそれからうまくいかないようになった。言葉にできない「アジアどうし」がうまく行く信頼関係を築いてきた彼らは放逐された。
もし、いま、彼らが本当にちゃんとした仕事ができる位置にいれば、こういうことは起こらなかったのではないか?と私は思っている。北京での日本大使館への脱北者の駆け込み事件の責任を取らされたかたちで行われた省内の人事によって、実はこういう事件が起こる下地が作られた、と見てよいだろう。
その事件が起こる「知られざる遠因」というものがある、というのは「松の廊下」じゃないが、けっこうあるのじゃないか?そのことに目を向けられるのは、その近くにいた、実は非常に少ない人たちだろう。この人事がなぜ行われたのか?また、もしその結果が予測されて、それがおこなわれていたとしたら、まさに「予定通り」に事が運んだ、ということなのか?。それを感じることができる立場にいるぼくは、誰も知らないだろう、またほんの小さく見えるが、本当は大切だと自分で思っているこのことを、ちゃんとここに書いておく必要を感じる。blogはそういうツールなのだから。
投稿者 nori-m : 14:50 | コメント (0) | トラックバック
生活習慣病は生活習慣では起こらない

いま、お仕事をしている会社で面白い研究結果が出ている。要するに「生活習慣病は生活習慣で起こらない」ということだ。前のblogでもこのことはちょっと書いたけれど、ここでもう少し詳細に書いてみよう。
「生活習慣病」という病名からして「生活習慣が悪いからこういう病気になる」という感じがどうしてもしてしまう。でも、事実は違う。生活習慣病と呼ばれている病気とその症状は遺伝的な要素がかなり大きく効いている。
「生活習慣」を変えれば、それがほんのちょっと良くなるかもしれない、という程度のことなのだ。
人の体は長いあいだに、体の個体差や生活環境に応じてその場その場でのバランスを取るようにできているから、急激に痩せるようなことをすると、そのバランスが崩れ、体全体がおかしくなる。悪者に言われるコレステロールだって、その値を人為的に急激に低くすれば、命にかかわってしまう、ということはよく知られている。
よく間違われている医学知識はたくさんある。たとえば「コラーゲンの摂取で肌がきれいになる」なんてのはウソだし、マイナスイオンが体にいい、なんてのも、ことばの定義そのものからして怪しい人たちがその周辺で跋扈しているのを見れば、マユツバなのはよくわかる。
とくに生活習慣病はそういうものの1つといっていいだろう。
要するに、生活習慣病は遺伝病である。そして、それを食生活、運動で、少々は良くできるかも知れない。単にそれだけのことなんだよね。長く医学の世界にいるそのほうの専門家の先生方に聞くと、「そうなんですよ。現場ではそういうことはとっくにわかってることなんだけど」と言うことが普通だ。
ぼくらは名前にだまされた。この名前をつけた「先生」はたいした商売人である。「生活習慣が多少効くかも知れない」病気を「生活習慣病」って名前をつけるんだから。
いや、ネーミングは大事だ。
投稿者 nori-m : 08:53 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月17日
ヒトゲノム国際会議が始まる

ところで、いま、個人投資家、機関投資家ともに、話題になることが多いのは「バイオ」のキーワードだ。世界を見渡せば「ハイテク」というキーワードの範疇には、既にITはない。ITの中でハイテクはあるかも知れないが、ITだからといってハイテクとは限らない。つまり、ITも「当たり前の産業」になった、ということだ。このことは前にも書いた。
そして、バイオの業界での雄といえば、はやりアメリカになる。日本は後塵を拝するどころか、ランナーとしてはトップグループから離れてぜいぜいと息を切らせて、完走さえままならない状態といっていい。第一、お金がない。
ITということばができるはるか前、日本の高度成長が頂点に達した、と言われたおよそ30年前、その当時の通産省(現経済産業省)の人たちのごく一部には、IT技術への注目をしていた人たちがいた。この人たちの一部は役人であることを辞め、自らIT関連の会社を興す、ということまでやった人たちがいた。つまり、日本のITの隆盛の陰には、この人たちの動きが大きく関与していた。先見性のある人たちが自らの身を切ってITに向かう世の中の動きに賭けたのだ。もちろん、その当時だって、そういう人は限られていた。
いま、バイオの業界に足りないのは、そういう人材なんじゃないだろうか?自らリスクを引き受けて、この仕事に打ち込む研究者や事業家だ。他から見れば「なんでリスクを負ってまでそんなことをするのか」と言われながら、自らの先見に命を賭ける人たちこそが、日本のバイオに不足している人材ではないか?。
いまや、バイオはITを道具として、本当の手足のように使わなければ生きていけない状態になった。試験管に囲まれてちまちまとした研究をやる生物学の先生、というイメージはもうない。そして、ITは分子生物学というミクロの世界を扱うだけではなくて、マクロ、すなわち数値統計、推計などのデータを多くバイオに提供することによって、統計医学の分野でも多くの成果を上げつつある。さらに、これらの世界が融合して、いよいよ、生物の未知の分野を既知の分野にするほんの最初の足がかりを得られてきたように思う。
いま、私がやっている仕事の身近にいる先生方は、この「境界分野」のエキスパートだ。頭が柔軟で、「なにが大切か」をよくわかっている人たちだな、と特に思う。
この18日から4日間、京都でヒトゲノム国際会議が開かれる。世界中からヒトゲノムについてのさまざまな研究成果が発表され、研究者どうしが交流する。しかし、いまやバイオの世界の研究はいよいよ事業として「儲かる」とみなされるものが増えてきたため、「最先端の研究」をそこではみんな本当には見せてくれないはずだ。だからこそ、世界の投資家がバイオを狙う。
研究の世界も莫大なお金がからみはじめると、このようになってくる。本来、知的財産は人類の共有の財産のはずだが、資本はその財産の独り占めを狙う。しかし、そういうことができるほど、バイオは成果があがってきた、とも言える。
「自分の研究のことだけ考えて一生を終わる研究者」は、淘汰されていくだろう。そういう人でなければできなかった仕事が、なくなるだろう。
いろいろ書いたけれど、バイオの世界も一枚岩ではなく、わかりやすくもなく、わからないこともまだたくさんあり、その世界の人たちどうしの交流も、実はあまりないと言っていい。わからないことだらけなんだな。だからこそ、目ざとい投資家は今から投資するのだけれど。
投稿者 nori-m : 17:57 | コメント (2) | トラックバック
2005年04月15日
桜の季節の終わり

そろそろ桜の季節も終わりですね。
それにしても、なんで「日本人=桜」というステレオタイプのワンパターンができあがっちゃったんだろうね。自分でも写真を撮るときに意識して桜、この季節は撮ります。いや、無意識にでも撮ってしまう。でも、近接した桜の花の写真なんか撮ると、本と自己嫌悪に陥ります。
なぜかというと、「毎年、おれ、進歩ないじゃん」、って思うからです。
何年続けて桜を撮っても、毎年同じような写真になってしまう。ウデの悪い悲しさってものがある。だから、パッと写真を見ただけで、「あ、この桜は何年に撮ったやつ」なんてわからない。
桜の季節に桜は撮らない。というくらいにしないといけないだろうね。来年は気をつけよう。マンネリはやっぱり嫌い。だからまた来年桜を撮ると、自己嫌悪がいっそうひどくなりそう。
投稿者 nori-m : 01:25 | コメント (1) | トラックバック
2005年04月13日
パソコンは低級中華料理?

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。
だいぶ前のこと、そろそろPCが世の中に普及しはじめた1990年代の真ん中くらいに、某大コンピュータメーカーの部長さんはこう言い放った。
「パソコンなんてのはね、言ってみれば中華料理でも低級のラーメンとかギョーザなんだよ。大型コンピュータはお金もかかるし、中身も最高にいい。だから、あれが本当の高級な中華料理なんだな」
この部長さんの言葉を借りれば、いまや世の中には「高級でまともな中華料理」は無く、低級な中華料理ばかりがはびこっている、という感じなのかな?
でも低級、とののしられつつ、パソコンはインターネットという強い味方を得て、今はどんな大きなコンピュータメーカーでも「メインメニュー」の筆頭に鎮座している。そして、ぼくらの世代は、ある意味グロテスクなものもある本物の高級中華料理なんてものはいらない、と思っているかも知れない。おいしいラーメンがあれば、それでいい、カップラーメンでもいい、という感じなんだよね。
この部長さんの言いたいことは「だからそういう高級なものを扱っている自分も高級なのだ」って言うことだったんだろうね。でも、高級だからって、それをみんなが買ってくれるとは限らない。そしてなによりも、高級なものを持っている人がとんでもなく悪いやつだった、ってことは、ざらにある。
投稿者 nori-m : 14:16 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月12日
教養ってのは?
デイビッド・ハルバースタムといえば「The best and the Brightest」が思い浮かぶ。もちろん「メディアの権力」という名作もある。
まさか、こんな名著があることを知らない、読んだことさえない、という程度の教養しか持たない人がblogなんかで経済のことやマスコミのことを語る、なんてことはよもやないとは思うけれども。
なににつけ、今は教養とはなにか、ってことが見えにくくなっている時代だし、教養の中身について問うことさえできない程度の教養しかない、という人があまりにも多くないだろうか?いや、教養ってのは、それがないから発言しちゃいけない、ってものじゃないのだけれど、かといって、「知識」じゃない。だから、「ホルスト」が「ホイスト」になっても、まぁ、教養がない、とも言わない。
教養ってのは時代によって、場所によっても変わる。たとえば、今でもまだあるけれども、たとえばキリスト教圏での教養ってのは、聖書のどこかをうまく会話の中に引用して、なおかつユーモアとウィットを感じさせる、そういうものだったりした。
今の日本での教養ってのは、要するに、その人の「品」みたいなのに直に通じる知識なんかのことだと思う。ただの知識だけだったら、教養とは呼ばない。大学を出ているから教養がある、とも限らないし、国会議員とか会社の経営者だからといって、あるいは大学の先生だからといって、教養のある人だとも限らない。
社会的地位とか、知識の量とか、そういうものではないんだな。教養ってのは。
でまぁ、この「教養」ってのは昔からお金とあまり縁がない、ってことも多い。むしろ、お金があると教養がなくなっていく場合だってある。
自分の書いていることがすべて正しいとは思えない、という懐疑があって、それを表現できれば、その人は一定以上の教養があるって言っていいんじゃないかな?
そして、ひとつだけ言えること。「教養のない人には教養が見えない」。いやまぁ、それって当たり前のことなんだけどね。
投稿者 nori-m : 22:32 | コメント (2) | トラックバック
2005年04月11日
国どうしの喧嘩は作られる
韓国と日本の「竹島」問題。中国との「海底ガス田」の問題。領土問題があちこちで噴出している。中国と日本は他にも「教科書」の問題もある。しかし、これは本当に大切な問題なのか?どれもこれも前からあった問題なのに、なぜ、今ここで「噴火」しているのか?
世界の大きな動きから考えれば、米国とメキシコ等の周辺国は既に関税を撤廃して、「経済的に大きな1つの国」として、その地域をとらえられるように組織されている。もちろんEU諸国はまた、既に経済的に1つの国となった。
本当はこれらの2つの勢力に対抗して、第三の勢力である「アジア」の統合が必要なのだ。そうしなければ、EU、米国連合(NAFTA)などにいいように利用され、分裂させられてしまう。反対側から言えば、米国もEUもアジアが1つになって団結することを望んでいない。
かつてマハティールはそこを突いて、アジアの統一を訴えた。いまは、中国がその役目を負おうとしている。借金にまみれているとはいえ、これだけの大きな経済的な力を持つ日本と、先進国に比べればとてつもなく低い賃金で働く労働者のいる中国の経済的結合は、EUや米国にとっては脅威そのものだ。いま、世界の工場は中国なのだ。
中国政府はそのことに気がつき、韓国とも同盟を結ぶ。このままいけば、どんな抵抗があろうとも、日本もまた中国を中心としたアジア経済圏を考えざるを得ないところまで来るだろう。21世紀後半は明らかに中国の時代だ。
皮肉なことに21世紀の「大東亜共栄圏」は、日本ではなく、中国がその中心となる。
どうだろう?中国に「大東亜共栄圏」という名前で、NAFTAのような同盟の中心になって日本、韓国、インドなども加わる経済的同盟関係を結んでみては?そうすると、世界地図は大きく変わり、社会主義の国であるか、資本主義の国であるかを問わず、日本もアジアも豊かな地域になっていくことだろう。
そう。だから、今回の「喧嘩」は、そうなっては困る人たちによって作られている。少なくとも私はそう考えたほうが良いと思うけれども。
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海ゆかば水浸く屍
ここしばらく、ぼくは父親の話をしたけれども、ぼくの父親は、いま考えると、良い意味での戦後民主主義というものの権化のような人だった。
馬鹿な戦争で死ぬことなく、戦後に這い出てきた。だから、たとえどんな理由があろうとも、戦争をする人間を憎んでいた。それを常に言っていた。なぜって、死んだ人はなにも言うことができない。だから、戦争で「国のため」と騙されて無駄死にしていった人のかわりに、その時代を見て生きてきた人がそれを言うことが必要だから。
「国のために死ね」などと言われても、絶対にそんなことでは死ぬな、とよく言っていた。「あれは犬死にであって、それ以外ではない」。そうも言っていた。焼け野原の東京で父親はきっと「なんてバカなことを」と、大きなため息さえ出ないような思いを体験したのかも知れない。
いつの時代でも、戦争に肉親や愛する人を送る人たちの思いは同じだ。「生きて帰ってこい。死ぬな」。たとえそれがなんのためであっても、誰かに騙された結果として、あるいは誰かに強制された結果として、死にたくはない。
子供のころによく読んだ「鉄腕アトム」の作者、手塚治虫氏はかれの生前のインタビューの中で同じようなことを言っていた。「みんな、命を大切にしよう」と。
おそらく、戦争を知る人たちはみんな等しく、同じ思いを強く持っていることだろう。いま、この時代に、もう一度戦争を知る人たちの「原点」を見つめなおすことは、なににも増して必要なことなんじゃないか?
ぼくらは高校生のときに日本史で習った与謝野晶子も「君死にたもうことなかれ」をうたった。これは古くからあるテーマなのだ。もう、こんなこと、忘れかけていた。
ぼくがなんどかお話をさせていただいたことのある、故遠山啓先生(生前は東工大の数学の教授だった)は、その主催した教育雑誌「ひと」(太郎次郎社刊)のなかで「だれも戦争をしましょう、といって戦争になだれ込むわけではない。戦争をしないと食えなくなるぞ、と脅されて、みんな戦争に向かう」と言うことを語っていたのを思い出す。豊かなことに慣れすぎた人間を、戦争が誘惑する。
4月9日の桜の京都の写真を撮ってきました。お暇な方はどうぞご覧ください。
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2005年04月10日
京都、春 2005年 その2

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2005年04月09日
京都、春 2005年 その1

京都の春。 2005年4月9日。暖かい日差し。
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2005年04月08日
父親のこと

父親のことを続けよう。父親は他人の病気などの治療はしたし、予防についてもかなりしっかり患者さんに言った。でも、紺屋の白袴というくらいで、自分の病気についてはなにもしなかった。
「人は死ぬときには死ぬ。それでいい」とよく言っていた。「医者ができることなんて、人間の持つ自然の治癒力を、少々後押しするくらいのことだ」とも言っていた。そして、自分自身は高血圧で、脳梗塞で一度倒れたこともあった。それ以来、たばこはやめたけれども、それだけだった。自分の考えでは、たしかに「人は死ぬときには死ぬ。それでいい」だったけれど、治療を望む人には、もちろん最大限の努力をした。自分の考えを人に押し付けることはなかった。ぼくの将来とか職業についても、全くぼくの自由に任せてくれた。そういうやさしさと思いやりを持つ人だった。
父は結局68歳で他界した。自分自身への「治療」「予防」は、ほとんど、なにもせずに。ぼくの父親にとって、その年齢こそが「天寿」だった。
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2005年04月07日
お金と仕事のこと

ぼくが子供の頃、医者だった父親にこう言われた。「どんな職業で食っていってもかまわない。ただし乞食と自衛隊と銀行員や証券会社の社員にだけはなるな」。幸か不幸か、たしかにそのどれにもなろうとも思わなかったし、ならなくてもよかった。
ぼくの父は古い人だったから、そう言うのはわからないではない。でも、その話を聞いたとき、ぼくは父親に「乞食と自衛隊はわかるけど、なんで銀行員や証券会社はだめなのかな?」と聞いたら、父はこう言った。
「他人の稼いだカネで食うような連中だからだ」。と。
たしかに、そう言われればその通りかも知れない。自分で稼ぐ、というよりも他人に稼がせる、というのは、投資の基本だ。そして、それはお金がお金を産む、という意味で「実業」ではなく、「虚業」に見えることは否めない事実だろう。
戦争の時代を、東京で医学生として生きていた父親は、医学生だったから戦争には行かずに済んだ。そして焼け野原の東京を見ていたはずなのだが、その頃のことは生きているあいだ、家族にも一言も語ろうとしなかった。逆に、その頃の体験が、誰にも話せないほど辛かったものだったのだろう、ということを、父は無言のうちにぼくに語ったと言ってもいい。たしかに、戦争ということになれば、産業もなにもめちゃめちゃになる。残るのは自分の腕ひとつ。この経済の衰退の果てにそういう世界がやがてもう一度日本にも来るとすれば、このことばの重みもいっそう増す。金融というのは、世の中が一定以上の安定を保っているからこそ、生きていられる業態だ。
戦争中の父の素顔を一度だけ見る機会があった。暇があると実家の古い物置漁りをしていた大学生の頃、物置の中に、戦時中、父が書いた日記があったのだ。日記には具体的なことはほとんど書かれていなかったけれど、父親がなにに悩んでその時代をすごしていたのか、というこはとてもよくわかった。自分の周りで「国のため」と言いながら死んでいく学友たちの只中で、戦争に行かなくでもよい、という立場であるということは、臓物さえねじ切れてしまうような煩悶を父に強いていたのだった。
ぼくらが想像できないようなことだって、多く見てきたことだろう。その父が言った「~だけにはなるな」と言うことばは、やはりぼくには重かった、ということは白状しなければならない。
そして、例のライブドアとフジサンケイグループ、SBIのこのプロレスさながらの見世物は、いよいよ社員を巻き込んで次のステージに入ったみたいだ。北尾氏が「第二ニッポン放送」の構想を打ち上げ、現社員をみなそこに引き取り、加えてポニー・キャニオンを上場させる、という。北尾氏にとっては、この程度のことは、今までの実績を考えればわけもなくできるだろう。
これを聞いた堀江氏は、記者会見の席上からなにも言わずに立ち去った、という。さらなる北尾氏からの波状攻撃は、おそらく、上記2つの構想だけにとどまらないはずだ。まだまだ堀江氏への攻撃の手は緩めないだろう。そしてまた、この程度でも緒戦に過ぎない。もちろん、そろそろニッポン放送は情報廃止間近でもある。
堀江氏を尊敬する、と言っている人間は少なくないが、さすがにここまでいじめられては、誰だって支えようもない。おまけに、堀江氏本人は他人の意見を受け付ける器ではない(本人もそう言っている)から、力のある人間、先を読む力を持つ人間はどんどん彼の周りからいなくなる。実際、この戦争の勃発当時、何人の重鎮があの会社を去ったことか。
この騒ぎを見るにつけ、ぼくは父親のあのときの一言を、いまでも思い出すのだ。人のお金をお預かりして使わせていただいている、ってのが「経営者」だ。経営者自身が出資していて、それが純粋に自分名義のお金であっても、そのお金を得るってこと自身が社会的な信用とか責任を伴うものなのだ。そのお金をあたかも自分のお金のように錯覚するような経営者では、やはりまずいのではないか?
大きなお金を振り回すことができる、という夢を描くのはもちろん結構だが、そのお金の全部が自分のものではない。大きなお金には大きな責任が伴う。右を向いても、左を向いても、そんな責任なんて薬にもしたくない、なんて経営者が多すぎやしないか?
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2005年04月06日
セキュリティの本質

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。
世界的な情報セキュリティ企業として知られる「ベリサイン」という会社がある。ここは、多くの企業で使っている暗号に「認証」を与えて、そのサイトが安全であることを保証するお仕事が専門だ。
簡単に言えば電子証明書を発行している世界的な企業だ。そこの日本法人で、顧客およそ1000人分のデータの入ったPCが盗まれる、という事件が起きた。データは暗号化されていなかったらしい。
この事件が発生してから、約1週間、同社にとって重要な意味を持つこのニュースは、同社の認証技術によって守られ、1週間たってから、やっと衆目の知るところになった-というのは冗談。事実は伏せられていたようだ。
セキュリティの基本は「人間」だ。不注意や悪意から情報が漏れる。内部の人間が関わっていれば、どんなにパスワードや認証を強化してもだめ。技術の問題ではない。人間どうしの信頼関係。それをちゃんと築くことこそが、最大のセキュリティになる。
個人情報保護法に絡んで技術とか組織の仕組みが取りざたされているが、セキュリティの基本は人間の信頼関係しかないんだなあ。あなたの会社はだいじょうぶ?
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2005年04月05日
公衆無線LAN

最近、仕事で外を回ることが多いので、公衆無線LANのあるスポットをよく使う。でも「使えます」と書いてあるところでも、有料だったり、制限があったりして、なかなか使いやすいとはいえない。
結果として、いつもPHSのデータカードを持っていないと使えないところが多く、無線LANのスポットも、決められたところで使うことになってしまう。この市場は各社ばらばらで、アクセスできる人と、そうでない人が別れてしまうのと、無料で開放しているところが非常に少ない、といことが普及の防げになっている。
公衆無線LANなんて、公衆電話と同じようにだれでもいつでも使えるものでないと意味がない。お金を取るときのビジネスモデルばかり気にしていないで、どうやったら、みんなに無制限で無料で開放できるかを考えて欲しい。そうでないと、インフラの稼働率が悪くなり、結果として誰も得しない、という状態になる可能性がある。
広告の常時表示による無料スポンサードを取るとか、そういう利用料の取り方をする、というのが一番良いと思うのだが。
投稿者 nori-m : 14:30 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月04日
遺伝子がわかると

実は、脳梗塞とか脳溢血で死ぬ、なんてことの原因の大半は、やっぱり遺伝によるところが多いらしい、ってことが最近はわかってきた。臨床医のレベルでは昔から「結局はそういうことだよね」ということでわかっていたことだけれど、それが最近は数字で出てくる。しっかりした根拠がでてきたんだな。
よく、「生活習慣病」と言うでしょ?だから、「その病気」はついつい「生活習慣の違い」が原因、と思われていること、多いよね。つまり生活習慣病になっちゃった人の生活習慣は、生活習慣病にならなかった人の生活習慣よりも、明らかに悪かったのだ、と、言われているようで、生活習慣病になった人は気分が悪い。
でも、最近の研究では、こういった「生活習慣病」には、遺伝で「なりやすい人」と「なりにくい人」ってのがいる、ってことがわかってきた。なんだ、生活習慣の良し悪しが原因じゃないのに「生活習慣病」なんて言うなよ、とは思いませんか?
それに、太る、ってのも遺伝子によって、どう太るか、とか、あるいは太るのかそうでないのか、ってのがわかるんだよね。だから、ダイエットしても無駄な人もいないわけじゃない。
むしろ、自分の持つ遺伝子がどんなものか、ってことがわかりかけてきたこの時点で、自分の持つ遺伝子が太りやすい因子を持っているのか?あるいはいないのか?病気を将来持つ可能性が高いのか?高くないのか?そういうことを自分でわかっておく、ってのは、大変に良いことなのかも知れない。
いま、アメリカでは医者抜きでそういった遺伝子を調べるサービスってのがある。そこに申し込むと、「キット」を送ってくれるので、それを使って頬の内側をなぞる。これで細胞が採取できるので、採取した細胞を会社に送り返す。すると、数週間後に、自分がどんな疾病になる可能性がどれだけあるか、というリスクファクターを調べ、それをネットで教えてくれる。値段は数万円。一番高い「なんでも詳しく調べます」というグレードのサービスで15万円くらいだ。
日本でもやがて医者抜きで、そういったサービスが盛んになる可能性も高い。おそらく、医療の世界も、ネットがこうやって変えていくのじゃないかな?と思う。
投稿者 nori-m : 20:39 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月03日
ダイエット市場のホンネ

この証言をしたのが誰とは言わないが、この前、仕事の必要があって、いろいろな方に「ダイエット市場」のことについて聞きまわった。そして、この「市場」もまた、実に面白い市場である、ということがわかった。簡単にまとめてみると、以下のようになる。
まず、ダイエットで成功する人はほんのわずかであって、多くの人は成功しない。たしかに、みんな成功していたら、どんどん市場が小さくなってしまう。
痩せることができなくても、恨まれてはいけない。成功しているダイエット業者は、みな、その客に対してかなり手厚いサポートをする。そのため、「ダイエットできなかったのは、業者のせいではなくて自分のせい」と思う。
日本のダイエットは「太っている人がするもの」ではなく「自分が太っていると思っている人がするもの」である。米国でダイエットが必要、って人は、ハンパじゃなく太っていて、要するにそれ自身が病気、と、明らかにわかる。そういう人向けに、米国のダイエットプログラムってのはあるわけなんだが、日本のそれは「私、太ってるって言われちゃうかも?」と、思っている人のためにある。本当にその人が太っているかどうか、また、太っていても、それが生存に害のあるほどのものであるかどうか、ということは別問題なんだな。
ダイエット産業、とは「痩せさせるためにあるもの」ではなく「痩せるという夢を売る」産業である。本当に痩せられては、商売の元も子もない。だから、期待させて、お金を取れればそれで十分、ということ。
この事業ではモデルが重要である。つまり、男が見向きもしないような女性に痩せてもらってモデルになってもらっても、なんの宣伝効果もないので、「この人、痩せるとちょっと可愛くなりそうだな」という人を狙って、その人に特にサポートを与えて、ダイエットを成功させ、宣伝用のモデルに使う、ということだそうです。でも、そういうサポートを相当しっかり与えた人でさえ、かなりの人が脱落するということです。
期待させ、お金を取るけれど、効果は二の次、ということから言えば、多くの人がハマる「お金持ちになれるかもしれない」「自分のお金が少々は増えるかも知れない」という期待をさせて、結局はあまり増えないか、損ばかり被る、でも、それだけじゃみんな逃げちゃうから、少々だけいい思いをさせて、あとは絞り取る、みたいな、市場とどこか似てる感じがします。
いま、先進国の大学の先生とかが大まじめに「ダイエット」について研究していて、すでに肥満の元や生活習慣病の重要な因子になるような遺伝子がみつかっています。これを操作できるようになると、いよいよ、今までのダイエット産業が実際に必要ない、というところまで、研究は進んできていますが、この研究が本当に短いあいだに劇的な成果を上げたとすると、ダイエット産業で今働いている人たちに恨まれるでしょうねぇ。あ、石投げないでくださいよー!
繰り返しますが、「ダイエット産業」はその効果を売っているのではなくて、「夢」を売っています。現実の科学が夢を壊す、というわけですね。そういえば、携帯電話もインターネットもかつては「夢」だったんだな。だとすると、ぼくらエンジニアのやっている仕事は「夢を実現する」のではなくて、「夢を本当に実現する」という至上の快感を独り占めしながら、「多くの人の夢を壊している」のかもしれないね。いや、罪作りな仕事を引き受けたもんだ。やめないけど。
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2005年04月02日
株の堅調なのは

株式市場は25年周期であがったり下がったりする。というのが「原則」と思っていると、これからはとんでもない目に会うかも知れない。というのは、これまではそうだったけれど、これからはそうではない、ということがあったり、あまり投資家が考えていない(考えたくもない)ファクタが、そういう周期とは別に、個々別々の場合に入ってくることがあるからだ。全体としてはたしかに25年周期かも知れないが、あなたの持っている株については別ですよ、ということです。
紺屋典子氏がいま、「朝まで生テレビ」で、「ホリエ氏のやっていることはねずみ講と同じで、株主をだましている」ということをはっきり言っているね。これが本当のところだろう。詐欺という罪には問われないものの、それに限りなく近い。これが普通のまともなエコノミストの言うことだろう。
「会社」と「株主」と「従業員」の関係もここで言われているけれど、要するに「敵対的買収」であろうがなんであろうが、「波風を立てるやつは(それが資本家であろうがなんであろうが)排除する」、という日本の不文律にひっかかることは、社員という「アリ」なんかも含めて、そういう「周り」が、よってたかって排除する。簡単に言えばそういうことだよ。いやま、ぼくも某blogから、「気に食わん」という理由だけでトラックバックごと削除されたことがあるけれどね(笑)。ぼくはコメントSPAMみたいなものでなければ、そういうことはまずしないけどさ。とてもじゃないが、そんな品のないことはできない。
「波風を立てない」やり方で、日本の企業を「買って」「経営権を握って」いる外資はたくさんある。でも、ホリエ氏は波風を立てた。それだけのことのように思うんだが。でも、この「これだけのこと」が、とても大きな意味を持つ。80年代、あれだけM&Aが騒がれた米国でさえ、今は「敵対的買収」が下火だ。それはうまくいかない、ということが当たり前になった、米国でもそうなんだな。だから、「望まれるところには資本を入れましょう」であり、「望まれていないところには資本を入れない」でなければならないわけなんだな。
考えてみれば当たり前のことなんだが、「お金」だけあれば、会社ができるわけではない。お金をいくら積んでも「この人と仕事をするのはいやだ」と言われる人もいる。「お金だけもらえればいいから、テキトーにやろう」といって、そういう人に言い寄るような人もいる。どちらにしても、この点に関しては問題が内在化するか、顕在化するか、だけの差だね。顕在化すればことはわかりやすいが、内在化すれば外からは見えにくくなる。ましてや証券会社とか投資家がこんなことは見えているわけがない。
つまり、会社ってのは資本家だけのものだ、と思うと大きな間違いなんだな。米国でいつか流行した言葉に「Winners take all(勝者がすべてを得る)」というのがある。つまり、その会社の資本を握った人間がすべてを握る、という意味だね。でも、本当にそうだろうか?人の心までそういうことができるんだろうか?世の中でお金で買えないもの、っていうものに対する認識が甘すぎていないか?会社はある意味「生活共同体」「ムラ社会」でもある。そういう側面を無視するわけにはいかない。お金だけで会社を見られると思うと、実は大きな間違いなんだが、みんな「そんなことわかってるよ」とは言うものの、お金を出す側に回ったとたん、思考回路がちがってしまうことも多いよね。これは、実際の投資家と投資される企業の間に、余計な中間搾取を目的とした会社なんかが入るからだし、それが制度化されているから、実態が見えなくなるような仕組みになっているんだね。
「株」とか「投資」を考えるとき、会社の情報を自分の目で確かめて取ってくる人ってのはまずいない。通常は証券会社がそういう情報を投資家に持っていく。その途中でウソがあっても、脚色があっても、そのごまかしが投資家にわかるはずがない。「私たちは正直な証券会社です」って?誰がそれを保証するの?いままでさんざん投資家はだまされてきたじゃないか。
いいかな?、「株」で投資をしている、という人は、「本物の会社を丸ごと知っているわけではない」「(第三者である)証券会社にだまされているかもしれない」というリスクを、誰もがいつも抱えつつ、投資をせざるを得ないのだ、ということだね。これは「制度としての投資への中間搾取」がある以上、投資というものの必要悪だろう。
本来あるべき投資の姿ってのは、実は証券会社のような第三者を通さず、会社と会社を直接知る投資家がつながる仕組みを作ることなんだろうと思う。投資家のキャパシティが大きければ、複数の会社を見ることもできるだろう。そうでない場合は、ひとつの親しい会社だけ相手にすればいい。そういう意味で、「ネット」が証券会社をつぶす、というくらいにならないと、本当の意味での株式市場はできないのじゃないか?おそらく、ネットが投資の業界でやるべきことは、これから、そういうことになるだろう。
だとしたら、いま、会社は証券会社のようなところに頼るのではなく、自分の会社の中に「社債部門」みたいなものを作って、会社の資金調達はここでのみ、個人投資家のみを相手にして行う、というやり方が主流になるべきなんだと思うな。ネットが昔に戻すんだね。株の世界の「直接選挙制」とでも言おうかな?今なら、ネットがそれを可能にする。
この業界の「雄」で、ライブドアという会社が本当にあるのであれば、こういう会社の作り方をするべきなんじゃないかな?もう、証券市場も、株式市場も、実はそういうかたちで作り直すべきもののように思うのだが。ネットの時代というのは、本当はそういうことなんじゃないかな?もっとも、劇的にそちらのほうに変わる、というより、だんだんとそうなるだろうとは思うけれども。
いずれにしても、この「朝まで生テレビ」で話している「小飼弾」氏というプログラマーくんは、世間知らずの典型。単なるひっかき回し役になってるね。番組がこの人のために面白くなくなってるだけじゃなく、「プログラマってこういう人種かい」と、周りに認識されてしまう、という意味で、彼はこんなところに出てこないほうがよかった。日本のすべてのまともなプログラマのために。やっぱり板倉氏のほうがよっぽどまともだ。
人間って、みんな間違える。100%正しい人なんてどこにもいない。それを前提に話をする、ってことが必要なんだろうね。
いま、堀紘一氏が「いま、投資ではITじゃなくてバイオがバブルなんですよね」って言ってるけど、その通りだね。IT企業への投資なんてのは、ライブドアや楽天に限らず、できてもやめたほうがいいね。今は。でもバイオがいい、って言っても、いま、ぼくがバイオの中にいるからわかるんだが、これも投資して儲かる企業はとても少ないことだけは覚えておこうね。要するに今の投資家のほとんどは証券会社にむしりとられて、終わる。間違いない。それだけなんだな。いい話には気をつけよう。
投稿者 nori-m : 02:28 | コメント (4) | トラックバック
2005年04月01日
最近の観光地

最近、日本の観光地には中国人がとても多い。次に韓国人が多い。集団で行動していて、結構目立つ。ときには、大声であたりかまわずしゃべるし、集団でいると、ちょっと威圧感がある。なんであいつら、集団でいるんだよ、みたいに思う人も多いと思う。でも、昔の日本人も、おなじことしてたんだよね。
中国もかなりの経済成長を遂げてきて、人々はみな家族での娯楽の1つを、旅行などに求めるようになったんだね。韓国は、日本と仲良くしているのか、喧嘩しているのかよくわからなくなってるけれど、日本も韓国もお互いに経済的に頼っているところがあって、それは韓国のほうがより多く頼っているから、あまり喧嘩できる状態じゃないと思うんだけれど。
中国もそろそろこの6月ごろに、元の切り上げか、あるいは実質的な切り上げをしなければならない場面になってきたと言われている。日本も韓国も、その景気回復は中国の経済成長に頼るところがとても大きかったから、これが減速することになると、実は大変なことが起きる可能性がある。中国の景気の減速をするのであれば、いかにそれをソフトに行うか、ということがとても大切なことになる。
日本にあふれる中国人観光客は、いつまでこんなにたくさん来てくれるのだろうか?
彼らを見ながら、ぼくはそんなことを思っていた。
投稿者 nori-m : 23:30 | コメント (4) | トラックバック
「中二病」

どうも「中二病」というやつが流行しているらしい。
正確に言えば、「中二病」という「ことば」が流行している、というわけだ。で、その意味は、ここでは解説しない、上記のリンクを見ていただければ、と思う。
とにかく、いろいろな人がいるようだが、別に中二病であろうとなかろうと、言ってることがそれなりに筋が通っていればいいんじゃないかな、とは思うんだね。ぼくはこの言葉の内容がどうか、ということよりも、この言葉がなぜ流行するのか、それもネットで、というところに、あまり明るい感じが見えない、ってところにあまりいい気持ちがしない。
むかし、「差別用語」ではなくて「差別語」だ、という議論があったのを思い出す。つまり、人を差別するために、なにかにたとえて発せられるそのことばは、たとえられたものや人を「疑うべき前提のありえない、自然」として、再度押さえなおす、という意味だ。ちょっとわかりにくいかも知れないが、要するに、「あいつはカタワだ」と言うとき、たとえに引き出された「カタワ」は、疑うべき前提のありえない「真の負性を持ったもの」とされてしまう、ということだね。
今話題のいろいろなことにあわせてたとえてみよう。
ここにすごくゴーマンなやつがいたとする。そいつをののしるとき、
「おまえはホリエみたいなやつだな!」
と言って、ののしるとする。
ののしられたほうは、もちろん怒ると思うが(人によっては怒らないかも知れないが)、それと同時に、
「ホリエというのは疑うべくもなく、ゴーマンなやつだ」という「前提」が、押さえなおされ、より深い社会的な傷を、「相手にも」「ホリエにも」与える、ということだ。
この意味でいえば「中二病」ということばは、「中学2年生」という、おそらく日本国民のほとんどが通過したであろうその場所を「おとしめて」いる。「ぼくも昔はそんなだったよ、あはは」みたいな、自嘲とも取れる笑みがその後ろから聞こえる。つまり、「おまえは(自分から見れば)子供みたいなことを言っている」と言うべきところを、「おまえは(誰も疑うべくもない)子供みたいなことを言っている」に、変えてしまう。
自分の主観を他人に押し付け、自分の意見に人を誘導しようとするとき、こういう「キーワード」を使った手法が使われることがある、ってことだね。覚えておこう。
投稿者 nori-m : 11:24 | コメント (2) | トラックバック
人は変わる

人はみんな変化していく。昨日まではこういう性格だった人が、明日にはなんらかの経験をして、違う性格の人に変わっていく。マスコミに登場する人たちだって同じだ。
しかし、人間って横着な生き物だから、自分は変わって行くのに、他人の変わって行くことはなかなか認めたくなかったりする。自分の周りの世界が変化して壊れていくかもしれない、という不安定な感覚がいやなのかも知れない。
変化とそれによって起きる突然の自分の周りの世界の崩壊に耐えられないのは、だれも同じだね。でも、そういう変化を楽しめるかどうか?自分も含めた大きな変化の波に自分の身をゆだねて、その人生を楽しめるかどうか?いや、なかなかできないことだね。