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2005年03月28日

「地球博」伸びない入場者

嵐山天竜寺1.jpg

始まって最初の週末の「愛・地球博」の入場者数が、予定の半分、と、あまりふるわなかったそうだ。そういうことは、ありあえるだろうな、と、実はあちこちでささやかれていた。

先日、東京の家電量販店でちょっとした買い物をしたら、「愛・地球博のチケットがあたります」というキャンペーンをやっていた。もらっても、ぼくはきっと行かないだろうな、と思ったので「あ、いりません」と、応募用紙を返した。

いま、ぼくらの周りを見渡して見える風景はどうだろう?「万国博覧会」なんて珍しくもない。ぼくらが小学生の頃は、「科学技術の発達」(「科学」と「技術」を、単純につなげた、浅はかな認識を絵に描いた-そして、それが人間の役に立つものだけを見ているようなこの言い方は大嫌いだが)に、かなりの希望が渦巻いていた。その科学と技術を人間の役に立たせる、ということのために「産業」があって、それもいい感じだった。

でも、いまやコンピュータは当たり前にどこにでもあり、駅の切符の自動販売機にもコンピュータが使われている、なんて常識中の常識になった。科学とか技術で戦争をすることだって普通。産業には公害がつきものであり、よく効く薬ほど、副作用が強い。ポジティブなイメージばかりがこれらの古色蒼然としたキーワードについているわけではない、ということを、みんな十分すぎるほど知った。新しくてすばらしいものができると、「じゃ、悪いところはどこ?」と、必ず質問が飛ぶ。そういうように思考回路ができている。ぼくはこれが当たり前のことだと思うのだけれどね。決してひねくれ者や天邪鬼、というわけじゃない。

さらに、消費者も賢くなった。財布の紐も不況で固くなっている。だまされまい、と構えることも多くなってきたし、なによりもテーマパークの新しいのができたからといって、すぐに行くよりは、後ですいてから行きたい、というように変わってきた。単純に前に進めばなんとかなる、というような時代でもなくなった。押すだけではなく、引くことをみんな覚えてきている。

ぼくみたいに、「愛・地球博?なにそれ?おいしいの?」 みたいな人も多くなってきた。

誰かが言ったことを鵜呑みにせず、みんなが進む方向に自分も行かないと落ち着かない、という世の中でもなくなった。人の「賑わい」を作るものが、見出せなくなった時代が今なんだね。みんな、他人と共有するデカイものよりも、小さな自分だけのものを欲しがる。この時代の変化が、賑わいを作っていこうとしている人たちの足を引っ張る。

じゃ、賑わいってものはいまどう作っていったらいいのか?いや、もうそれはやめよう。賑わいを作り出さないと商売にならない、なんて、商売は、先細りだ。これからは賑わいを解体し「個をいかに生かすか(生かしているように見せるか)」という、新しいイベント屋の時代なんじゃないかな?きっと、ぼくみたいな「ネット屋」は、そういうところにこそ、自分の仕事がある、と、最近は思う。

「マーケティング」などというキーワードで大衆の消費動向をごっそりとつかみ出せる時代は終わった。さようなら。マーケティング屋さん。

投稿者 nori-m : 2005年03月28日 07:31

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コメント

真鍋博? が描くイラストの世界が本当に実現すると少年の頃の私は思ってたんですよね。だけどバイオというようなものはさすがになかったような。

投稿者 めぎや : 2005年03月28日 13:04

バイオって、日本語にすれば生物学。いまでも、動物や昆虫の行動学なんかもその範疇に入りますよね。バイオが今のように語られるようになったのは、「DNAのらせん構造」の発見からなんですよね。そこから、「分子生物学」が公に認知されてきた。でも、バイオというと、すぐにフランケンシュタインみたいになってくるから、なかなか「科学」とか「技術」ってことばにマッチしない、ってことはあるでしょうね。

投稿者 nori-m : 2005年03月28日 22:29