« 2005年02月 | メイン | 2005年04月 »

2005年03月31日

風邪をひく

PICT4247.jpg

風邪を引いた。食欲がない.....

調子よくないので、今日はこれだけ。

投稿者 nori-m : 01:23 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月30日

みーんなパソコン

sakura3.jpg

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。

 銀行のATMの中には、パソコンが入っている。そして、そのパソコンのOSには、Windowsが入っている。Windowsではないものも、ある。でも「普通の」パソコンである以上、ウィルスなどの「脅威」に晒されることがある。


 実際、米国でそのような事件があり、ATMで現金が引き出せなくなった。もちろん、ATMは私たちが直接触る、PCでできるオンラインバンキングに比べて、まだまだこういった事故への対策はよくできているほうだ。それでも、こういうことが起こる。

 銀行のATMばかりではなく、キャッシュレジスターなども、もはや専用品を使うのはコスト高になるため、中身は汎用品のPCを使って、外側だけPCではない、という格好をさせたものにする。

 家電品も例外ではない。たとえば、ビデオHDDレコーダなどはPCそのものだ。昨年、日本でも某社の製品であるHDDレコーダがハッカーに「乗っ取られ」てしまい、そこから大量の迷惑メールが発信された、という事件も起きた。そのビデオHDDレコーダは、ネットに接続され、外部から携帯電話などでアクセスして操作を行える、ということが売り物の機種だった。

 あなたのお家の冷蔵庫が、知らないうちに温度が変えられていて、中のものが腐ったりした、なんてことありませんか? あるいは、お風呂を沸かしたはずが、沸いていなかった、とか。

投稿者 nori-m : 22:37 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月29日

名前がダサいのではないか

竹芝桟橋.jpg

今日まで、松下が同社のノートPC「Let's Note」の新フューチャーについてトラックバックを募集しているようなので、ここにも書いておきます。

もう、ノートPCのスペックは行き着くところまで行った、という感じがします。特に松下のものは、私も大変に満足して使っています。

ちなみに、2004年の1月になりますが、ここにもご紹介しました。

でも、この製品の一番の問題はこの「Let's Note」という、時代がかった、ダサダサの名前ではないか、と最近は思うようになりました。スペックでなくデザイン、ということでいえば、もうちょと薄いほうがいい、とかいろいろと言うことはありますけれど、いまどき「レッツ」ですよ。「ガッツ石松」じゃあるまいし、いまどき「レッツ」とか「ガッツ」なんてのは、バブル時代を思わせる死語そのものじゃないかな、と思うのですが。個人的には。もっと、かっこいい、持っていて背筋がしゃきっとするような、それでいておしゃれなネーミングはないかなぁ?

そういう意味では、SONYのVAIOなんて、すごくうまい。デザインやネーミングの勝利、という感じがします。使ってみると、あきらかに故障が多いし、電池持たないし、重い。スペック的にはどうしても松下に軍配が上がるのに、「ネーミングの泥臭さ」とか「デザインの悪さ」が、点数を下げているように思います。たとえば、松下の携帯電話と同じデザインコンセプトにする、とか、そういうやりかたもあると思うんだな。

たとえば、PCのトレードショウで、VIAOをコンパニオンのお姉さんが持つと、これがサマになる。でも、CF-W2とかのあのデザインと色だと、これがしっくりこない。

軽さ、電池の持ち、耐衝撃性、100gを切るDVD-ROMドライブ内蔵とか、スペックとしては基本をしっかり抑えた非常に良いノートPCなんだから、ここでネーミングとデザインに力を入れることで、SONYを追い越せる可能性だってあると思うのですけれど。

投稿者 nori-m : 11:40 | コメント (0) | トラックバック

歴史はGoogleが作る

IMG_2968.jpg

ついこの前のことだが、そこそこ名前の売れたPC関係のライターの方とお話をした。年齢は私より一回り下だ。そして、話題はPCの歴史みたいなことに及ぶようになった。

そのときの会話でこんなのがあった。

「ということで、PCの最初にはApple社のAppleIIってのがかなり流行したんだよね。日本だとセットでそろえると100万円くらいしたんだよ」
「へぇー、そうなんですか。で、そのとき、IBMはどんなPCを作っていたんでしょうか?」

いや、正直申し上げて、私はちょっとですけど、絶句したね。

PCの世界の大衆への広がりは、もともとAppleが作った。その後、それを見てIBMが「IBM-PC XT」というマシンを持って参入してきた。つまり、AppleII(アップル・ツーと読むんですよ)以前には、IBMはPCなど作っていなかったのだ。

この歴史は知っている人にとってはまるで当たり前のことなんだが、たしかに、最近のPC系のジャーナリストを見ると、Googleの検索結果にひっかかってこないものは、歴史にも存在しなかった、と思っているんじゃないかな?というようなところが垣間見えるところが、なんともびっくりもし、また「ゾッ」ともした。歴史は結局選択され、公式に認知されないと歴史にはならない、と言った人がいるけれど、今は、

Googleで検索できないものは歴史に存在しない

なんていうことになっているような気がする。人に対して議論を吹っかけるとき、反論をするときにGoogleの検索結果のURLを示して「ほら、この通り」とやる。他人のふんどしでの相撲取りなんだが、まぁ、それは良しとしよう。問題なのはこの検索結果にひっかからない事象について議論しているとき「Googleにひっかからないんだから、そんなものあるわけがない」という言い方をする人がいる、ってことだ。

いやね、君の知らないことなんて、世の中にたくさんあるよ。ぼくは君よりほんのちょっとだけ、モノを知っている量が違うかも知れないけど、それだけのことだよ。そして、その知識の量はぼくが生きている時間に比例していて、かつ、その経験の途中でインターネットとかGoogleなんてものが現れた、ってことに過ぎない。でね、Googleに載らないものだって、ある、ってことは、ぼくの知識にはあるんだが、君には無いみたいだね。だから、Google以前の歴史がすべてなかったことになっちゃう、ってのは違うんじゃないかな?

ぼくはことあるごとに、そういうことを言う機会が増えたことに、正直のところ、ちょっとだけだけれど恐怖している。どんなに科学が進歩しても、ぼくらにはまだわからないことがたくさんあり、従って調べてもわからないことがあり、人間なんて自然の中ではその程度の存在なのだ、ということくらい、学校で教えてくれないかな、と思うのだ。ソクラテスの「無知の知」ってのは、こんな時代にこそ、必要なものなんじゃないかな?

でね、繰り返しになるけれど、結論はこうだ。

歴史とはGoogleのデータベースに入ってるもののことである。

投稿者 nori-m : 00:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月28日

「地球博」伸びない入場者

嵐山天竜寺1.jpg

始まって最初の週末の「愛・地球博」の入場者数が、予定の半分、と、あまりふるわなかったそうだ。そういうことは、ありあえるだろうな、と、実はあちこちでささやかれていた。

先日、東京の家電量販店でちょっとした買い物をしたら、「愛・地球博のチケットがあたります」というキャンペーンをやっていた。もらっても、ぼくはきっと行かないだろうな、と思ったので「あ、いりません」と、応募用紙を返した。

いま、ぼくらの周りを見渡して見える風景はどうだろう?「万国博覧会」なんて珍しくもない。ぼくらが小学生の頃は、「科学技術の発達」(「科学」と「技術」を、単純につなげた、浅はかな認識を絵に描いた-そして、それが人間の役に立つものだけを見ているようなこの言い方は大嫌いだが)に、かなりの希望が渦巻いていた。その科学と技術を人間の役に立たせる、ということのために「産業」があって、それもいい感じだった。

でも、いまやコンピュータは当たり前にどこにでもあり、駅の切符の自動販売機にもコンピュータが使われている、なんて常識中の常識になった。科学とか技術で戦争をすることだって普通。産業には公害がつきものであり、よく効く薬ほど、副作用が強い。ポジティブなイメージばかりがこれらの古色蒼然としたキーワードについているわけではない、ということを、みんな十分すぎるほど知った。新しくてすばらしいものができると、「じゃ、悪いところはどこ?」と、必ず質問が飛ぶ。そういうように思考回路ができている。ぼくはこれが当たり前のことだと思うのだけれどね。決してひねくれ者や天邪鬼、というわけじゃない。

さらに、消費者も賢くなった。財布の紐も不況で固くなっている。だまされまい、と構えることも多くなってきたし、なによりもテーマパークの新しいのができたからといって、すぐに行くよりは、後ですいてから行きたい、というように変わってきた。単純に前に進めばなんとかなる、というような時代でもなくなった。押すだけではなく、引くことをみんな覚えてきている。

ぼくみたいに、「愛・地球博?なにそれ?おいしいの?」 みたいな人も多くなってきた。

誰かが言ったことを鵜呑みにせず、みんなが進む方向に自分も行かないと落ち着かない、という世の中でもなくなった。人の「賑わい」を作るものが、見出せなくなった時代が今なんだね。みんな、他人と共有するデカイものよりも、小さな自分だけのものを欲しがる。この時代の変化が、賑わいを作っていこうとしている人たちの足を引っ張る。

じゃ、賑わいってものはいまどう作っていったらいいのか?いや、もうそれはやめよう。賑わいを作り出さないと商売にならない、なんて、商売は、先細りだ。これからは賑わいを解体し「個をいかに生かすか(生かしているように見せるか)」という、新しいイベント屋の時代なんじゃないかな?きっと、ぼくみたいな「ネット屋」は、そういうところにこそ、自分の仕事がある、と、最近は思う。

「マーケティング」などというキーワードで大衆の消費動向をごっそりとつかみ出せる時代は終わった。さようなら。マーケティング屋さん。

投稿者 nori-m : 07:31 | コメント (2) | トラックバック

2005年03月27日

アメリカン・ドリーム

嵐山天龍寺3.jpg

あのときは時代の雰囲気というのかな、それに勢いがあった。アメリカは遠く、行くのは大変だった。仕事で行く、遊びで行く。コンピュータを仕事にしたぼくはアメリカに行きたくてしかたなかった。

でも、今はどうだろう?一昨年に続き、昨年もまたアメリカに行ったけれど、昔とは感じが違った。なにもかもが理想だったあの国が、いまはそう見えない。自分が年取ったからかな?と思うけれど、そうではないようだ。あの国についての知識も増えたけれど、それはぼくだけじゃない。みんながインターネットの発達でその国を直接知ることができるようになったから?でもない。

自由でもなければ豊かでもなくなったアメリカは、やはり魅力が半減した。いま、アメリカは求心力を失い、しばらくしたらドルも基軸通貨ではなくなる可能性が高い、という。

ぼくらが1960年代に夢見たアメリカは、もうない。1980年代から1990年代にかけてさんざん遊びつくしたあの国の文化は、もうない。それはそれで悪いことではないのかも知れないが、やはりさびしいものを感じる。しかし、この時代の流れは止められないものなんだろうね。

そういえば、ここ3年くらいだろうか?「アメリカン・ドリーム」ということばをあまり聴いていないような気がする。

投稿者 nori-m : 00:40 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月26日

いつの時代でも

嵐山天龍寺7.jpg

いま、関西での仕事が多くなってきているので、時間があると京都に寄ったりする。京都は結局「昔の東京」なんだよね。都会。雑多なものが、雑多にただ集まっている。

都会にいないと、仕事にならない。大阪にいても、人とのつながりが、ある一定以上は広がらない。いや、広がるスピードが遅い。限られた人生の時間のなかで、なにごとかを成し遂げようというのであれば、東京と地方の差は歴然だ。逆に、なにか成し遂げよう、なんて考えていないのであれば、別に東京にこだわる必要はない。

やはり東京はすごいところだ、と、最近は感じている。

投稿者 nori-m : 09:03 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月25日

ご登場!

PICT8632.jpg

出てきましたね。ライブドアとフジのこの戦争に、あのソフトバンク・インベストメントの北尾氏が。この人とそのチームは、ITバブルのころ、赤字会社だったソフトバンクを、いっきに東証一部上場会社にした、野村證券出身の「やり手」たちだ。あのとき、あの会社の業績そのものはもともといいものじゃなかったし、社員の質もそんなに良くなかったのに、なんで?とぼくらは首をひねったものだった。でも、あれが「ファイナンス」というものの力なんだね。

しかも、今回は「記者会見なんてやりたくなかったんだけれどね」なんて言いつつ、満面の笑みをうかべてた北尾氏。「してやったり」というあの笑顔。

それでいて「株の貸借」だけを前面に出しての勝負はしない。最初はもちろん「株の貸借」という話だけから始まったのだろうが、当然、それだけで裁判所含め、すべてを納得させられるわけがない。少しでもライブドアの入る隙を与えないために、「ベンチャー企業向けのファンドの設立」という大義名分をくっつけて、「こっちがメインだ」と主張する、というあたり、まさに「狸オヤジ」の面目躍如だ。おそらく、「株の貸借の話だけすると、後で問題が起きる可能性がある」と踏んだ、北尾氏側の入れ知恵だろうとぼくは思うけれど、真相はもちろんわからない。

北尾氏とそのチームと、ライブドアのチームの実力差ってのは、ほとんど親と子くらい違う。子は親を超えられるか、ってな話だが、今回は無理だろう。もちろん、北尾氏はライブドアの出方を読みきったうえ、さらに次の手を考えているに違いない。

この前の楽天、ソフトバンクの球団のときの話といい、今回の話といい、ライブドアはいいだけむしられている、という感じがする。自分で借金までして作ったその巨額な金を、すべてこういう連中に取り上げられる。そんな感じがする。

ところで、2000年にライブドアの後ろ盾みたいに言われているリーマンブラザースは、ソフトバンクと合弁で「イー・ボンド証券」を立ち上げている。そして、それから1年後、すぐにこの会社は清算されている。清算にいたる原因は「参加証券会社が少なかったため」と説明されている。

「大人の解決方法ってのがあるな」なんて言うってことは、ライブドアのやりかたが「子供だ」とそのまま言ってるようなものだ。でもそれはその通りなんだから、ライブドアも反論はできないだろう。楽天も、またソフトバンクも、結局はその中身を見れば、ライブドアを支持していた多くの「現状破壊を望む」人たちの考え方とは相容れない「旧勢力」そのものだ。

それがいいことと映るか、悪いことと映るか、ってのは、きっとその人のいる立場によって違うんだろう。でも、なにが終わって、なにが始まったか、ってのは、誰の目にも一目瞭然だ。

日本でこれだけの規模での「敵対的企業買収」ってのは、今までなかった。面白い見世物を見せてもらったね。本当に面白かったよ。事業エンターティナーの矢吹ジョーくん、じゃなかった、堀江くん。ありがとう。え?真っ白じゃなくって、真っ青になってる?って? 失礼しました。

投稿者 nori-m : 11:33 | コメント (4) | トラックバック

2005年03月24日

高校での乱射事件

PICT9206.jpg


米国の話だ。ミネソタ州レッドレーク高校で高校生が銃を乱射。5人が死亡し、7人が負傷した。多くの生徒、教師を殺した。1999年4月、コロラド州のコロンバイン高校で、同じような高校生による乱射事件が起こった。このときの死者は本人たちを含め13人。いずれも、犯人である高校生は、「笑いを浮かべながら」射殺を「楽しんで」いた、という。

また、どちらの犯人たちも、ナチスを礼賛するサイトへ頻繁に出入りしていた、という。

自己とその家族を守るため、という大義名分のもと、簡単に銃が手に入る社会は問題だ。しかし、日本でも同じことがなかっただろうか?銃が高校生の手に簡単に入ることがない日本では、銃以外の方法が使われただけ、とは言えないだろうか?

「酒鬼薔薇」の事件、池田小学校の事件。まだまだあるじゃないか。高校生地震が起こした事件ではなくとも、同じようなことが、日本にもある。

こんな事件を見聞きすると、医療だとか、バイオだとか、そういう仕事の意味が全く失われる、と感じてしまう。でも、そういう社会に、ぼくらは住んでいて、その方向に向かって、まだまだ突っ走っているこの社会のありようが、なんとも言えない無力感を、ぼくらに与える。

なにかできることはないものか? まじめに、正面から考えなければならないときが、やはり来ているように、ぼくは感じている。

投稿者 nori-m : 19:19 | コメント (0) | トラックバック

「最先端」の大間違い

横須賀の鳥.jpg

テレビとかでITの話題が出てくると、必ず「最先端のIT技術」みたいな冠がつくよね。でも、それウソです。もうITは最先端でもなんでもないです。「最先端」と言っておいて、「IT」という産業の格を上げておかないと、都合の悪い人たちがそうしているだけなんだよね。

それが本当に最先端なのか?あるいはそうでないのか?そういうことはごく近くで仕事をしているぼくらはよくわかる。たとえば、某外資系のPCメーカーでは必ず「最先端の技術を使った云々」という冠が必ずつく。そして、「その最先端技術がこんな低価格でご提供できます」って、いうような広告とかプレスリリースを打つ。

でも、本当にそれが最先端(外資系だから、英語でLeading Edge,だね)なのかどうか、ということについては、みんなわかっていない。そのメーカーの本当の強みは中身が最先端かどうか、ではなく、その「安さ」にある。その安さを作っているのは、実は物流の強さであって、決してハイテクなものじゃない。つまり、PCの設計をするとき、まずそれを入れる「箱」の大きさを設計して、それからPC本体の大きさを決め、そのPC本体の大きさに従って、中身を作る。そうすると、物流の過程で使われる搬送のためのトラックの荷台を隙間なく目一杯使えて、無駄のない物流が可能になる。これで輸送コストを削減して、PCの価格に反映させる。ほら、最先端でもハイテクでもなんでもない。でも、すばらしいやりかただ、ってのはよくわかるだろう。

いまや、PCもインターネットも使っていない人はまずいないだろう。特にホワイトカラーの仕事では必需品となった。だから、中身の部品の一部にハイテクが必要であっても、その全部がハイテク、というわけじゃない。

そして、もう1つ忘れてならないのは、「最先端=高付加価値」というのは幻想だ、ということだ。つまり、最先端だから、みんなたくさんお金を出してくれる。だから、高付加価値になる、なんていまどき、だれも信じてないよね。ヨドバシカメラとかCircuit Cityがこんなにたくさんあるこの世界に、あんたいったいなにいってんの、という感じだ。

本当のことを言えば「最先端」は決して一般人の目の前に出てこない。そして、出てきたとしても、それが最先端であるかどうか、一般人は判断できない。インターネットのときがどそうだったよ。1980年代の中盤に、ぼくらがはじめてインターネットを使うことをはじめたとき、それを技術者ではない普通の人に見せたときの反応がそうだった。「なんでこんなことして面白いの?」という反応ばっかりで、ぼくらは「ムダなことをしているバカ」と思われたもの。

でも、今、インターネットをあの時代から使っていたんですよ、と言うとみんな「へぇー」を3つか4つは押してくれる。あの当時はぼくらは「ヲタク」と呼ばれて、バカの集まりと思われていたんだから。「こんなことしていたら女にもてない」なんて言われたりもした。でも、インターネットが国境やいろいろな階層の人たちのあいだにある、「なにか」を壊していくだろう、ってことは予感できた。だから、この道を進んだ。当時は「これがこんな世の中を作るはずです」といっても、誰もこちらを向いてくれなかった。「そんなバカなこと」と言われるだけだった。技術者がそんな革命みたいなこと、できるわけがない、なんて、みんなそう思っていたんだね。

しかし、ずいぶん短いあいだに、世の中は変わった。それはみんなが見てきたとおりだ。

そして、ぼくはいま、あのころのことを思い出しつつ、今の「新しい仕事」に専念している。だれも理解してくれなかった、でも希望に満ちた日々を思い出しながら。ああ、あのときもそうだったよなぁ、と自分に向かってつぶやきながら。

面白い世の中、一緒に作りませんか?でも、それって孤独な作業だし、女にゃもてないし、本当にそうなるかどうかの保証なんてもちろんないから、自分の確信だけが頼りだし、いやぁ、あまり人にはおすすめできる生き方じゃない。でも夢のない人生を送るよりは、面白いかも知れないよ。

投稿者 nori-m : 16:58 | コメント (5) | トラックバック

SNSとBlog

IMG_2943.jpg

最近ネット上の話題、それもかなり大きく成長している(してしまった?)ところといえばSNS(ソーシャル・ネットワーキング)とBlog(ブログ)ということになる。

面白いのは、どちらも技術的に最先端というものではなく、むしろハイテクではない、「人のつながり」を中心に物事を考えているシステムだ、というところだ。実際、技術的なものでの最先端、ってのは大衆化していないものだからこそ最先端なのだし、これはうなずける。

技術のみにスポットを当てて、あえていえば、Blogは個人用の定型化されたホームページ作成ツールに過ぎない。そして、SNSに到っては、全く技術的な面白さはなく、「人をどうやって集めるか」というノウハウにこそ、その中心がある。

自動車などと同じように、大衆化された部分にはもちろん本物のハイテクは見えないようになっている。利用する人が「自分も作る」などと言い出しては商売が上がったりだからだ。実際、シロウトにはインターネットは利用はできても、その仕組みを作ることはできないように、ちゃんとハードルが作ってある。だから専門家のいる場所がある。

面白いことに、SNSとBlogには、そういう意味で「技術ではなく人」という共通点がある。

さらに面白いことに、この2つには、もう1つ共通点がある。儲からない、ということだ。

インターネットそのものが、もともと遠隔地同士の人と人とのつながりをいかに低いコストで行うか、ということを考えて作られたものだから、儲からない、ってのは、しょうがないんじゃないかなぁ。みんな「インターネットで儲ける」とか「高付加価値」とかいうけれど、ベースになっているインターネットそのものが、もともと「安い」ことを売りものにした技術だったんですよね。

だから、インターネットについては、それが最先端のものに近くなればなるほど、高付加価値ではなくなってくる。安くなる。だから、それを知っていて、最初にやって、世間に広まる前のほんの一瞬だけ、高付加価値の瞬間がわずかに訪れる。だから、ネット上の商売のアイデアとかいうものは、儲けたら、すぐにそのマーケットから手を引かないと、商売としてはとんでもないことになる。そういうものなんだね。だから、すばやいレスポンスでビジネスをくるくると変えていかなければならない。スピードが必要になる。簡単に言えば、最初にやったやつが、最初だけ儲けるけれど、みんなそれを知っていくにつれて、すぐに儲からなくなる、ってことだ。

つまり、商社と同じで、情報格差=利益、となるんだな。で、情報格差がなくなったとき、高付加価値ではなくなる。商社ってのは「地域」ごとにある情報格差を利益に変換したけれど、ネット企業は時間軸上にある情報格差を使っているから、時間の流れを追うことやそれをリードしていくことが大事なんだよ。

BlogもSNSも、いま、その「情報格差」ができる時代じゃなくなったように思える。

いま、このSNSとBlogのいちばんいいときに、これらの事業をやめて、さらに新しいことに挑まないと、商売としては泥沼に入るように思う。

「私たち、バカじゃないからやめるんです」っていうあのキャンディーズの舞台で言った一言は、本当はネットで仕事をするぼくたちにこそ、必要なことばだったんじゃないだろうか?

投稿者 nori-m : 15:28 | コメント (1) | トラックバック

2005年03月23日

さてと....面白いねぇ

きりぎりす.jpg

写真は全く反対の季節のものにしたんだよね。なぜかわかるかな?

ほら、堀江氏は今日の記者会見で「いまいる人たちとうまくやっていきたい」とか、あるいは、自分たちはラジオなんてまるでわからないので、とか言ったね。面白いなぁ。今日、法の判断として、ライブドアの敵対的買収のやり方は違法ではない、という判断が出た。これ自身は、日本の法曹界というものの健全さを感じさせる。

で、テレビで見る亀淵ニッポン放送社長の顔が、いよいよ、本当に真剣味を帯びてきた。殴られたのなら、殴り返してやろうじゃないか、というあのまなざし。彼は彼の持つちからをすべて利用して、「敵」と戦うだろう。自らの身をほろぼしても。見る側から言えば、いよいよこのプロレスが面白い局面に入ってきたことをうかがわせる。

対する堀江氏はいかがか?どちらかと言うと、背負ってしまった責任の大きさにどこかたじろいている感じが30%くらいあるね。たしかに、大きなお金を扱う以上、それなりの責任が生じる。株主だからといって、安穏とできない。これで経営にクチを出して、その経営がうまくいかなかったらどうなるか。ましてや、自分の経験のまるでない業界だ。そういう「恐れ」を感じる。

自分で大きな、他人の生活まで責任を負ったことの無い人はそれを肌ではわからないだろうが、ぼくはそういう感じを持ったよ。

どちらも真剣勝負のラウンドに入った。

しかしだな、そういう派手な報道の陰に隠れて、国会はとんでもない状態になってる。この議論百出のはずの予算案がすんなりと通ってしまった。テレビ局なんてあまたあるから、どれかひとつがおかしくなったとしても、どうってことはない。しかし、今回国会を通ったいろいろな案件は、実は日本の国民にとって大変に重要な意味を持つものばかりだ。

そうそう、亀淵社長に面白くて、そして簡単にできる対応策を1つ教えてあげよう。

株主総会直前に「放送免許」をみんな破棄して、返還して放送を停波してしまうのだ。そして、それを起こす前に、放送関連エンジニアを、みな退職させてしまう。

これを取り直すのは、相当の面倒を伴うよ。抵抗するのであれば、そういう手もある。

「敵対的買収」を行ったその直後、「一緒にやりましょう」って、あなた、人を殴っておいて、その後で「仲良くしましょう」っていうのと同じでしょう?それがどこまで受け入れられるか?本人が一番よく知っていると思うけれど、自己中心的な人には、やっぱりわからないのかな?いや、そうじゃなくて、きっと彼はそういうところにはまり込んだのだろうね。そしてそこから抜けられなくなった。

欧米の「敵対的買収」は、一時かなり流行した。で、うまくいった例よりも、その後うまくいかない例が多かった。

いずれ、日本の社会や産業界のほとんどが彼の敵に回ったとき、どういうことが起こるか。いまからじっくりとこの目で見ておきたいものだ。見ることができるものなら、だけれど。

と、思ったら、さっきのニュースでソフトバンクの北尾氏が出てきたね。ソフトバンクだけじゃなく、楽天も裏で動いているらしい。さて、ここまで来るとどんなことが起こるか、いよいよ面白くなってきた。あの北尾氏は野村證券出身の、まさにあの業界の大ベテランだ。ソフトバンクをいきなり東証一部上場に持っていったその業界内での実力は定評がある。ただ、彼も誰の味方でもない。良い条件を出すほうに付くに決まっている。

それぞれの思惑とそれぞれの立場が三つ巴、四つ巴になって、さらになにがなんだかわからないぐちゃぐちゃの消耗戦が始まりそうな予感がするね。これで日本の証券市場をごちゃごちゃにして、そして、立ち直れなくする。本当はそれを考えているやつがどこかに、いるんじゃないか?

投稿者 nori-m : 23:36 | コメント (0) | トラックバック

チューチョ・デ・メヒコ氏のこと

ChuCho.jpg

この前の私のblogで、アルパを弾く天才少女の話をした。とにかく、一度音楽を聴くと、それをすべて覚えてしまい、次の瞬間にはアルパでそのまま弾き出す、という、今村夏海さんの素質はすばらしい、の一言に尽きる。そして、彼女のそのアルパをエンターティメントとして世に出すほどまでにしたのは、やはり「チューチョ・デ・メヒコ」氏の功績だ、と言う人は、実は彼女の周りにとても多いのだ。

チューチョ・デ・メヒコ氏は、既に70歳を超える。しかし、今村夏海さんのコンサートで聞かせたその楽器の音、そして歌声は、目をつぶって聞いていると、いったいどこの若者が歌っているのだろう?というくらい艶がある。

チューチョ・デ・メヒコ。彼の知名度は日本ではそれほどポピュラーではない。しかし、彼は、メキシコを、というよりもラテン世界を代表する、ラテン音楽を代表する男なのだ。戦後から今に到るまで、ラテン世界では、かなり長いあいだ「ラジオのスイッチを入れれば彼の歌声が聞こえる」と言われていたが、それは決して偽りでも誇張でもない。今も、彼の音楽がラジオから流れない日はない。私の妹は、長くスペインのマドリッドに留学生活を送っていたので、彼女にも聞いてみたら、「もちろん、知らない人はいない」という答えだった。もちろん、戦後の日本で「音楽好き」と自称する人たちのほとんどが、彼の音楽を聴いたことがあるはずだ。ラテン音楽は、なぜか日本人の感性に合う。私の死んだ父も、ラテンのレコードを多く持っていた。

ラテン界でのチューチョ氏の名声はとにかくすごかった。彼が米国の大統領、ジョン・F・ケネディやリチャード・ジョンソンの前で演奏した、ということや、1960年代、日本に来たときも、日本の皇族の前で演奏した、という事実を知れば、それもうなずけるだろう。アメリカはじめ、日本も含めた「戦後」が終わり、経済成長によって明るい未来をみんなが見ていた「黄金の60年代」に、世界中に流れたメキシコの音楽。それがチューチョ・デ・メヒコの音楽だった。

そのラテン音楽の「雄」とも言えるチューチョ氏の現在の奥さんは滝沢久美さんという日本の方だ。チューチョ氏が出てくるコンサートにはいつもあでやかな和服姿でやってくる。チューチョ氏を見て、聞いてくれるお客様に失礼のないように、という心遣いが、いつもまぶしく見える。そして、その奥さんのために、そして、日本という国のファンのために、チューチョ氏は1988年から日本にずっといて、私たちの目を、耳を楽しませてくれている。

いい音楽は時代をこえる。でも、人の寿命は時代をこえることができない。しかし、チューチョ氏の歌を生で聞いていると、それがいつまでもいつまでも、自分が生きている限り生で聞けるのではないか、という錯覚に陥ってしまう。いや、いつまでも聞いていたい、という気持ちがある。

今回のコンサートの中心であった今村夏海さんはじめ、後輩の育成だけでなく、チューチョ氏の音楽をもっと聴きたい、という人のため、もっとがんばってほしい、と切に願っている。

舞台のアルパ.jpg

投稿者 nori-m : 16:03 | コメント (0) | トラックバック

あの「電車男」が映画に

PICT8337.jpg

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。

 あの「2ちゃんねる」でブレイクし、本になった「電車男」が映画化されるらしい。

 

 「電車男」という恋物語のポイントは「2ちゃんねる」というネットによる舞台装置を抜きにしては語れない。むしろ、あの2人を中心に回っていた、多くの人間の参加という、その事実こそが主人公だ。
 

 だとしたら、映画化はそうとう難しそうだ。ただストーリーを追うだけのつまらない映画にならなければよいが、と思う。
 

 ところで、恋の行方はわからないもの、と昔から相場は決まっている。映画の配給の直前に以下のような女性週刊誌の電車の中吊り広告が出ないことを切に願う次第だ。
 

 実は破局していた?!、あの「電車男」。映画化関係者がひたすら隠す事実に迫る。別れた二人に映画会社が損害賠償訴訟を検討か- いやまぁ、想像ですけれど。

投稿者 nori-m : 07:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月22日

午後のひととき

PICT9170.jpg

ちょっと息抜きでもするかな、と、ときどきコーヒーを飲みにいく。オフィス街の真ん中にある、普通のオフィスビル。その1Fに、よくあるおいしいコーヒーを飲ませるチェーン店がある。天井が高くて気持がいい。「カフェ・ラッテ」を頼んで、よく飲んでいる。

目が疲れているから、目をつぶる。軽く流れるモダンジャズの音が広い1Fのフロアに響いている。 1Fのフロアは周囲がガラス張りだから、外がよく見える。ときどき人がそのビルの前を通る。

コーヒーを飲んで、ちょっと目をつぶって、少し元気になる。

さあ、オフィスに戻ろうか、と思ったそのとき、今まで外の景色を濡らしていた雨がやんでいるのに気がつく。空の雲間はまだ見えないが、明日はきっと良い日になるだろうな、と、そう思った。

もう20年近く前になるけれど、最初に「カフェ・ラッテ」という、エスプレッソにたくさんのミルクを入れたそれを飲んだのは、たしかUnversity of California Berkeleyのすぐ裏にある、小さなコーヒー屋さんだった。友達に連れて行かれたのだが、そこはなにか見覚えがあるところだった。

古い映画で恐縮だが「卒業」という映画がある。その映画の冒頭のシーンで主人公が、自転車に乗ってやってくる。その、小さくて気さくな、学生相手のカフェ。それがその場所だった。

いや、それだけ、なんだけれどね。

投稿者 nori-m : 16:35 | コメント (0) | トラックバック

会社の体質

IMG_3100.jpg

大村あつしさんのblogで、ライブドアという会社の「体質」について、書かれていました。いま、テレビを見ながら、あの会社とフジサンケイグループのバトルを見ている人たちのほとんどは、実は、大村さんが書かれた、あの会社のこういう体質を知りません。

前のAERAなどのアンケート調査では、ライブドアのあのやり方で「世の中を変えていってほしい」と非常に期待しているのは、なんとあの「団塊の世代」だそうです。

IT音痴、とさげずまれながら、IT以前の社会でさんざん暴れた「団塊の世代」は、結局自らの初心を抜きとおす、と言う人は数少なく、多くは日本の高度経済成長の最後を飾るバブルまで、自分の理念も哲学も、後輩や子供たちへの思いやりのひとかけらもなく、ただただ突き進み、それが崩壊してペンペン草も生えなくなったそのとき、定年を迎えてあとは崩壊する前に駆け込みでもらえそうな年金で豊かな老後を暮らす。彼らが死ぬころには年金制度どころか、日本そのものが崩壊しているかもしれない。あとは、野となれ、山となれ、ですか。いいご身分ですなぁ。

団塊の世代の人はパソコンを使えなくてもなんとかなるもんさ、とうそぶき、ここまでだめにしてしまったこの日本の社会を、結局はそのまま次の世代に放り投げたんだな。全体として見ると、そういう図式が見える。まったく、なんであんな連中にシルバーシートなんぞ作って、わざわざ満員電車で席を譲らなきゃならないのか、腹が立つ。ストレスと運動不足で、若年にもかかわらず行く末短いおれたちこそなんとかしてくれよ!

で、中身も知らないくせに「ライブドアが世の中を変える」などとノーテンキなことを言ってる団塊の世代のじいさんたちよ。いくらアメリカ流にかぶれたからといって、カネさえあれば法律違反以外はなんでもやってもいい、というその姿勢が、そんなにすばらしいか?

まともで品のある弁護士、社員、能力のある、まともな社員や関係者は、ほとんどあの会社をやめた。これからもやめていくだろう。自分の能力は、こんなことに使われるためにあるんじゃない、と、転職をみんな決意したんだよ。

団塊の世代のおじいさんたち。あなたがあなたの人生の最後を迎えるにあたって、晩節を汚したくないのであれば、子供に「うちの父ちゃんたちはとんでもないやつだった」と、墓石に水の代りに塩を撒かれるのがいやだったら、あの会社への期待が実はとんでもない愚行だ、ということをちゃんと認識することだ。

いま、あの会社を支持しているのは、あの会社とその周辺の株を売って手数料を稼ぎたい証券会社くらいのものだ。そんな証券会社にだまされてはいけない。ちゃんと勉強をする、ということは、いま、そういうことだ。あの会社の周辺で動くカネは、やがて市場のどこかにまとめて吸い込まれていく、ってことは目に見えてる。

団塊の世代のおじちゃん、おばちゃんよ。そういうことだ。

投稿者 nori-m : 08:37 | コメント (9) | トラックバック

2005年03月21日

エディット・ピアフの話

IMG_3002.jpg

NHKの教育テレビで「人間講座」をやっている。今日出ていたのは三輪明宏。語られているのはシャンソンの世界では知らぬ人のいない「エディット・ピアフ」。

ピアフは彼女が30代の半ば、夫を飛行機事故で失う。彼女はその後、腑抜けのようになり、借金まみれになり、そして薬とお酒漬けになり、顔は老婆のようになり、落ちぶれ果てた。

その彼女を愛した一人の男がいた。彼女よりも20歳も年下だったけれど、彼はいつ死んでもおかしくなかった、という状態の彼女を更生させ、彼女はふたたび、舞台に立ち、多くの人の喝采を浴びるようになった。そして、まだ借金はたくさん残っていたけれど、幸せの絶頂のそのとき、ピアフは死んだ。

彼はその後も彼女の作った借金を働いて返し続けた。その借金を返し終わったそのとき、彼も死んだ。

三輪明宏はその話の前と後におなじことを繰り返し言う。

恋は自分がするもの。愛は相手に捧げるもの。

ぼくらは、それがたとえ現実であるにせよ、あまりに穢れたものばかり見て毎日を暮らしていないか?自分の醜さに鈍感になっていないか?

投稿者 nori-m : 22:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月20日

しかし、なんですよ。これは。

冬のアナタ.JPG

このまえ、羽田空港で見つけたお菓子。

なにもコメントすることはないなぁ。あはは。

ところで、この写真はauのケータイ「W22H」で撮りました。

他に、このblogで使っている写真はすべて私が撮ったものですけれど、以下2台のカメラで撮っています。機材などにご関心のある方のためにとりあえずご紹介しておきます。

◎ コニカミノルタ DiMAGE A1
これは2003年の10月に手に入れて以来、ずっと使っています。ここしばらくの愛機です。「手ぶれ補正」がついていて、35ミリ換算で28mm~200mmのズームがついている500万画素機ですが、最近はかなり値崩れしていて、5万円台で買えるところもあるみたいです。使い慣れると、その小ささと機動力の高さがいいです。AFが遅いので、近くを飛んでいる鳥を狙う、というのには使えませんが、自分としてはかなり使い込み、愛着があります。使い方次第でコンパクトデジカメ以上の写真が撮れます。コンパクトデジカメに飽きて、ひとつ上のグレードの写真を狙う方には最適な一台だと思います。

◎ キャノン EOS 20D
この機種に、ほとんどEF 28-300mm F3.5-5.6L IS USMを付けっぱなしで、使っています。総重量で2.5kgくらいになるので、付属品とともに持って歩くのはかなり大変です。「写真を撮るぞ!」という意気込みのあるときしか持って歩けません。ボケとか画質とかには十分満足しているのですけれど、その大きさと重さのため、通勤途中とかのスナップは、結局前記の「DiMAGE A1」になります。35mm換算で45mm~480mm相当になり、手ぶれ補正つきなので、暗い舞台などの写真でもISO1600にしてこのレンズを使えば、フラッシュなしで手持ち撮影ができます。この組み合わせの場合は「カメラ」よりも「レンズ」に重点がきますね。実際、カメラ本体よりもレンズのほうが重いです。

写真、というと、当然道具はカメラです。でも、道具がすべてではありません。ついついお金をかけた道具には愛着が湧く、というのがアマチュアの悲しい性でもあり、また、だからこそ、アマチュアらしい良い写真が撮れる、ということでもあります。でも、写真は機材で撮るものではなく、やはりハートとセンスとテクニックで撮るものですよね。少なくとも「お金にしなければならない」というミッションを抱えるプロでないのであれば、ハートとセンスとテクニックをしっかり磨いて、好きな写真を撮っていたいものです。

投稿者 nori-m : 12:07 | コメント (0) | トラックバック

貧困な人生を送らないためには

水面.jpg

一昨年、延べ半年ほど、LosAngelesで過ごした。もちろん仕事です。これはなかなか面白い経験だった。ときどきはシリコンバレー近辺の企業や、東海岸はPittsburghまで足を伸ばしたけれども、全体としてみると、やはりアメリカという国の衰退が目に見えていた。

大衆消費社会のリーダーとして、常に「豊かな生活」をできる国として筆頭に上がっていたアメリカは、いまや「奥様は魔女」なんかの「黄金の1960年代」と呼ばれる時代を通りすぎ、いよいよドルが世界の機軸通貨ではなくなる日を迎えることになった。これは、前の記事に書いた通りだ。

毎年、米国の市民権をクジでもらえる、という「DVプログラム」がある。応募にはなんの資格もいらない。でも、そのプログラムへの応募もかなり減っている、という。もうアメリカはかつてのような「自由」が語れる「豊かな」国じゃなくなっちゃったんだね。いま、あの国の貧富の差はとても激しい。前にも書いたけれども、人口の上位1%の人のGDPと、それ以下の人たちのGDP(要するに給料の合計)が等しい。富が集中して、貧困が大きな問題となっている。自暴自棄になる人も多く、凶悪な犯罪が後をたたない。刑務所は満杯だけれども、「小さな政府」になってしまっているので、行政に回るお金がない。刑務所の環境も劣悪になる。

貧困層の人たちの子供が通う学校も、一部だが、財政難で毎週1日、週末とは別に休校日を作らざるを得ないところも出てきている。あの国で上位1%の所得をもっていなければ、教育さえまともに受けられない。もちろん、日本のような保険制度が無く、お金がなければ医療をまともに受けられないから、「人生50年」が普通だ。貧しい99%の人にとっては。

資本の集中というのは、こういう社会を作ることを意味する。

日本をそういう国にしたい、と思っているのは誰だろうか?きっとその上位1%になれることが確実な、ごく一部の人たちだけだろう。あとの99%は「民営化だけが経済の活性化につながる」ことを信じさせられ、やがてその99%に落ちていくようになっているのだ。

いま、日本にいて本当に恐怖するのは、こういった米国のことや、中国など他の国の情報が、だんだんと中に入らなくなってきている、ということだ。だから多くの人はまだアメリカは豊かな国だ、と思い込んでいるし、日本という国がまだ世界でかなりの存在感を持っている、と信じている。いや、知っている人でも、嫌われたくないから、本当のことを言わない。

本当はそうではない。

日本はすでに世界的に信用されない、存在感のない国になった。アメリカは貧困を絵に描いたような「第三世界」の国になった。

本当のことだよ。いや、ここを読んでいるあなたなら、言わなくてもわかっていることだろう。でも、この事実を、いまあらためてここで言っておこう。この事実をちゃんと正面から受け止め、これから、自分で自分の道を探っていくことこそが、ここに住むぼくらが子供たちに胸を張って生きることを教えられる、唯一の道だろう。

決してごまかさず、自分も人も偽りで煙にまいてはいけない。ぼくらはもっと正直に生きる道を探る必要がある。ぼくらはなにを間違えて、こんな醜い姿になったのか。その醜い姿を鏡に映し、正面から見て、これからどうしていくかを、その事実から逃げずに考えなければならないのだろう。

あなたの子供が、働かずにブラブラしている?「ニート」だって?それはきっと、その親が、社会が、真剣に今を生きる姿を子供に見せていないからじゃないのかな?あなたの醜い姿を見て、その子供である自分を嫌悪しているからじゃないかな?

ぼくがLAと東京を行き来していたあの半年のあいだ、成田空港に降り立つ都度に、ぼくは思った。「日本人ってのはなんて暗くなったんだ?」と。自分に自信を持って、困難に立ち向かう姿勢が、みんななくなってしまった。そして、ほとんどの人はその自覚がない。だから、手が打てない。いま、日本人の多くは、そんな感じなんじゃないかな。

投稿者 nori-m : 10:35 | コメント (5) | トラックバック

2005年03月19日

「話しことば」「書き言葉」そして...

都心の空.jpg

「ブログというメディアは書き言葉をベースにしながらも、話しているように生の言葉が飛び交う部分で、書く、話すを融合させた機能を持っているような気がする」というのは、とても面白い指摘だな、と思った。

だから、blogでは書き言葉のみの場合に比べて「スピード感」とか「リアルタイム性」が求められる、というところがある。つまり、ちょっとblogをお休みする、ということに対して、書くほうも「あ、書かなきゃ」と思うし、読むほうも「なんだかあの人最近書かないけれどなにかあったのかな?」ということになる。変な言い方だけれども、「書くこと」にも意味があるんだが「書かないこと」にも、何らかの意味ができているように思う。書き言葉と話言葉の中間、というのは、その沈黙に意味があったりする場合もある、と言う「書き言葉」である「blog語」の面白いところだろうね。

書き言葉と話し言葉の最大の違いは、それを記録として時点を違えて読めるかどうか、というところも非常に大きい。話し言葉はその場で消えてしまうから、もし消したくない場合は録音を取ったりすることになるけれども、それはその場の雰囲気も一緒に記録できないこともある。会話の録音は、ビデオで録画できると、本当は良いのかも知れない。それでも足りないものは残るけれど。

今のような時代になると、書き言葉が持っていた利便性の1つである「より大量の情報をより早くより多くの人に伝える」「マスコミ活字的な」部分は、テレビなどのメディアにとって代わられているから、書き言葉の「記録性」のほうが、実は今はとても重要になってきたのかもしれない。その意味で「blogを書けばGoogleが保存してインデックスまでつけておいてくれる」というのは、実は大変に重要なことなのかも知れないね。

ところで最近、同じ組織、同じフロアの隣の人にさえ、メールで仕事のやり取りをすることがとても多くなった。ぼくだけじゃない、他の人に聞いてもどうやらそういうことは増えている。つまり、仕事である以上、間違いがあったりしたらすぐに直す必要がある、などのアクションが必要になるから、重要な仕事のメッセージであればあるほど、メールで記録を残しながらコミュニケーションを取る、ということが普通になっている。

いまやメールが途切れればその人とのコミュニケーションは無いのと一緒だ、というくらいになってしまった。それが携帯電話のメールの登場で、仕事のみならず、家族、恋人どうしでも事情が同じになってきた。まるで、これから人間は無言のコミュニケーションの世界に突入するかのようだ。

おそらく、しばらくはこの状況が進行していくだろう。話し言葉のコミュニケーションスキル以上に、書き言葉のコミュニケーションスキルが、どんどん重要視されていくことになるんじゃないだろうか?いや、たしかこの前巻き込まれたネットのトラブルでは、ぼくの方から「メール以外は受け付けない」と、やったことを覚えている。なぜかと言うと、それは「記録を残すため」だった。おそらく、電話などでのやりとりをしたとしても、その内容の確認のため、メールをさらにぼくは送って、確認を求めたかも知れない。

書き言葉は記録することばでもあるので、内容の論理性や明確な論旨が必要で、感情的にはなりにくい。また、記録では状況説明もしなければならないので、裏表のある話や腹芸の類、あるいはダブルスタンダードはボロが出やすくなる。つまり、公明正大にやる、ということであれば、記録の残る書き言葉を使うほうがすっと良いことになる。裏を返せば「感情は伝わりにくい」ということになる。

しかし、これからは見ず知らずの人と、ネット上での出会い、トラブルなどがとても多くなるだろう。そういう場面では、やはり記録の残る書き言葉を縦横に使って白黒の決着をつける、というほうが、やはりいいことなのかもしれない。「なぁなぁ」で済ます、ということが減るし、なによりもGoogleくんがそのやり取りをすべて記録してくれるわけだから、不正なことやあいまいなことでの言い逃れができなくなるから。

え?そんな社会はいやだ?って?だったら、ネットは使わないこと。それに尽きるんじゃないかな?

投稿者 nori-m : 19:24 | コメント (0) | トラックバック

MP3プレイヤーのカタログ本が欲しい!

白梅.jpg

最近、HDDの入ったMP3プレイヤーを買った。いつでもどこにも持ち歩く。でもこれを買うとき、是非欲しかったものが、そのときなかった。つまり、MP3プレイヤーのカタログ本だ。

いまやMP3とかHDDとか名前のついた「Sold State Audio」は、ポータブル型から据え置き型まで、さまざまなものが家電量販店で売られている。でもデジカメ選びのときはあった「カタログ本」が、どこにもないのだ。

たとえば、ロックを中心に聞くならこのプレイヤーとこのイヤホンの組み合わせがいい、とかいうような情報や、CDからMP3へのリッピングの方法とか、そういう情報が詰まった「本」がどこにもない。なぜだろう?と考えてみた。

日本では音楽の著作権について、非常にうるさい団体があって、たとえば自分の好きな楽曲の歌詞を自分のblogに載せただけで、すぐにその団体のエージェントが飛んできて「著作権法違反ですから削除してください」とやってくる。

こんなことをされると、もうその楽曲を聞く気持ちさえ萎えてくる。そういうような,合法かも知れないけれど、ばかばかしいことが横行しているから、「MP3プレイヤーのカタログ本」は、なかなか恐くて大手の出版社では出せないのだろうと思う。

実際、MP3プレイヤーは輸入品も多くあるばかりではなく、中国からの並行輸入品なども並ぶマーケットだ。また、著作権のあるMP3ファイルをネットでやりとりできる、という、非合法であっても、実際上確立してしまっている現状もある。MDのときなどのように、そういう機器に一律の著作権料を科すことが大変に難しくなっている。

MP3プレイヤーを使うときは、当然のことだけれど、買ってきたCDからも、楽曲のデータをコピーして使うことが大前提だ。だから、コピーのできないCDを作った各社は、iPodの大流行で大ブーイングを消費者からもらうことになった。そのため、いよいよコピーのできないCDを作ることをやめる方向で動いた。

でも、Copyrightは守らなければならない、という使命に燃える著作権団体にとっては、これは面白くない事態だったろうことは想像に難くない。しかし、時代はそちらのほうに動いている。

ところで、そんな事情はもうどうでもいいからさ、「MP3プレイヤーのカタログ本」ちゃんとしたものを作ってくれよー、絶対売れると思うのになぁ。リットーミュージックを抱えたインプレスなんかがやってくれると、一番嬉しいんだが、上場会社じゃ無理か。。。。

投稿者 nori-m : 10:30 | コメント (3) | トラックバック

6月暴落?

黄色い花.jpg

田中宇氏のこのWeb記事によれば、中国はこの6月末までに人民元の切り上げを行う気配が濃厚だ、という。これがなにを意味するか?

【3月19日追記】:そしてまた、中国の首相が人民元の「突然の切り上げ」があるかもしれない、という発言をしたとなると、ことはかなり穏やかではない。

人民元の切り上げについての調査報告書はリーマンブラザース、およびメリルリンチから出されているから、証券業界の人はよくご存知だろう。いよいよきたか、という感じだ。

元記事にも書かれている通り、この予想は当たる可能性が高い。

もし、この田中氏の記事の通りであれば、日本から見る限り、ドルは持たないほうが良い、ということになる。ドルはますます価値が下がることは、短期的、長期的にも必至の情勢だ。

また、一方で、最近、日本の経済の回復や、韓国の経済の回復が言われているけれども、この回復の元をたどれば、その多くの部分が対中国輸出などの、中国との取引に負うところがとても大きいことがわかっている。記事中にははっきり書いていないけれども、日本の株式相場の大幅下落も、この影響によって、もちろん考えることができる。

まさか、株式相場の暴落か?

ということが起こる可能性は小さくはないだろう。だから、中国は要注意だ。

あくまでこの田中氏の記事の通りになれば、ということだけれど。ぼくは、6月が過ぎるまで、株を買うのはやめたほうがいい、と、個人的には思っている。いや、今のうちに売っておくべきか、とも思う。

ところで、反論とかも、もちろん大歓迎です。でも、今回は自分の意見というよりは田中氏の見解をご紹介しただけではあるのですが。

投稿者 nori-m : 00:09 | コメント (6) | トラックバック

2005年03月18日

システム監査会社

LA LongBeach.jpg

今回はちょっと自慢話が入る。個人の言いたい放題のblogなので、とりあえずお許し願えれば、ということで。

だいぶ前だけど、自分たちの作ったインターネットのサーバ側のシステムで、システム監査を受ける必要があって、第三者の、外資系の超一流と言われる監査会社にシステム監査をお願いしたことがある。

監査をする、という以上、それなりの知識と用心深さなんかはあって欲しいもんだな、と、思いつつ、当日の監査を受けた。特に厳しく、かつそういう会社のセールスポイントになるのは、「ペネトレーションテスト」という、テストだ。

このテストは、実際に外部からシステムに対し、悪意のある攻撃と想定した攻撃を行うことによって、そのシステムがどれだけ堅牢にできているか、ということを調べるテストだ。

で、やってきました。当日何も知らない「ハッカー」然とした若者たちが数人。いかにも、その手の業界という、汚いジーパンにネルのシャツ、ボサボサの髪、というそのいでたち。いいじゃないの!その格好!はまってるよ!と、思わず拍手したくなっちゃいました。さて、お手並み拝見。

で、試験は背後で見ていると、よく使われるポートスキャンをするツールなんかを使って、いろいろな試験をしている。なーるほど、ぼくが思った通り、通り一遍の試験しかやってないね、ということがよくわかった。しめしめ、なんてほくそえんだのはぼく。

ここでいじわるおじさん(←ぼくね)は、きっちりとその若者たちに、これから起こるであろうことをわかったうえで、彼らと会話を交わす。

「きみら、nmapで全部のポートを調べてるんだよね?」
「そうです」
「なにか疑問なことがあったらいつでも答えてあげるからね」
「そのときはお願いします」

で、質問は1つもこなかった。

いよいよ結果が出ました。「大丈夫でしょう」という結果がとりあえず文書で報告されました。そこでぼくの出番。監査会社の方々、そして監査を受けるシステムの会社の社長もそこに全員集まっていた。で、ぼくはそのレポートを一通り聞いた後、こう言った。

「でさ、XXXX番のポート、わざと開けてあって、そこにはパスワードが暗号化されずに通るようになってるんだけど、レポートにはなにも書いてないよ。あ、それとXXX番のTCPとXXX番のUDPも空いてる。これはアプリケーションソフトで使うんだけどね」

この瞬間、「外資系超一流システム監査会社」の方々は全員凍りつきましたね。監査漏れの指摘ですから、当然です。「超一流外資系」の看板が、音を立てて目の前で崩れておりました。それまで弁舌さわやかだったその会社の責任者とおぼしき黒いめがねのお兄さん、それからずっと黙っておりました。

「すみません。じゃ、追加で調べます」
「やってみてね」
(数時間の間)
「あ、やっぱり空いてました」

その若者は素直でよろしい、と思ったよ。

キミら、修業が足りないねー、とはさすがにイジワルな私も言わなかったけど、面目は丸つぶれだったことは、誰の目にも明らかだった。

技術の世界ってのは、こういうことがときどきあるから面白い。犬の喧嘩、とぼくは言うのだが、技術者どうしがワンワン、キャンキャン5分もやると、どちらが上か、ってことがすぐにお互いにわかって、すぐに静かになる。それぞれの社会的地位とか立場は関係なく、その技術の差がすべて、という場面がかなり頻繁に出てくる。これが「モノつくりの現場」の厳しさの1つだ。

まぁ、それはともかく、「システム監査」そのものを監査できる、あるいはこういった「監査会社を試す仕掛け」くらいは仕掛けておく、くらいのことをして、監査を受け入れる側はいろいろと用意しておくと、その監査が本当にまともなものかどうか、試すことができる。まったく、監査がまともにできているかどうか、という監査も必要な時代なんだな。「人を信用できない」ということの連鎖のようにも感じて、悲しくもあるけれど。

もっとも、こういうシステム監査では、ペネトレーションテスト以外にも、社内のシステム保守体制なども監査の対象になっている。もちろん、それは技術とは関係ない監査だ。これもまた、重要な監査項目であることは論を待たないから、ペネトレーションテストのみを取り上げて云々するのは間違いだ。でも、ペネトレーションテストは、その中でも重要な項目であることは確かなんだけど。

え?その監査会社の名前を知りたい、って?いや、誰でも知ってる、世界的にとても有名な会計監査会社の子会社ですけれど、それ以上はぼくも言えないな。技術者の若い彼らも可哀想だったし、そのうちいい加減な監査をしているところは訴えられたりして、明らかになっていくと思うから、なにもここで発表しなくてもいいわけだから。

投稿者 nori-m : 11:13 | コメント (0) | トラックバック

Blogでは隠せない

LA摩天楼.jpg

いやぁ、困りました。「貞子ちゃん」だけではなく「貞子ちゃん の夫」と称する方まで出てきました。ここのコメント欄に、壮絶(?)なバトルが繰り広げられておりまして、いや、困った。

内容は記事とそのコメントを読んでいただくとして、一番困ったのは「電話しろ」という「貞子ちゃん の夫」の方の、メールでした。メールそのものは短く、非常に迫力があり、私の感じとしてですが、通常以上に恐怖を覚えるほどでした。

「貞子ちゃん」ご自身に「貞子ちゃん の夫」のご職業なども教えていただきましたが、ここでは個人的なことになるので書きません。また、ご本名(であると信じます)もお教えいただきましたが、これもここではもちろん、ご本人の承諾もありませんので、公表しません。しかし、「貞子ちゃん の夫」の方のご職業を知ると、さらにこの恐怖が募ってきた、というのが私の受けた「感じ」です。

私が一番不可解なのは「言わなくてもわかるだろう」という、旧態依然とした日本のムラ社会のものの言い方です。インターネットという、日本中のみならず、世界中を結ぶこのメディアでは、いろいろな世界にいるいろいろな立場の人が、いろいろな意見を、それこそ縦横無尽に言い合う。それが真髄です。特にblogはそういうことが一般の人でもできる敷居を非常に低くしました。だから、「言わなくてもわかること」は、ないのです。すべて言葉にしなければ、多くの人を納得させられません。ネットは都会であり、「ムラ社会」とは相容れない。そこに「ムラ」を持ち込もうとすると、コミュニケーションの破綻、という事態が待っているのではないでしょうか?

それこそ、ITをなにも知らない専業主婦でもblogができるようになったのですから、それは当然のことです。悪意で攻撃を仕掛ける人たちも大変に増えました。

だから、どんな意見でも否定的なことを言われることもあるだろう、ということは覚悟しておかなければなりません。インターネットやblogは、単に「手軽に使える宣伝ツール」ではないのです。でも、インターネットなどの文化や歴史に詳しくない方々は、ここのところをよく間違えます。リスクを承知で商品を買う、というコンセンサスが出来ている(と聞いている)証券業界でも、リスクの説明を十分にせずに商品を売ることは法律で禁じられていますよね。

もっとも、ネットにはそれを明文化したものはないですから、経験と知識、自分の能力でその「リスク」を知っていくしかありません。それがネットの素人には、ちょっと辛いところです。

本当に正直なところ、私はblogという仕組みを使って、縦横無尽にトラックバックを貼り付け、さまざまな肯定的意見、否定的意見をみんなが言い合える社会はすばらしいと思います。ですから、自分でもこのblogの世界では「隠し事」をしないように、うそをつかないように、結果としてウソになってしまわないように、気をつけて発言し、かつ、自分の正直な気持ちを、包み隠さず書こうと努力しています。なにかのためにblogを使うのではなく、blogという環境の作った新しい社会にあわせていかなければなりません。

今回の「貞子ちゃん」「貞子ちゃん の夫」も絡むこの事件を、私はしっかり記録し、ここに、当人ご自身たちの名誉を損なわないように気をつけつつ、さらけ出そうと考えています。その姿勢が、きっと「なにかを隠しておきたい」人たちに歓迎されなかったのだろうな、と、思います。つまり隠しておきたいことがあるんでしょうね。きっと。それがなんであるかは、憶測はできます。でも憶測でしかないですし、ここにその憶測を書くのは、少々はばかられるので、書きません。たいしたことではない、と、私は思いますが、それが外部に漏れると大変、とご本人たちは考えているのだろうと思います。ですから、そのお気持ちに配慮しています。

ですが、 Googleで「貞子ちゃん」をキーワードとして検索すると、「貞子ちゃんの連れ連れ日記」を筆頭に、この私のblogも含め、かなりのblogがヒットします。もちろん、キャッシュという、消えてしまったページをためて置くGoogleの仕組みの中にためられていた情報もヒットします。

一度外部に露出した情報は、トラックバックを消しても、このように検索エンジンに普通にひっかかるようになります。また、元の記事を消しても、Googleではキャッシュに情報が残ります。いまどき、ネットのユーザでGoogleを使わない人はまずいませんよね。だから、誰がいつ検索しても、書き損じのblogでさえ、記録は残ってしまう。

つまり、一度露出してしまったものは消せないのです。だから、失言を消しても、それが検索されることがある。これが「ネットの威力」です。たとえ気軽に書けるblogであっても、このことを意識して発言をする必要がある、というわけです。これはすべてのblogを書く人間が気をつけている必要があります。

つまり、blogというメディアそのものが、隠し事を許さない性質のものなんですよね。なによりもその黎明期にインターネットの普及を推進してきた私たちは、「みんな正直になろうよ」ということが根底にあり、そのうえにみんなが豊かで暮らしやすい社会を作ることができれば、と、思ってやってきたものです。この「正直さ」は、自分で言うのもなんですけれど、私の体に染み付いていると思っています。また、仕組みとして、自分でなにか隠していても、外部からそれを突いて来るような構造ができています。これを「オープンな構造」と言うわけです。

これからは、マスコミだけでは語られることのないオープンな情報を、一般の人たちがblogなどのメディアで取っていく。そして、それを見る側、書く側が情報を取捨選択していく。まさに堀江氏が言っていることは、このことそのものなのです。だから、自分にとって悪い意味を持つ情報もまた、貴重な情報です。私は個人的に堀江氏やその人の言うことがあまり好きではありません(あくまで私個人の好き嫌いの問題です)。ですが、彼の言うことの中にも一理ある、と思えることばもないわけではない。とくに、「情報は受け取り手が選択する」という発言は、特にこのBlogと言う世界を見る限り、実現しつつある(というか、すでに実現されてしまった)大きな世界的な流れであると思います。彼はその流れを敏感に感じ取ってそう発言し、巨大メディアの怒りを買った可能性もあります。

かつて竹村健一氏がその書籍を翻訳して日本に紹介したマーシャル・マクルーハンという人がいます。この本を、高校生のときに図書室で発見して読んで、とても面白かったことを思い出しました。当時はもちろんITという単語どころかインターネットもデータ通信も独立した分野としてあった時代ではなかったですから、そこには「テレビ」というメディアについて書いてありました。

マクルーハンの言うことはただ1つ。

「中を流れる情報がメディアを選ぶのではなく、メディアのありようがそこを流れる情報の中身を規定する」

ということです。

Blogとインターネットは、その「簡単な記事ポストのユーザインターフェース」「トラックバック」「コメント」という仕組みそのものが、そこを流れる情報を規定していく。だから、そのメディアを使う人間は、それをツマミ食いしてよいところだけとって行こうとしても、失敗する。やがて、みんながその流れにあわせていかざるを得なくなる。きっと、そういうことなんだと思います。

今回、「貞子ちゃん」と「貞子ちゃん の夫」の方々とのトラブルで、インターネットやblogというツールについて、いろいろなことを考えました。また、これらのツールの持つ社会的な意味が、私の中で非常に明確になってきました。そういう意味で、とても知的な刺激を多く与えていただき、本当に感謝しております。末筆ながら、「貞子ちゃん」と「貞子ちゃん の夫」の方のお仕事のますますのご発展をお祈り申し上げて、拙文をおわりたいと思います。

本当にありがとうございました。

投稿者 nori-m : 08:53 | コメント (9) | トラックバック

2005年03月17日

頭を冷やそう

猫.jpg

ぼくも、不覚にも、いろいろとこのところの流れに乗せられてしまって、「ライブドア対フジサンケイ」の騒ぎについて、いろいろ書いてきた。でも、ちょっと待てよ。なんか違うのじゃないか?って、このところ思い始めた。

いや、この記事で私が書いている通り、マスコミはじめ、いろいろな情報源から得る「堀江氏の印象」は、どうも自分としては良くない。翻って、フジサンケイの役員の面々が、なにかできるとも思えない。でも、よく考えれば、そんなこと、どうでもいいことなんじゃないか?

まず「テレビ」という産業自体が、衰退しているんじゃないだろうか?と言う大きな疑問がある。ネットは「個と個」を直に結ぶメディアとして短い間に大変な発展を遂げた。実際、究極のエンターティンメントとは、要するに個人同士のつながりだ。その煽りを食って、新聞やテレビという従来のマスコミは、すでに「どうも良いもの」と成り果てつつある。つまり、テレビなんて、今後成長が望めたとしても、実はたいしたことはない、という「斜陽産業」になりつつあるんじゃないかな?

実際、高額所得者、高学歴の家庭ではテレビを見る時間が減っている、と言う統計があるそうだ。また、その一方で、そういう家庭では、パソコンの前に座って、インターネットをしている時間が、長くなっている、という。

放送法という法律の枠から外れた「通信」としてインターネットで配信されるストリーミング画像は、これから大きな発展を遂げ、テレビの牙城を食いつぶしていくだろう、ともいわれている。放送という事業自体が古いものになりつつあるのではないだろうか?

そうなると、「テレビ局」を買ったところで、買ったほうが、ごく近い将来、貧乏くじをひく、という可能性も大変に大きい。つまり、この勝負にどちらが勝ったにしても、勝ち負けがある日突然逆転するかもしれない。テレビ局の株ってのは、そういう意味で十分に安定した、というところから、大変にリスキーものになりつつあるんじゃないだろうか?

目の前のプロレスさながらの大立ち回りを楽しんでいるうちはいいが、その勝負で手にした「テレビ」そのものが、実は斜陽なんだとしたら、彼らはなにをとりあいっこしているのだろう?

「まだテレビは大丈夫だ」って?それ、来年まで?それとも明日まで?

コンテンツがある、って?コンテンツだって、古いものは価値がなくなるでしょ?ただ抱えていればいい、ってもんでもない。ただ抱えているうちに腐らせてきた膨大なコンテンツが、テレビ局のまわりにはごろごろしているよ。あれって、かたちを変えた不良債権だよね。

時代の流れは、ぼくらが思うよりも、実は速かったりする。いつもいつも、そうやって、みんな損させられてきたよね?

マネーゲームに熱中して、本当に大切なことを、ぼくらはみんな忘れているんじゃないかな?。

簡単に言えば、この関係の投資ばっかり見てる人たちに言いたいね。関係者全員に。

クズになる可能性の高い会社買ってどうするの?

それだけだよ。

投稿者 nori-m : 21:07 | コメント (3) | トラックバック

Blogの記憶

IMG_3072.jpg

よくGoogleで調べ物をすることがある。そのGoogleで自分の名前を引いてみたり、なんてことを、仕事の合間に時々してみる。そうすると、自分の書いてきたblogが、これまたよくひっかかる、ということに驚かされる。

実際、blogというものができてから、正確な情報にGoogleでたどり着くことが、ちょっと難しくなった。トラックバックやコメントの相互のやりあいがあるから、ある事柄を表現する単語群についてひっかかるページが多くなった。さらに、そのページのほとんどがblogであり、そのblogがまた別のblogを引いている。そして、結局情報源はただ1つ。この1つの情報源にたどり着くために、かなり苦労する。そんなことが多くなった。

bolgの内容はキャッシュも含め、Googleの中に永久に残る。いちど書いてすぐ消した、というものでも、ヒットすることや、ヒットしたそれをGoogleのキャッシュの中から拾い出すことはとても容易になった。結果として、bloggerは、下手なことが書けなくなってきている。たとえ一時の乱心でとんでもないものを書き、それをすぐに消したとしても、Googleには残っていて、検索にひっかかったりするのだ。

いまやblogに自分の意見を表明する、というのは、googleのキャッシュにもその書いたことが残す、ということだ。それは下手をすると自分が年老いて死んだ後まで残る、ということだ。そして、それがなにかの拍子に、とんでもない力を発揮したり、あるいは、とんでもないトラブルの元になたりするかも知れない、ということだ。

そう考えると、とてもじゃないがどんなに不人気なblogでも、「気軽に」書くためには「これはたいした意見ではなく、気軽に書いてるものです」みたいな前ぶりがないと、なかなかラフなことは書きにくい。どこで誰が見ているかわからない。しかし、そう書いたとしても、Googleをはじめとした検索エンジンのキャッシュに残ることには変わりがない。

blogは書くのがとても簡単だ。でも、それが簡単だからといって、その影響が小さいものだ、と思っていると、あとでとんでもない目に遭う(かも知れない)。盗作をはじめとした違法行為を、もし自覚なしにしていたりしたら、それこそ大変なことになる。要するに、blogを書く側は、そういうことを常に考える必要があるのだ。ある意味、気軽になんか、本当は書けないものなんだな。

社会が過密になる、ということは、人と人との距離が狭まる、ということだ。そうなってくると、満員電車みたいに、自分のちょっとした体の動きが、隣の人の大きな迷惑になることだって出てくる。きっと、それと同じことが、ネットでも起こっているのではないかな?そして、その「過密」を作った張本人が「blog」なんだと思うよ。

投稿者 nori-m : 17:16 | コメント (3) | トラックバック

現代のシェークスピア劇

江の島1.jpg

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。

ライブドアとフジサンケイグループの競り合いは、下手な野球を見ているよりはるかに面白い。ドラマチックである。「おお!この手があったか!」などの展開があると、もっと面白くなる。シェークスピアのコメディー(悲喜劇)のようだ。  

 シェークスピアの書いた台本の基本は、登場人物が、まじめに、真剣に苦しみ、苦悩の末に勘違いを重ねることにある。幕開きに起こったたった一つのボタンの掛け違いが、最後には手の付けられないほどの落差になって、そこで本質に気づくのだが、もうだれも後戻りできない。ライブドアとフジの争いは、現代のシェークスピア劇のようだ。  

 テレビというメディアの役割にはエンターティンメントの提供がある。登場人物が自分の身を削って、視聴者に楽しい話題を提供するというスタイルも新鮮だ。

 喜劇の脚本家自身が喜劇を演じ、多くの客を集める。その中に新興メディアであるネットも絡んでいく。ネットと既存メディアの融合は、確かに進んでいる。


投稿者 nori-m : 01:02 | コメント (2) | トラックバック

2005年03月16日

品はなくとも

IMG_3032.jpg

この冒頭の文はコメントアウトいたしました

前回は「品がないから私は嫌い」な人のことを書いたんだな。だから、というわけではないけれども、ぼくは彼のことを、青い色をして、耳の無いネコ型ロボットみたいな名前では呼ばない。本人の名前の後に「氏」を必ず付けて呼ぶ。ちっとも親しみを感じないから、ということもあるが、それ以上に、そういう「呼び名」は、本人にあまりにも失礼じゃないかね?と個人的に思うから。

自分が嫌いだ、と、思う人でも、当たり前に、人並みに、人権はある。ぼくは尊敬しないけれども、ぼくとは考え方の違う人には尊敬する人も、もちろんいるだろう。その人たちの考え方を否定して、抹殺しよう、なんてことをぼくは考えているわけではない。誰もが気持ちよく生きていく、ってのは、要するに、こういう細かいことも気にしながら生きていく、ってことでもあると思うから「嫌いな人」という感情は抜きにして、その人を認める、ってことは必要なことだよ。自分の感情を言えばきりがない。でも、その感情を隠す必要もない。でも、その感情をぶつける相手も、また自分と同じ人間。少々の気配りは必要なんじゃないか?

あの彼についたニックネームを、本人はおそらくなんとも思っていないか、あるいは世間に自分を知らしめる道具として活用しているところもあるんだろうね。それはそれでいい。また、彼をそう呼ぶ週刊誌メディアやネットなどのメディア上での発言者は、彼に好意的か、あるいはバカにしているか、あるいは単なる「若者受け」を狙ったか。いずれにしても、タレントでもなんでもない本人に、あの「ニックネーム」は、タレントのような属性を与えている。

いいトシこいた団塊の世代のオッサンが彼をそのニックネームで呼ぶ。それを見るにつけ、ぼくは戸惑う。なにもそこまで若い人間に媚を売る必要はないだろう、と。いま、ムダな消費をしてくれるバカな消費者は若者しかいない、だから、彼らに媚びておけばこの高度消費社会で生き残れる、なんてくらいの浅はかな認識が、そこになんだかチラチラと見えるように思うのだ。そういうジイサンこそ、必要ない。はやく消えてくれ。ぼくは、そう思っているんだけどね。

投稿者 nori-m : 07:11 | コメント (8) | トラックバック

2005年03月15日

不幸な出会い

IMG_3042.jpg

「ねえ、私、あなたがほしいの」
「やだよ」
「だからさ、お金、あげる」
「いらない」
「だからさぁ、ほら、ここにあるでしょ?札束」
「だから、それだけ置いて帰ってくれないかな。おれ、あんたのこときらいなんだよ」
「これだけ言ってもだめなの?」
「だっておまえ、何度会ってもお金のことしか言わないじゃない」
「そういう女、嫌い?」
「嫌いだよ」
「でも、あたし、そういう環境で育ってきたから、そういう思考にしかならないのよ」
「だからさ、いくら言われても、いくらカネ積まれても、あんたに魅力はないんだよ。でもくれるってもんはもらっとくからさ、金だけ置いてけよ」

と、まぁ、そういうやりとりを、ね、「あの」騒ぎに見るわけです。

自分という人間に本当に魅力があるから、周りの人間がついてくるのか?それとも、自分にカネがあるから人が周りに群れ集っているだけなのか?ちょっとまぐれで成功した中小企業の社長とか、少々カネまわりのよくなった新興宗教の教祖とか指導者とか、そういう「成り上がり」モンには、そこんとこの区別がつかないんだよね。だから「オレのことをえらいと思え」みたいになっちゃう。本当にすばらしい人なら、別に本人が言わなくてもえらいと思いますよ。普通。

だから、そういう人に限って、

「おいっ!このラーメンに髪の毛が入ってるじゃないか!ここの社長を出せ!社長を!」

って、すぐ、トップ会談に持っていこうとするわけなんだな。順序を踏んだ、まともなお付き合いの方法ってのができない。自分に余裕がないからだね。

「お金があるうちはね、あの人といようと思うの。でもあの人にお金がなくなったら、逃げます」って、女の人に公言されるってことほど、男が傷つくときはないよね、と思うんだが、「結局世の中ってみんなそれじゃん」とか思っている男は、そういう女としか出会ったことがない、不幸な人なんだな、と思うよ。

落ち込んだとき、だめなとき。そうなったときに「あなたはここまで立派にやってきたでしょう。大丈夫!」って言ってくれる人が横にいるかいないか?それはとても大きなことなんだと思うよ。幸せ、というものがもしもこの世に本当にあるのなら、それは自分がいいときにだけやってくるものじゃない。自分の状況が悪いとき、それを肌で感じる。そういうものだ。

だって、人間はいつもいいときばかりじゃない。歳もとる。事故だってないわけじゃないだろう。いいときにはふんぞり返って、あたりにいばりちらし、悪いときには、「おれはもうだめだ」とか、弱音をあちこちで吐く。そういう人間を「恥ずかしい」「見苦しい」と、思うような感性を、まだみんな忘れてはいないだろう?。

「人の振り見て我が振り直せ」ということばを、なぜかこの騒ぎでテレビにやたらと出てくるあの人の顔を見るたびに、ぼくは思い出す。そのたびに、あの口元の緩んだ品のない顔を嫌悪する。たとえ背広を着て出てきても、彼には似合わない。その理由は、きっとこんなことなんだな、と、思う。

あの人は、自分のためだけに、あふれる札束を手に世間を騒がせる。対する守る側の表情を見ると、彼らの表情には自分のためだけではない、という公を背景にした危機感がある。革新的ではなくとも、あまり売れなくとも、それなりに優良企業で来た彼ら「ふるい人たち」の苦労が見える。なによりも、自分のためだけではなくて、人のために生きている、という人間としての「品」がある。そのために突っ張っている。

結果がどう出ようと、それは後で歴史が判断することだ。だから、どちらがいい、とはぼくも言いにくい。ただ、好きか嫌いかといえば、ぼくはあの人が嫌いだ。生理的に嫌いだ。どこが嫌いかというとその品の無さが嫌いだ。

投稿者 nori-m : 07:34 | コメント (4) | トラックバック

2005年03月14日

「モノ作り」はなぜ廃れたか

IMG_2894.jpg

いつの時代にも、若い人間をおだててよい気持ちにさせ、だまして一儲けしよう、という年寄りは数多いものだ。「Webデザイナー」「クリエイター」「IT時代の旗手」などということばで持ち上げておいて、安い給料でコキ使う。そういうこと、多いですよね。

とにかく本当に数十年、IT技術の最先端でモノを作ってきた、という自負のある技術者として腹が立つのは、「日本では良いものがなぜ作れないのだろうか?」という「識者の嘆き」なんだな。「匠の時代」とか「世界のハイテクは日本が担っている」とか、そういう持ち上げ方、もうやめてくれませんか?

「もっとモノ作りを大切にしよう」とか「なぜ日本ではものを作る人が冷遇されているのか」とか、「だから日本の経営者はもっとしっかりとまともな技術者を作っていかなければならない」、そうしないと「日本の産業は廃れるばかりだ」とか。廃れさせているのは、そういう言葉でかっこよく言うだけで、まるで技術者にお金を出さない社会しか考えられなかった、あんた方だろう、って怒っちゃうわけなんだよね。

手っ取り早く「お金になる」ことばかりを考えるから「労働の質」ということなんかまるで無視してきた、その社会を是認している当人に、そんなこと言われても違和感が募るばかりだよ。

儲かることはやれ、儲からないことはやるな。そういうことでしょ?でも、技術とか科学とか言う世界はそういうものじゃないんだよ。世界的なバイオ研究の総本山であり、ヒトゲノム解析の雄であるセレラ社のクレイグ・ベンターの出身である米国のNIH(National Institute of Health)の予算は、年間で3兆円。このお金の大半を彼らは「リスクの高い、儲かるかどうかわからない研究に費やす」と、宣言している。だから、世界的な研究が生まれる。こんな環境があるから、世界的な技術や研究ができる。そういうものだよ。数々の成功例の裏には、その一千倍以上の失敗やムダなお金が費やされている。それが研究とか技術とかの世界なんだよ。

手っ取り早くお金になることしか考えられないビンボーな国、日本は、だから技術者とか研究者にお金は払おうとしないでしょ?いやまぁ、ビンボーな国に生まれたわが身の不運を嘆くしかないね。嘆くのはいやだからさ、技術や研究の成果をちょっとくらい、日本よりは数段喜ばれる外国に持っていって、小遣い稼ぎくらいしても、バチはあたらないよね?。もちろん、日本じゃ発表もしてないやつを、ね。

で、最後には「おまえらは日本を愛してないのか?」って、言うわけね。でも、人の上に立つべき経営者や政治家はどうなんだ?自分のことばっかり考えて、国なんてのは滅んでもいい、ってくらいのことしか考えてないじゃないの。どこかで儲けたお金はそのまま自分のスイス銀行の口座に入れて、税金逃れをして、なんて輩ばかりでしょ?たかが研究者や技術者の小遣い稼ぎくらい、どうってこたぁないよね。

「技術者がいないと国がつぶれる」とか「モノ作りを忘れた国家は滅びる」って?じゃぁ、何十年も前から、日本は滅びの道を辿ってる。本気で、「日本をなんとかしなきゃ」、って、そう思ってるのなら、たかだかマスコミの買収劇なんかにうつつを抜かしてないで、それに使う以上のお金を、まともなところに、もっともっと使って欲しいもんだ。

いやまてよ、こんな国、もういつなくなってもいいのかも知れないな。だったら、このまま早くなくなってくれ。おれは逃げるから。

投稿者 nori-m : 18:08 | コメント (0) | トラックバック

突っ走れ!サムソン!

IMG_2927.jpg

世界の半導体市場でトップを走る韓国企業、サムソンは米国の携帯電話の市場でも、かなりのシェアを占め始めた。日本のメーカーの製品はもうお呼びではない。そして、今度は、3GBのハードディスク搭載のMP3プレイヤーつき、カメラつきのメガピクセル携帯電話だそうだ。

ぼくは日本に住んでいるから、とか、日本人だから、というのはこのさい置いておく。そんなこと、どうもでいいのだ。そして、そういう目で世界のIT関連製品メーカーを見ると、ダントツなのが最近サムソンだ。彼らの出すこういった「家電品」のすごさは、他を圧倒している。

700万画素の解像度を持つデジタルカメラを搭載した携帯電話。そして、こういった写真データを大量に入れておき、かつ、音楽のMP3データを大量に入れておくことができる、ハードディスク搭載の携帯電話。こういった製品を次々に出してくるその「企画のバイタリティ」は、やはり見習うべきものがある。製品のスペックはハッキリ言って「過剰」だ。でも、この「過剰さ」を現実のものとしてしまうそのバイタリティは、今、日本に一番欠けている。

「冬ソナ」のブームから火がついたと言われる日本での韓国ブーム。その奥底には、日本人がこれまでの経済成長とその減速で失ってきたものをなんとかして取り返したい、という「願望」も垣間見える。日本の男が失ってきたものを、日本の女性が韓国の男優に求めている。日本の女性が失ってきたものを、日本の男が韓国の女優に見る。どっちもどっちじゃないの、というこの「不幸」は、自分で自分をなんとかしないと、なんともならないよね。

韓国を向くことは、韓国という鏡を通して、自分を見つめることだよ。

投稿者 nori-m : 15:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月11日

「天才少女」の音楽は

IMG_2772.JPG

昨年の12月にこの記事でご紹介したアルパの名手、今村夏海さんこと、「なっちゃん」のコンサートが3月10日、東京は市ヶ谷で行われた。

IMG_2731.JPG

アルパは繊細で華やかな音を出すラテン音楽で使われる「ハープ」の一種だが、国によって、地域によって、いろいろな種類がある。

彼女は、6歳にしてアルパを手にとり、15歳にしてこの音を出す。その驚きもさることながら、その驚きを、ラテン音楽界では知らない者のない大御所、「チューチョ・デ・メヒコ」氏からも奪い、在日である彼のもとでアルパの指導を受けてきた。彼女の音を聞けば、それがまさに「天才」の域のものであることが、実感できると思う。

彼女は、アルパを手にしてしばらくしたら、それを弾きこなし、とにかくどんな音楽でも、一度聞いたら、その音を正確に弾くことができる。そして、大人の出すようなアルパの音を正確に情感豊かに聞かせる。もちろん、15歳、中学生と高校生の狭間にいる年齢の彼女が、大人の恋の歌などわかりようはない。でも、彼女はそれを大人が弾くのを聞いて、大人が弾くように、再現する。

その再現のしかたが、正確なだけではなく、まさに天才とも言えるテクニックがそれを支えている。だから、ぼくらは彼女の音を聞いたとき、その素晴らしい音に惑わされる。

彼女がその恋の歌の意味をわかりかけてきたとき、彼女のアルパがどんな音を奏でるのか、とても楽しみだ。

今回のコンサートでは、チューチョ氏も彼女とともにギターを演奏し、歌った。60歳を越える年齢とは思えないその歌声もまた、今回のコンサートの驚きだった。

音楽にことばはいらない。でも、ぼくは書きたくなる。ラテンの音楽には、音楽としての「理性」「論理」の、要するに楽典で表せる部分がベースにありながら、楽典をこえて、人のこころに響く部分が、大きくあふれている。その度合いが、他の音楽よりも、もっと顕著にあると思う。

IMG_2674.JPG

投稿者 nori-m : 07:41 | コメント (3) | トラックバック

2005年03月10日

「私たち、バカじゃないからやめるんです」

PICT8428.jpg

ときどき、昔話をする。このblogでも、ときどきしてみよう、と、思う。で、今回この表題、誰が言ったものか、わかりますか?もう20年以上前の話だけれどね。なぜここにそれを書いておくか、というと、この発言はその場で聞いた人しか聞けないものだったから。この一言は、後の記録で消されたから。この声の主は「キャンディーズ」の伊藤蘭。

最初に種明かしをする。この発言をしたのは、往年のアイドル3人組「キャンディーズ」だ。場所は後楽園球場。彼女らの最後の大イベント「ファイナル・カーニバル」で、最後の曲の前に、伊藤蘭がこう言った。

「こんなにいいときにやめるなんて、君たちはバカだ、って、いろんな人に言われました。でも私たち、バカじゃない。バカじゃないからやめるんです!」

彼女のこの言葉の最後は、本当に力強かった。満場の彼女らのファンは、このことばに精一杯拍手した。

実は、ぼくはキャンディーズのファンじゃない。だいたい、アイドルグループなんてのに、熱を上げること自身が、嫌いなタイプなんだな。でも、たまたまそのファイナルカーニバルの舞台を作ったり、壊したりするアルバイトのクチが回ってきた。公演中はスタッフとして会場には出入り自由なんだが、そのこと自身は、ぼくはどうでもよかった。見たくもなかった。ぼくが大学生。二十歳のときのことだった。

だから、なんとはなしに、その公演を見ていた。そして、その公演が終わりかけるころ、彼女のこの一言が聞こえた。熱狂の渦巻く後楽園球場には場違いとも思える、明らかなその本音を力強く語ったことば。それはぼくの心に、かなり強烈に残った。この公演の前後では「普通の女の子に戻りたい」なんてことばが流行するほどだったけれど、そういうきれいごとのことばとはあきらかに違う「自分たちはバカじゃない」って、このことばのほうが、ぼくには印象に残った。簡単に言えば、それまでぼくは「アイドル」をバカにしていた。それに熱狂するやつらもバカにしていた。

でも、この伊藤蘭の一言を聞いたとき、ああ、そういうことか、と納得した。彼女らの置かれているその場所のしんどさが伝わってきた。ぼくはその自分たちの最後を飾る場で、その一言をどうしても言いたかった彼女らに同情した。

その後、大学のときの友達が、そのキャンディーズ・ファイナルカーニバルのレコードを買っていた。ぼくはそれを聞かせてもらった。「その部分」が気になってしかたがなかった。だから、最後のほうだけ、聞かせてもらった。そしたら、そこの部分は、音声が合成されて、明らかに変えられていた。「キャンディーズは不滅です」とかなんとかいう、印象深くもなんともないことばに。おそらく、レコードにするにあたって、この部分を、他の部分から持ってきた別の音声と合成したか、あるいは彼女自身に、違うことばを吹き替えてもらったのだろう。もし吹き替えが公演の後に行われたのだとしたら、彼女はどんな気持ちでそれをしたのだろう?

現場にいた人間だけが知る事実って、こんなものだよ。

そして、blogはそれを暴いていく。blogはそういう媒体でなければならない、と、ぼくは思う。素人探偵ならぬ、素人記者こそが、世の中を変えていくんじゃないかな?

もう20年以上の前の話だけれど、やっぱりちゃんと書いておきたかった。いま、年齢を経たぼくがその場面を思い出すと、涙が出てくる。きれいごとばかりで閉塞している世の中の実像を、ぼくらが暴いていく必要が、やっぱりあるんだろう。きれいごとの陰で泣く、弱い立場の人たちの声や、消された叫びを、少しでも、どこかでちゃんと記録しておきたい。そう思っている。

投稿者 nori-m : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月09日

女性トイレの落書き

PICT8766.jpg


この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。



 ぼくは、女性のトイレに入ったことがない。男なんだから当たり前だ。けれど、女性に聞くと、最近は落書きがかつてよりもかなり減ってきてきれいになっているそうだ。そういえば、だいぶ昔「女のトイレって汚いのよ」って話を女の人に聞いたことがある。

 さすがに警察官でもないぼくは、令状のようなものを持たずに入って確かめるわけにはいかないけれど、それが本当だとしたら、女性を縛っている「なにか」が、減ったから、ってことじゃないかな?

 そして、その「落書き」は、トイレからネットに変わったから、ってこともないだろうか。特に匿名で書くってことが可能なこの「ネット」という仕組みのありがたさってものは、やはりあると思う。  

 組織内告発も普通になってきているし、裁判の過程をWebに載せる人たちも増えた。前にも書いたけれど、マスコミを持てない貧乏な人たちのマスコミ。それがインターネットだ。インターネットはこの息苦しい閉塞感漂う世の中にやはり「なにか」を開放したのかも知れない。だから、みんな飛びついた。だから、みんなそこから離れられなくなった。

投稿者 nori-m : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月08日

競争社会のつまらなさ

PICT8627.jpg

これの前の記事の「ニート」の話では、競争社会がニートを産んできた、ということを書いた。でも、競争社会というものが「疑うべくもない前提」と思っている人たちに、「この社会のほうが問題だ」と言ったところで、まるで話は通じないことだろう。

社会は自分の周りにある「自然」と同じもの、という捉え方をしている以上、その自然を「変更」するなんてできっこない。だから、その自然にのっかって、そのルールに従っていかなけりゃ生きていけない。だから、社会に弓を引く、なんてできない。そういうように考える人たちはとても増えた。

え?じゃ、昔は少なかったのかって?そうなんだな。だから、世の中に活気があった。

世の中の活気は、ルールの中で作られるものじゃない。ルールを破る、あるいはルールから逸脱する、ってこと、なんか楽しくてわくわくするよね。その「わくわくさ」が今の社会はすごく少なくなってる。「電車男」のシチュエーションの根底には「モテないと決まっている男」と「ブランド好きのかわいい女の子」は、水と油で、普段は会うことさえ無い、という「思い込み」、言い方変えれば「価値観」が存在している。この価値観をほんのちょっと崩した物語として、この「電車男」は、ちょっとだけ、この閉塞した社会に開いた風穴のように見える。でも、それが「例外」として、あらたに押さえなおされるからこそ、電車男が成立しえない「普通の社会」が、再確認される。

「あれは偶然」「例外」だから、「多くの場合は、やっぱりそうじゃないよね」となる。

「例外」「偶然」。これらのキーワードを使っている限り、ぼくらは今の世の中にある「前提」を疑うことさえできないことになる。結果は「自分もまたその他大勢」となる。だからみんな「自分探し」をする。でも、なぜ自分は「自分探し」をするのだろう?なんて考えたこと、あるかな?

本当に社会に活気を与えたい、というのであれば、大切なのは、前提となるルールを疑って、壊していくことだ。でも、それは表向きの「戯言」だね。本気で言ってないね?経済を活性化させるには、いまある前提をまるで否定してからすべてをはじめる、ってことをしないと、よくならない。でも、それは今の自分たちの安穏とした日常を否定することにつながるから、言うことは言うけれども、実行はできない。

いま、人間の社会を活性化させ、生きるよろこびを取り戻す上で、本当に必要なのは、ぼくたちが寄りかかっている価値観を遠くから眺めることだ。それをするには、歴史を勉強することがきっと近道だ。そして、絶対と思っていたものが、実は絶対でもなんでもない、ということを理解することだ。

そして、「当たり前のもの」をつき崩していく、楽しいわくわくするような作業を、ぼくらはしていくのだ。そこに、新しいものが生まれていく。そういうことなんじゃないかな?そして、それは歴史が繰り返してきたことなんだな。閉塞を打ち破るには、閉塞を産んでいる価値観そのものを疑うこと、自分の内面をみつめ、そこにあるものを打ち壊していくしか、方法はない。

もし、あなたが「なにものか」になりたいのであれば、その作業をすべきうだろうね。でも、普通できないことなんだな。だから価値があるわけだけれど。

そして、「若いこと」に本当に価値があるとしたら、それは、自分というものをいつでも変えていける、というところにあるんじゃないかな?

投稿者 nori-m : 11:05 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月06日

競争社会がNEETを増やす

Golden Gate Bridge.jpg

中山文部大臣が「競争をしないからニートが増える」みたいなことを言ったそうだ。しかし、そりゃ逆だろ?と突っ込みたくなりました。

競争社会というのは、「当たり前」であって、競争のない社会は「異常」という考え方が、あちこちに蔓延しているね。でも、競争社会というのは言い換えれば「弱肉強食」を地で行く、ってことであって、究極の競争社会は、暴力と混沌、つまり文明とか文化の否定、言い換えれば、人間がこれまで「人間的」としてきたことの明らかな否定をする社会になる。

昔は「スネかじり」と言ったもんだが、最近はちょっとシャレて「ニート」というんですよ、おじいさん、なんてことは言われるまでもなく、産業社会に参加の機会を持たない、って若者が増えてきたのは事実で、それが社会問題になっている、という。でもこれもいいんじゃないのかな?だって、本当のところ、誰だってキツい競争なんてもの、しなければしないにこしたことはない、って、怠け心、あるはずだよね?それに、ニートになる、ってのは、要するに「生産」をしていく社会からはじき出されることだけれど、そんな人、昔からたくさんいたよ。これが「学校」という競争社会だったら、「登校拒否」と言うだけのこと。

いったい、誰のために競争するのさ、って、思えば、自分のためなんだという。でも、自分のために競争しなければならない、なんて実感はまず普通は持てないだろうね。それに、就業年齢になっても、産業とか競争と無縁の生活をする、って意味でニートを捉えれば、今の地方自治体の役人なんか、高い給料もらってるくせに、まともな社会参加なんかしてないから、時代の感覚とズレちゃってるよね。これなんかニート以下、って言っても誰も怒らないよ。働いてる人間の税金で食わせてもらってるのに、左ウチワのお気楽人生なんだから。いやま、ところによるらしいけどさ。

まぁ、それはともかく(ともかく、なんて言ってる場合でもない問題でもあることは重々承知してるけど)、ニートって、要するに競争する前から競争をあきらめている人、って考えたほうがいいだろう。競争をしても勝ち目はない。だったら、当面は競争しない人生を選ぶ。誰でも、勝ち目のない競争に一生懸命になる、なんて人はいるわけがない。つまり、ニートは競争社会が徹底したからこそ出てきた人たちであって、競争社会への参加を拒むことによって、自分の体やこころにともる赤信号や黄信号を敏感に感じ取って、競争社会を否定して生きる道を選んだ人たちなんだよ。もっとも、「選んだ」というよりは「選ばされた」と言ったほうが正しい。つまり、ニートは、競争社会が産んだ「オチこぼれ」であって、彼ら自身がなりたくてなったものではない。

しかしながら、オチこぼれにだって、人生がある。人と同じ欲望だってあるはずだ。でも、それが実現できないところに彼らは置かれた。競争社会への参加なんてものは、人生至上のお題目にしたくてもできないから、ニートをしているんじゃないか。

日本の競争社会そのものが、現状のように欧米流の弱肉強食社会に向かっている。「欧米」とは言うが「欧」は、既にその米国流の「人間のありかた」に疑問を呈して「ワークシェアリング」などで、「誰でもそここそ生きられる社会」を目指している。競争を抑えていかなければ、人間全体の幸福はないんだ、という考え方に立っている。

日本も、かつては「みんなそこそこ生きられる社会」だった。それを米国のやりかたにあわせてきた。結果として、弱いものは殺されたって文句は言えないんだ、という、弱者切捨ての社会を作ってきている。この競争に参加しない人間は人間ではない、と言い募り、この「強者教」の信者になることを強制する。国家権力という、強大な暴力をバックにそれを行うのだから、オウム真理教なんかよりも、よっぽどタチが悪いカルトなんだな。これは。

人間は自然の中でもともと弱かった存在だからこそ、知恵を働かせて、社会を作り、自然の中に自分たちの場所を作ることができた。その原初の昔を思い出し、弱いものへのたしかな視線を失った人間の社会は「競争こそがすべてだ」という、文明以前の世界に戻ろうとしているみたいだ。人間社会の崩壊は、きっとここから始まっているのだろう。

ニートの問題をもっと深く掘り下げ、彼らの照らす今の私たちの社会を、もう一度彼らの視線で、遠くからながめてみよう。そこに映される自らの、動物と成り下がった醜い姿を、ちゃんと直視することができなければ、おそらく人間の社会のこれからは、衰退ということばですべてを表すことができてしまうに違いない。

それができなくて、なんのための文明、文化か?なんのためのハイテクか?この「ニートという社会問題」は、本当に大問題なのだ。この競争の只中にいる、あなたにこそ、むしろ大きな問題を投げかけている。そういう問題なのだ。

投稿者 nori-m : 08:16 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月05日

サマータイムは景気を冷やす?

小石川後楽園 なんの鳥?.jpg

サマータイムを日本でもやりてー、という方々がいらっしゃるそうです。

アメリカの真似をしたいだけなんだろうな、とは思うけど、そこは子供じゃない、大人ばかり集まってる「超党派の委員会」ですから、子供が考えつかないような屁理屈を並べたり、子供ではとてもできない数字のトリックなんかが一杯出てくる報告書になってるんだね。

アメリカ、特にカリフォルニアなんかでは、毎日の出勤時刻が朝7時ごろ、ってのが普通で、その代わり、帰る時刻が午後3時台だったりする。その後は家族サービスするのが、平均的な働くお父ちゃん、お母ちゃんなんだよね。だから、午後3時くらいになると、交通ラッシュが始まります。

こういう国でサマータイムやると、ほとんど「毎日が半ドン」という状態になる。午前中は働いて、お昼が過ぎる頃からそわそわしはじめて、昼御飯食べ終わって1時間もすると、もうご帰宅。いくら堪え性がなくて、ウソついてでも気に食わないヤツに戦争仕掛ける国民でも、昼食後1時間くらいは、戦争もせずになんとか待てるらしい。この空いた時間に、平日でも明るいうちに家族サービスできるし、ゴルフに行ったりする。ちなみに、アメリカのゴルフってのは、金持ちの遊びじゃなくて、庶民の遊びだから、プレー料もすごく安い。日本で言えばパチンコかバッティングセンターみたいな感じ。

なお、かの国での「家族サービス」は、ほとんどの家庭が供働き当たり前の、かの国のビジネスマン、労働者にとっては、必須の「時間外労働」なんだね。いまや「奥様はマジョ」のあの古いかたちの米国の家庭なんてものは、まずない。要するに労働者1人あたりの所得では、家族を養えない、貧しい国なんですよ。あそこは。それに、女房の誕生日とか、結婚記念日を忘れてた、ってだけで、すぐに離婚の危機という悪魔が降臨する。「あなた、私をなんだと思っているの!」という、妻の一言は、夫にとっての最大のプレッシャーなんだな。

あと、アメリカの女の人のメンタリティって、日本人から見ればほとんど「男」なんで、表面は女性でも中身は男、と思ったほうがいい。だから、夫婦喧嘩もつかみ合いの反則出まくりのプロレスの様相を呈する。え?日本でも最近は同じだって?まぁ、あまりここいらへんのことはツッコまないようにしましょうね。お互いに。

そういう国でやってるサマータイムを、サービス残業当たり前のこの国でやると、早朝残業の時間が増えるので、貧血とかで病院にかつぎこまれる人が増える。そのため、医療機関の景気回復には、大変に役に立つ、というのが、この「超党派」のサマータイム推進する人たちの意見、。。。。ではなく、要するに、「明るい時間に遊ぶ時間が増えれば、個人消費も伸びて景気回復になる」ということらしい。

だから、サービス残業増やして、貧血の、で、病院の、ということではなくて、とにかく景気が拡大する、ってことらしい。でも、この前やった「地域振興券」みたいなのって、景気になーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんの影響も与えなかったよね。今度も似たようなものじゃないかね。

要するに「サマータイム」程度で景気が良くなる、みたいなお気楽なことを信じてる、って程度の、どちらかといえばインコの脳みそ以下としか思えない議員のあの感性をなんとかしないと、この国の景気は良くならないと思うな。

インコだって、テレビ見て、自分が気に食わない人間が出ると「バカヤロー」とか人間のことばを喋る時代なんだから、サマータイムなんて枝葉末節の話なんかでなにかが良くなる、なんて期待してないでさ、もっといろいろなことに敏感になって、ちゃんとものを考えようね。でないと、人間もインコにさえ「バカヤロー!」とか言われちゃうわけですね。

いやー、インコは偉大だわ。

投稿者 nori-m : 07:40 | コメント (4) | トラックバック

2005年03月04日

西武の報道

誕生日.jpg

まぁ、仕方のないことではあるんだが、今話題の西武グループの総帥、堤義明氏(マスコミでは容疑者)。そして、その父親である堤康次郎氏。家族の話、株などの資産の話、そして相続の話。こればっかりなんだね。

でも、普通、「西武グループの堤」と言えば、皇室とのかかわりを知らない人はいないはず。西部グループの「プリンスホテル」などの「プリンス」の意味は、そういうことにもひっかけてあるのだ。

西武グループが戦後強くなってきた裏(というか、みんな承知の事実だから、「表」か?)には皇族の威光をいかにうまく使ってきたか、ということがある。皇族の持つ土地を、戦後の混乱期に二束三文で買い上げ、お金のなかった皇族からは感謝され、自らは都内の広大な一等地を手に入れる、ということをして、そこに「プリンス」を建てた。西武グループと皇族は切っても切れない、と言われるほどの関係なのだ。

試しに、Googleで「皇族 堤 西武」で検索してみれば、それがいかに強力なつながりであったか、がよくわかるだろう。

ところが、今回の報道では、皇族とのかかわりは一切出てこない。

一部の週刊誌ではごく控えめに出ているけれど、テレビとか大新聞には出てこないね。朝の奥様番組のワイドショーなんかは完全にタブーにされてるようです。

相続のこととか、株の分散のこと、いかに堤グループが親の代から悪いことをしてきたか、いかに多くのメカケを持っていたか、という話ばかり(それはそれで大変な話ではあるんだが)で、皇族との関係は一切報道しない。それを報道しないことによって、「その関係」が、いかに深く、そして、なにがなんでも隠さなければならなかったものなんだ、ということがよくわかる。

堤義明の父である堤康次郎は、衆議院議長だった。その役職を足がかりにして、皇族との関係を「お金と土地」で持った。だから、今回のマスコミ報道では「衆議院議長」という親の肩書きについても、ほとんど触れられていない。そのあたりを報道しはじめれば、自然と皇族との関係も報道しないわけにはいかない。

おそらく、過去にさかのぼれば、1つや2つではない「堤家と皇族のスキャンダル」は、あったのじゃないか?だからこそ、犯罪者として断罪されようとしているその総帥の話を必死になってマスコミは皇族の件とは切り離そうとしているのではないか?。だから、あれほど西武グループが景気のいいときは公然とされていた皇族との関係を、今回の報道ではカケラほどもしないのじゃないか?。そう勘ぐってしまう。

いずれにしても、「堤義明逮捕」のニュースが流れる前後から、宮内庁とその周辺はざわついていただろうことは想像するに難くない。また、マスコミ各社に、なんらかの報道規制の動きがあって、それが裏で行われていただろうことも、想像に難くない。堀江氏がマスコミ企業のオーナーとなり、本人の言うように「事実を報道することが一番」というのであれば、こういうこともちゃんと報道をしてほしいものだ。

「マスコミの報道には色がついている」とよくいうが、これがその実例だ。報道をする対象を選択する(あるいはしない)ことによって、報道に色がついてしまう。この実例を、ぼくらはよく覚えておこう。

投稿者 nori-m : 08:29 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月03日

インターネットは戦略でさえない

whats6.jpg

あちこちのblogで話題になっている「ライブドア対フジ」の話で必ず出てくるのが「ライブドアは経営戦略があるけれどフジはない」みたいな話。でも、よくその内容を読んでみると、どっちもどっちだよねぇ、と思いませんか?

だいたい、「インターネット」自身がすでにハイテクでもなんでもなく、一般的なメディアの1つになったじゃないですか。「インターネット」は「テレビ」とか「新聞」とか「電話」「FAX」、そういうインフラストラクチュアとしてのメディアについた名前でしょ?

だから「インターネットとテレビを融合する」なんてのは言い換えれば「電話とテレビを融合させる」なんて言っているようなもの。これを見て「戦略」だなんて言ってる輩がチャンチャラおかしい。

「インターネット」というキーワードも「パソコン」なんて言うキーワードも、要するに当たり前のものになったからこそ、つまり先端技術じゃなくなったからこそ、庶民の手の中に落ちてきて、「見える」ものになった。だから、今の時点では、先端技術の、それこそ先端でせっせと働く技術者や研究者の手を、それは離れたもの、ということになったんだし、だからこそ、今ならば、まだ「新しく」見えるから「先端」なんていうことばで飾って、みんながまだこっちを振り向いてくれる、という時点だ、というに過ぎない。

事業としてそれがちゃんとお金を産むものであるかどうかは「それ」が「先端技術」という冠がついているかどうか、ということとはあまり関係ない。インターネットというものはあくまでインフラとしてのメディアの1つなので、その上でどんなショウバイをするか、ということが一番お金に関係してくる。こんなこと、当たり前だよね?最新鋭のトラックを買って、一番新しい高速道路を走れます、すごいでしょう!なんて、あなた、子供の遊びに使うお金じゃあるまいし。「それ」を使って、なにをどう運ぶから、こういうふうにお金が儲かります、という「事業」こそが大事なんであって、最新鋭のトラックも新しい高速道路も、その事業の材料の1つにすぎないよね。

でも、「最新鋭の」とか「先端」とか言われると、ついついクラッときて理性を放り投げちゃうだけじゃなくて、気が付いたら「投資」なんていうことばで大切な老後のためのお金まで放り投げちゃう人もまだまだ多いと思うし、だいたい普段から本当の先端技術に触れる機会もない人であれば、少々目新しい、というだけで「なにか新しいお金を産むんじゃないか?」なんて、淡くも脆い期待を抱いちゃうんじゃないかね?証券業界とマスコミがグルになって、何も知らない個人の小金持ちをだましているようなものだね。

で、その「だまし」のキーワードが、いまは「インターネット」というだけだよ。

フジサンケイグループはインターネットを使った事業戦略ができなかった、というのであれば、ライブドアは800億の借金を自社だけで一瞬でゼロにできる魔法の事業計画を持っている、とも聞かないよね。どっちもどっちなんじゃないのかね?

「インターネット」「先端技術」。そういう甘いことばがお金を産んだ世の中は、実は結構懐かしい昔話なんだよね。人類が月に行きました、でもなんか儲かったの?多大な浪費しただけじゃないの?っていうのが「事業」の世界でしょ?「投資」とか「金融」の世界でしょ?宇宙旅行を誰でもできるようにする、って「夢」の実現に、その事業収入以上の経費がかかれば、それはやめたほうがいい、ということになるよね?

夢の追求をする事業では、投資したお金は寄付と同じ。元も子も返ってこないことを前提に、お布施すべき。お金で夢を買うべき。見返りは求めないことだね。でも、実業としての事業であれば、それがハイテクであろうとなんであろうと、まともな事業計画書を見て、その現実性を検討する以外に、やることはない。

くれぐれも、インターネットとか先端技術という「ことば」に、一攫千金の夢を持たないことだね。これらのキーワードを使って、投資を促されたときは、それらのキーワードをはずしてから、物事を見るべきだ。そうでないと、あなたの老後があぶなくなります。

投稿者 nori-m : 09:08 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月02日

モバイルの条件

夜の青山通り.jpg

携帯電話を最初に買ったとき、使っていたのはTZ-803というハンディ型のアナログ携帯電話だった。バブルのころでもあって、けっこう控えめに使ったつもりではあったものの、毎月10万円近くの電話料金を払った覚えがある。

電池が1日持たないので、仕方なく電池をもう1つ買って、本体(600g以上)とともに持ち歩いた。家か会社に帰ると、充電器で2つの電池を充電した。そのとき、思ったのは「電池の持ち」ってのがモバイルでは一番大きな要素なんだな、ということだった。

アナログ携帯電話の時代の革命は、まずその大きさ、軽さで起こった。携帯電話、movaのアナログが出たのだ。カタログを見て機種を選んだが、ぼくが一番注目したのは、なんといっても電池の持ちだった。ぼくが選んだのは、電池の持ち時間が一番長い松下のアナログムーバだ。会社の他の人たちは、なにで選んだのか、他のメーカーのものを選んだ。しかし、最後には、ぼくと同じ松下のものに変更した。電源がなければ、携帯電話なんて、ただのお荷物以外の何者でもない。これは使った人間の実感だ。

そしていま、どこの会社の携帯電話でも、電池の持ちは同じくらいになった。極限まで電池の持ちを追及する、ってのは、要するに「当たり前のこと」になったわけだね。その「当たり前」の先駆は、松下だった。そして、ぼくは一昨年買ったノートパソコンも、軽量でありながら、やはり電池の持ちが業界で最高、という機種を選んだ。これもまた、松下だった。いま、ぼくはそのPCで関空で飛行機を待ちながら、このblogを書いている。気がつけば、使っているデータ通信用のPHSも松下通信工業製だ。そして、この松下のPCはよく売れている。そして、松下のPCはノートに特化し、デスクトップは現在製品として無い。

かっこいいいデザイン、豊富な機能。みんなそういうものに目を奪われることが多いと思う。モバイル機器とか、携帯電話とかでは。でも、よく考えれば、どんなにカッコいいデジタルガジェトでも、その機能があっての話だ。その機能が動いているからそのデザインも意味がある。電池が切れたら、携帯電話も、PCも、どんなにカッコよくても「ただのお荷物」なのだ。お荷物になると100g程度でも、重く感じる。そういうものだ。

東京人のぼくは特別に松下という関西の会社に思い入れがあるわけではない。むしろ、松下幸之助なんて、好きでもなんでもない。PHPなんて雑誌は、一度見ただけで捨てた。以後、読んでさえいない。日本の高度経済成長にのっかったあのジイサンのどこがいいのか、ぼくはいまだにわからない。

でも、その松下の製品を結局はぼくは使っている。最近は格好ばかりになった、と思えるようなSONYなんかの製品は、手元からだんだん減っている。外国のメーカーのものを使うことも多くなった。かつて高度成長の時代、松下は「他の会社の真似ばかりしている、マネシタ電器だね」などという悪口を言われたものだ。実際、新奇なアイデアが目立つ製品を作る会社じゃない。

モバイル機器の本質。それは「電池の持ち」だ。これをまじめに追求することなくして、真のモバイルはありえない。でも、それを松下という会社の技術者はまじめに追求した。派手なファクタではまるでないけれど、技術者としては、非常にまともな視点だ。ぼくは、目立たなくても、こういう「技術者」の本当の意味のまじめさが好きだ。なにを追求すべきか、というターゲットとなったものの「まともさ」が光っている。こういう技術がぼくは好きだ。実際、松下のPCは消費電力を低く抑えることによって、電池が小さくても長時間の使用が可能だ。だから電池を含めた重量がとても軽い。だから、ACアダプタも小さくて軽くなった。PCがいくら小さくて軽くても、一緒に持って歩くACアダプタが大きかったら、意味がないよね?。

いま、電源は燃料電池の時代が来ようとしている、と言われているけれど、報道とは裏腹に、燃料電池の出力の安定が良くないことが大変な問題になっている。これを安定させるために、従来からあるリチウムイオン電池や、ニッケル水素電池を、燃料電池とは別に抱かせなかればならない。結局、燃料電池だけではだめなのだ。この技術的ブレイクスルーの突破にはまだ時間がなかかる。こんなこと、実はそんなに報道されないよね?でも、事実はそうなんだ。現場を知っている人間だけが得られる情報、ってのものが、先端技術にはあって、それは書籍とかテレビのニュースだけ見ている一般の人には隠してあるんだよね。

そして、松下という会社の強みは、こういう「まともで地味な技術の、まともな追求」にある。あの会社の経営方針がどうだか、ぼくは興味がない。M&Aも興味がない。会社のリストラのニュースも、社長交代のニュースも、あまり興味がない。でも、うわっついたカネの話のその根底には、こういった「着実でまとも」な技術が、ちゃんとあるのだ。そして、それが実をむすぶ。

どこかで聞いたことだが、いま、SONYという会社がPCの分野で一番怖がっているライバルは「松下」だという。その意味がわかる。世の中は派手なものや、かっこいいもの、目のつけどころが良く見えるもの、あるいは若いってことだけに時代の突破口を見出すようなうすっぺらいものだけで、できているわけではない。古く、ダサく、でも当たり前のことを追求する姿勢があるかどうか。本当はそれこそが時代を変えていくのだ。

それが時代を変える技術に育つのだ。

技術の本質を知らない輩には、こういった「本物」を見る目なんか、まるでないことだろう。でも、この暗くて、ダサくて、きっとかっこいい、なんてことばからはまるで離れたものが、本当は世の中を変えていく。つまらない目先のものに惑わされ、「先端技術」などという、うわっついたことばしか知らないあなたは、不幸だ。本当の先端技術にさえ触れられない、という機会しか持ちえなかったあなたは、本当に不幸だ。どうでもいいものに目を奪われて一生を終わる「迷える子羊」であるあなたは、その不幸のただなかにある。そして、その不幸を自覚できないあなたは、もっと不幸だ。

不幸から抜け出す道はひとつしかない。自分の頭で、自分のことばで考え、自分の論理でこの世を渡っていく覚悟をすることだ。一番苦しいその道の先にこそ、本物が見える地平がある。そういうことだ。横着をしている人間、「私、幸せです」なんて言葉を無自覚に話す鈍感きわまりない人間に、この地平は見えない。

投稿者 nori-m : 19:35 | コメント (0) | トラックバック

「事実」の中身

PICT9228.jpg

この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。


 気が付いてみれば、いま、ネット上では「事実のみを伝える報道をしよう」みたいな(私に言わせれば)戯言が、多く流布しているよね。でも、偏りの無い報道とか、完全に客観的な報道、なんてありえない。

 写真を撮るときだって「視点」というものがある。同じ人物を好意的に立派に撮ろうと思えば、下から撮ればそれっぽく見える。逆に上から撮れば「見下して」撮ることになるから、その人物が小さく見える。どちらも事実を撮った写真なのに、違うように見える。

 記事の文章も同じことじゃないかな? ネットで語られる「事実」が事実ではなかったことなんて山ほどあるし「現場の実感」というものが、実は事実をちゃんととらえていないことだってある。

 「事実とはなにか」というテーマは、報道で仕事をしてきた人たちには永遠のテーマであって、昨日今日に問題になったわけじゃない。でも、ネット上で語られる「事実とはなにか」という議論は、先人の「過去の話」をまるで知らない人たちが書いているとしか思えない。自分勝手にする、ということを「事実」と勘違いしている人までいるように見えるよ。

 ネットで検索できる情報のほとんどは「ごく近い過去」ばかりだ。だから、それが世界のすべてと思い込んでしまうこともあるんじゃないかな? でも、それ以前にさんざん出された事実もまた、事実のうちだ。でも、ネット上ではその「事実」が見えなくなっている。

 ネットでものを見るとき、ネット以前の情報にも目をちゃんと向けておく必要がある。ネットで検索できない情報というものがあるのだ、ということをちゃんと覚えておかないと、無知がとんでもない結論を出すことがある。

 ネットで見えるもの。ネットで見えないもの。それを意識することが、ネットに「使われない」ための極意だと思うよ。

投稿者 nori-m : 11:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月01日

弱いひと

PICT8530.jpg

いま、ぼくたちの住んでいる社会は、みんな「人間に生まれたら強くなければならない」というメッセージにあふれている。強さを求めない人間は人間じゃない、というメッセージにあふれている。子供たちが見るヒーローものの番組然り、ライブドアとフジサンケイグループのニュース然り。でも、それってどこかおかしくないか?

人間はもともと個体では弱い動物だ。だからこそ、他の動物から身を守ることに頭を使い、なんとかここまで生き延びてこられた、という存在だ。社会を作り、集団で行動することを覚え、なんとかここまでやってきたのだ。

人間の一生だって、若いうちは誰でも強く見えるに決まっている。男ならばより力強く、女性ならばきれいに見えるに決まっている。でも、みんな歳をとる。みんな、弱い存在になる自分を受け入れて生きていかなければならない。それが人間の一生なんだな。

若くて力があるうちは、みんなそれを知っていても、どうでも良いこと、と考えている。でも歳をとるに従って、みんな弱い存在になることはわかっているのだから、若いうちに、自分が年齢を経ても、住みやすい社会を作ろう、と考えるのが、本当じゃないかな?でも、今のマスコミで流されているメッセージは違う。「弱いものは生きる資格がない」という、とんでもなく強引で単純で、粗野なメッセージばかりだ。

ヒトゴトではない。自分こそが、やがて確実に弱くなる存在なのに。

本当のことは、みんな裏側に隠れている。きれいごとばかりが誰かの都合の良いようにだけ、流されている。もう一度言うが、ライブドアの騒ぎなんてのは、そういう意味で選択された情報そのものだ。あんなことよりも、もっと大切なことがまだまだ裏に隠されている。

人間にとって、本当の「強さ」ってのは、「自分が強い存在ではない」と認めるってことができることなんだ。自分の弱さを直視できない人間が、この世の中で一番弱いのだ。

自分が病気をする。自分だけではなく、自分の本当に身近に感じている人が病気にかかる。そういうことがあって、はじめて、人間というこの弱い存在を心のそこから認識する。本当に生きている実感を得られる人生が、そこから静かに始まる。弱さを知ることこそが、本当の強さなのだと、あらためて心にきざむ。

投稿者 nori-m : 20:46 | コメント (0) | トラックバック

なぜか嫌われるあの人

PICT8767.jpg

女性に聞いても、男性に聞いてもなぜか私の周りにいる老若男女は、あの人のことを「きらいだ」と言う。なぜか理由はよくわからないが、テレビであの人の顔を見ると、とにかく「不快」なんだという。さらに、その人の友人の飼っているインコも、「かの人」がテレビに出ると「うるせぇ!ばかやろー!」と、教えてもいない日本語をしゃべるのだと言う。

IT技術者の雑談サイトに行っても「かの人」の評判はよろしくない。「かの人」が、なにか騒動を起こすたびに、「またぁ?!?!いい加減にしろよな」みたいなメッセージがあふれる。

なぜなのだろう?大変なお金持ちなのに、なにか本質的に「この人」は、人に嫌われるかなり強い要素を持っている。お金の問題じゃない、ということだけはよくわかる。

ぼくも嫌いだ。でも、だからといって「その人」を排除することはないんじゃないか?と、思う。いくら品がなくても、その人には人権がある。また、その人が、みんなに「品がない」と言われる要素があっても、たとえば近くに寄ったら少々臭くても、あまり騒ぐ必要はない。ぼくだってまた、そう言われない保証はないから、明日はわが身かも知れない。そういう人にはちゃんと接してあげたい。

「かの人」の嫌われ方は尋常じゃないのに「かの人」は、今日もテレビに出ている。もちろん、「かの人」を好きで好きでしょうがない、というファンも多くいるらしい。でもそういう人は私の周りにいない。金融を業としている人とかは、「若い力に期待したい」と、すごく持ち上げている人もいる。人気がない、というわけでもなさそうなんだが、ぼくの周りに限ってはそういう人はいない。職業がIT技術者、という人は、あの人のことを「すごく好きだ、ほうずりしたい」「彼の入ったお風呂の残り湯を飲みたい」という人はまず見ない。

「かの人」は、今日もテレビに出ている。ノーネクタイのあの姿で、ネクタイをして背広を着ている人たちと、妥協したり、喧嘩したり、テレビの画面の後ろ側の、誰も見えないところで、裏で取引をしたりしている。ちっともその仕事が面白そうには見えないけど、よくがんばっている、と思う。

でも、どんなに一生懸命やっているところを見せても、どんなにお金を持っているところを見せ付けても、あの人は嫌われている。その人の人生と同じ人生を歩みたい、とは誰も思っていない。なぜだろう?

なぜだろう?

投稿者 nori-m : 18:21 | コメント (7) | トラックバック