2005年02月04日
「産業」とはなにか

調べてみたら、昨年10月からはじめたこのblogも、既に100記事を越えていました。いやぁ、書いたもんだよなぁ、というのが実感だけれど、写真だけのときもあったからね。
ところで、平原綾香の「ジュピター」の話が貞ちゃんのblogに書いてあって、そこに、ホルストの惑星についても書いてありましたね。富田勲のシンセサイザーの多重録音でできた「惑星」は、今聞いてもすばらしい。ぼくが大学生のときだったと思う。(何年前の話だ?)
あの頃、大学生のぼくがいた安アパートの2Fに、沖縄生まれの愉快で迷惑な男がいて、あの富田「惑星」の、重低音を使った冒頭部分のロケットの推進音のところを、何度もその部屋で大音響でかける。そのとき、わざわざスピーカーを床に下に向けて置いて。その階の下にいたやつに「お!地震か!」と言わせては喜んでいたのを思い出す。
さて、今回の話はちょっと大きな視点でながめた「産業」について、だ。「ジュピター」の意味が「自分よりも大きなものを目指す」ということであれば、こんな話題もいいのじゃないかな?
ぼくらは、事業とか「産業」とか言う。天然資源を使って、なにも価値がないところから「生み出す」という言い方だね。でも、本当にぼくらは「産み出して」いるんだろうか?本当は「無」から「有」なんて生まれるのか?はっきり言うが、人間自身が自分と同じ人間自身を一から合成さえできないくせをして、なんらかのものを「産む」なんてことができるはずはない。ぼくらは「産業」なんて言って胸を張って言っているその行為は、実は「生み出す」ことじゃない。
「産業」。それは自然の生み出したものから、自分たちに必要なものだけを抽出しているだけだ。
よく、経済の観点から、云々、という話をよく聞くよね。でも、経済なんてなにほどのものだろう。よくかんがえればわかることだけれど、経済なんて人間の社会が安定しているときだけ有効なもの。天変地異も予測できなければ、普段の生活にも、そうそう簡単に役に立たない。ましてや、経済の中心とも言える、価値を生み出す「産業」さえ、実は産み出しているのではなく、あくまで自然からちょっとだけいただいている、という程度のものなのだ。
いま、バイオの世界では「投資」が盛んに行われている。ITよりも活発になる兆候さえある。でも、バイオって、自然が相手だから、実は投資の回収にエライ時間がかかるものなのだ。新薬が世に出るまでは平均で(平均で、ですよ)10年から15年かかる。IT投資とかだと、バブルの時代だと3か月で答えが出る、なんて言われたもんなんだが、そういう投資に慣れた投資家が10年も15年も我慢できますかね?普通はできないと思うよね。
いま、人間の社会に始まっていることは、実はこういうことだ。つまり、「投資」ということとか、あるいは「産業」ということ、つまり、そういう自然を基盤としたものの、大いなる崩壊なんだな。良い例が、石油だ。石油の埋蔵量世界一、ということで狙われたイラクでさえ、あと50年くらいしかもたない。つまり、「産業革命」という名前の「エネルギー革命」、別の言い方をすれば、「エネルギー資源なんてタダでジャブジャブ使えるもんなんだぜ!」という社会の、ぼくらが「成長」の基盤としてきたものの崩壊なんだな。
昔、マルクスは資本論で「資本家の考えていることはこういうことだ。つまり、我が亡き後に、洪水よ来たれ!、ということだ」と書いている。わかるかな?「産業」とか「資本」「投資」なんていう、人間の長い歴史のなかで、たかだかこの200年くらいにできた「成長」は、もうそろそろ終わりにちかずいているんだよ。
産業革命以後にできた経済学。その経済学者の言うことがあたらないわけだよね。\n\n
「貞ちゃん」、あなたとあなたの連れ合いの方、そしてその周辺の「経済」を生きている人たちは、実はまだまだ近視眼だと、ぼくは思う。そしてそれしかできなかったのだ、と思う。自然を相手に、蟷螂の斧と知りつつ、その斧を振り下ろす「自然科学」の世界に、ぼくは昨年から足を踏み入れたのだけれど、ここで見聞きしたことは、本当に衝撃だったよ。
人間なんて、なにほどのものか。
そのニヒリズムを深く深く、こころに刻んでこそ、ちまちました人間の世界を、本当にはじめて語れるのだと思うよ。
いくらがんばっても、人間は偉大ではなく、なにもできない。それが現実なんじゃないかな?そのなかで、せいぜいちまちました命の灯をともす。だからこそ、人間一人の存在が輝く。生きていること、愛すること、死ぬこと。みんなひとつに思える。
人どうしの関係でも、自分の存在なんてなにほどのものか、と思うようなこころの大きさを持つ人が、やはり尊敬に値するひとだったよね。人間自身が、実はそういう存在にならなければ、この時代を生きていくことは、実はできないんじゃないか?「ポジティブ・シンキング」とか「前向き」ということばに象徴される「傲慢」は自分の身を滅ぼすだけじゃないのかな?経済なんてなにほどのものか。やがて崩壊することはわかってる、柔な基盤の上に立っているものでしょ。今すぐにでもなくなってもおかしくないね。
静かに、確実に、見よう。ことを進めよう。結局、それだけが、ぼくらのできることなんだろうね。経済というものへの、人間の営みへのニヒリズム。それが本当に必要な世の中になったのじゃないのか?
方丈記だったかな。「死ぬときは死ぬのがいいんだ。それが一番の世渡りの方法だ」って、言ってたよね。まさしく、至言だとぼくは思うよ。いま、世界はそういうところまできている。そう、ぼくらは、自然のまま、死ぬときには死んでもいいものなんだな。
投稿者 nori-m : 2005年02月04日 18:41