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2005年02月26日
「ふぞろいの林檎たち」の話

放送作家の山田太一氏のエッセイ集に「逃げて行く街」というエッセイ集がある。実はぼくはこのエッセイ集がとても好きだ。彼には「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」などの秀作が多いが、その「ふぞろいの林檎たち」のことについて書かれた1983年のエッセイがぼくは一番好きだ。
ぼくは最近あまりテレビを見ない。でも、その原因の1つは、あきらかにテレビがつまらなくなってきたからだ。
山田太一のエッセイ「ふぞろいの林檎たち」から一部を引用する。これは、番組のために、山田氏自身が取材した、精神病を病んだと言われ、病院に入った若者と、山田氏自身が交わした会話だ。その若者は大学を出て仕事の世界に入ったそのとき、精神病を病んで、ずっと病院に入っている。
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「なんか」と私は言った。「時代が変わったって感じだなあ」
「時代でしょうか?」と彼は顔を上げた。
「テレビが変わっただけじゃないかなあ。学歴がものを言うのは同じだし、三流大学は三流会社へっていう扱いも変わってないし」
「テレビだけが変わることはないと思うな。やっぱり時代が変わったんだ。みんなそんなことを意識したくなくなった。ましてや不当だなんて怒ったりするようなダサイことはできなくなった。テレビドラマがリアルに現実を描くなんてことはやめて貰いたいというようになった。現実を何十分かまぎらせてくれればいい。目をそらせば忘れられていられるようなことを気つかせてくれるな、というようになった」
「違うと思うな」彼の顔が少し上気したように赤くなった。「なになに問題を描くとか、何かに抗議するとかいうテーマが前面に出たドラマが時代からずれただけのことだと思うな。それを視聴者は気ばらししか求めていないって錯覚するのはいけないんじゃないかな?やっぱり細かな現実に光をあてるドラマは求められてると思うし、自分の現実感をゆさぶられるような作品を求めているし、そういうものを書かなくちゃいけないんじゃないですか?」
その通りだと思った。こんなに生真面目でちゃんとものを考えてる青年が、何故選別された段ボールに入れられ、揺さぶられて運ばれ、ザルに入れられて、「ふぞろいの林檎」だと安売りをされ、さらに点検されて、こんな精神病棟にいなければならないのか?
「書き方なんだな。ほんとうに、そうなんだ」
「ふぞろいのパートⅢを書いてください。結婚とか親になるとか、独りで生きるとか、臆病とか、ぎっしりいろんなことがあると思うな。それを、ありきたりじゃなくて、あっというような光のあて方で描いて貰いたいな。あの登場人物たちは、それを待ってると思うな」
嬉しかった。「今日は、なんなんだ?こっちが励まされて、どうするんだ?」
入るときはなんて陰気な病院だと思っていたのに、一時間半ほど話して帰るときには、病棟から受付のある建物へ行く渡り廊下を、私はトントンと元気にすのこの音を立てて渡った。
「山田さん」
背後で彼の声がした。少し声が離れている。すぐ後ろを来ていると思っていた私は、振り返って、渡り廊下の途中に立っている彼の姿にどきりとした。とても孤独に見えた。
「患者はここまでなんです。そっちへは行けないんです」
患者?君が患者だって? どうして君みたいにいい青年が、患者だなんて言えるんだ?
逢っている間、少しもおかしいところはなかった。礼儀正しくて素直で親切で、こっちの方が余程、おかしいくらいだ。しかし、その彼が営業の世界にほうりこまれると、死んでしまいたいくらいの自己否定の海につきおとされる。こういう青年をただ弱い人間だとおとしめて、会社というのは金が儲かればいいのか?
彼の傍まで戻り、
「今日はありがとう」とつとめて静かにいった。
「それはこっちです」
彼も微笑した。
「退院したら、渋谷かどっかで、夕御飯を食べよう」
「天ぷらがいいです」
「天ぷらにしよう」
「パートⅢ、いいものにしてください」
「ああ---」
まだ局にそんなことは話していないし、実現するかどうか分からなかったが、いいものを書こうと思った。
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いまの世の中の、おそらくエリートでもなんでもない「普通の底辺の若者」を描く彼のやさしいまなざしが、ここにある。さらっとした彼の描写が、心地よくこころの中に入ってくる。いま、テレビとかのマスコミが、本当はなにをしなければならないか、ということの大変に重要な一面が、ここに描かれていると、ぼくは思う。
普通の人や弱い者へのやさしいまなざしを忘れ、普通の人でさえも生きられない社会に、いまぼくたちは向かっているように見える。それをいたし方ないことだ、とあきらめてしまうのではなく、それぞれがそれぞれの立場で、なにかを始める必要があるんだろう。
「何者かになる」ことをあきらめざるを得ない人間に向けたことばを、今のマスコミは失った。そのことばを取り戻すことができるのは、新興の堀江か?それとも古いフジのおじさんたちか?今の騒ぎを見ている限り、きっとそれはどちらでもないだろう、とぼくは思えるのだ。上ばかりを見させられているぼくらは、やがて自分の足元が見えない、幽霊のような希薄な存在に成り果てていくのではないか?
弱いもの、小さなものに向けたやさしいまなざしを必要としている人間が、今ほど多い時代はないのに。
同じ、エッセイ集の中で、山田太一はニーチェのことばを引用している。
「いつかは、自分自身をもはや軽蔑することのできないような、もっとも軽蔑すべき人間の時代が来るだろう」
いまの日本が、その時代ではないことを祈りたいのだが。
投稿者 nori-m : 2005年02月26日 20:46