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2005年02月18日

「少子化」という前提を疑え

Yosemite 水遊び.jpg

少子化議論、というのもテレビとかのマスコミを見ていると、「第二段階」に入ってきたな、という感じがします。つまり

第一段階は「少子化ってものがあるんだ、たいへんだ!」です。

第二段階は「では、その少子化にわれわれはいかに対処すべきか?」

と、なります。

当然のことですが、この第一段階での「認識」が、社会的に誰も疑うべくもない認識として定着したのではないか、ということを見計らって、「第二段階」の言い方が出てくるもの、と普通は思いますよね。

でも、違うこともある。たとえば新人歌手のまだ知られていない歌を売り出すとき、「絶賛発売中」とか「ミリオンセラー!」とかやるでしょ?新人の新しいものなんだから、売り始めたそのときに、そんなにたくさん売れてるわけがない。でも「絶賛」とか「ミリオンセラー」とか、あんた、いつ、それ、誰がそう言ってんのさ、という書き方、あるよね。

「おまえ、これ、売れてるんだから、おまえも買え!(でないとあなたはこの社会から捨てられるよ)」というメッセージがそこに聞こえるみたいですよね。でも、本当に「いま」売れてるのかというとそういうわけではなくて、売れていないものを売るためのの「方便」として、こういう「先取りした言い方」が使われるわけです。

少子化議論もまさにそれですよね。「第二段階」の議論を盛んに盛り上げれば、「第一段階」の議論は、既に疑うべくもない大前提、ということになる。役人とか政治家とか、そういう人たちにはまず「第一段階」の話はあまりせず、いきなり「第二段階」の話を持っていく。すると、「第一段階」は疑うことを許されない大前提になる。結果として、「第一段階」が本当に「おそるべきこと」であるのかどうか、という検証もなにもなしに、うやむやに「追認」されてしまう。あらためて踏みなおされる、という言い方もあるな。

少子化議論で一番怖いのは、その論争の中身ではなく、こういった話の進め方なんですね。

いつまでも、「前提を疑う」ことなしに、知的な議論というものはすすみません。本当にいま、自分の立っているところが正しい位置であるのか?ということについて、ちゃんと疑う目を常に持っていないと、いつでも自分のことばが、どこかで聞いたような、他人からの借り物になってしまう。それは説得力を持たないだけではなく、自分自身の持つ考えを捨てて、安易な議論に流れる可能性があるものだと思います。学校の優等生に多いよね。こうやって流されるのは、ね。

栄枯盛衰は世の常です。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と、白人のジイサンに持ち上げられて浮かれているうちに、日本は世界的に「どうでもいい国」になっています。私はここ20年、仕事で海外に行くことが特に多かったのですが、ここ数年は特にそれを感じます。日本の国内にいると、どこかにまだ「日本は世界でもたいした国の1つなんだぜ!」みたいな雰囲気が漂っているので、よくわからないかと思うのですけれど、いったん外に出ると、「日本なんてこんなもんなんだねぇ」という場面に多く出くわすのです。

一例をあげれば、いま、ブームのお隣の韓国だと、たとえば、5年前だと、夜の繁華街を歩くと、必ず呼び込みのお兄ちゃんが「だんな、良い娘いますぜ!」と日本語で話しかけてきた。でも、今はその呼び込みのお兄ちゃんは、カタコトでさえ日本語を知りません。使う場面がなくなったからです。日本人はお金を落とさなくなったんですよね。

昨年、スタンフォード大学の将来を嘱望される優秀な学生たちと話をしたことがあります。彼らに「日本ってどう思うか?」と聞いても「さぁ」という感じです。「じゃ、日本ってどこにあるか知ってる?」ってきいても、「ここかなぁ」と指差したところは「インド」だったりします。ほとんど全員がそういう感じ。加えて、そういう米国の優秀な大学のトップの学生はほとんど白人はいませんが、日本人も全くいません。だいたいが中国人とかになります。

中国人のプログラマの仕事の管理をしたことがあります。たいへんに優秀です。月5万円くらいの給与で、日本人のプログラマが1年かかる仕事を、彼らは2か月ほどでこなします。これが、普通の「あたりまえ」なのです。特に優秀、というわけではないプログラマが、この水準なのですね。

まぁ、小さいことかも知れませんけれど、どこに行っても「日本」なんてこんな扱いです。世界的な存在感が既に無きに等しい。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から、お日様が沈んで「陽はまた昇る」と、期待せざるを得ない状況になるまで、本当にまっしぐらのジェットコースターみたいだったですね。このところ遊園地で絶叫マシンが流行る意味が、なんだかよくわかったような気がします(←ちがうとは思いますが)。でも、本当は昇る陽はこれからもうだいぶ長いあいだ、ないでしょう。いま、アジアとは中国と同義です。いまは、アジアの時代=中国の時代です。

「日本の少子化は実はたいへんなことではない」というメッセージは、この「貞子ちゃんの釣れ釣れ日記」にも、紹介されている、

ここ

にも、じっくりと書いてあります。是非、ご一読をされることをおすすめします。

栄枯盛衰はあるのです。華やかだった頃を懐かしんで、渋茶をすすりつつ漬物をつまみつつ送る、しょぼしょぼとした老後だって、実は悪いことはないですよね?莫大な借金で子孫が苦しむ。そんなことわかっていたのに、借金したっていいじゃないか、と、突っ走ってきたのが、今までのこの日本だったのですから、借金をしたあとには、生活苦が待っていることくらい、当然のことでしょう。生活苦がいやなのは誰だって同じです。でも、その「いやなこと」を子孫に押し付けて、じぶんたちだけ良い思いをした(している)ジイサンバアサンたちがいた(いる)んですね。浪費放蕩癖のある親を持った子の不幸、ってなもんですな。そんな親はさっさと勘当して、まだいくばくかはある年金も大幅に減らして、責任を取ってもらいたいもんだけどね。だって、その年金、もともと借金の一部だよ。

で、それをなんとかうやむやにするためには、経済成長を続けていきたい、と、まぁ、こうなる。もうかっているうちは、借金も財産のうち、と思えるくらいにしたい。だから、少子化で人口が減るのは、経済成長したい人、借金をなんとか隠したい人には、たいへんな問題になる。消費が減れば生産が減る。全体のお金の量が減るんだもの。

でもね、ものごとには「考え方」ってものがある。内田百閒先生みたいに、金は天下のまわりもの、って言いながら借金しまくって死んじゃったじいさんと、高度成長期-バブル期を通してうかれまくった連中ってのは、結局同じでしょ?「生産」というのを、なにか「価値を作っている」と思い込んでいるか、それともそう思わないか、だけの差だよ。借金なんて思わないで、「もらった」と思って、「使っちゃう」ところ、似てるでしょ?今の日本人も、百鬼園先生も。要するに経済の原則なんて、誰も大事にしてない、ってことさ。上から下まで。だから、「経済」そのものの崩壊は来るよ。間違いなく。

いま、ぼくたちが本当に気がつくべきは、経済ってものを根底から支えているものが、どういうアブナイ思想か、ってことなんじゃないかな?それを知らずして、人間の次の歴史はありえないと思うよ。そしてね、なによりも「普通の人が普通に楽しく暮らせる」社会も、そこに気がつくかどうか、ってことにかかってるんじゃないかな?

そのためにも、前提を疑え!ってことは、実は大切なことなんだと思うよ。

投稿者 nori-m : 2005年02月18日 07:04

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