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2005年02月28日

都心の小学校はいま

小石川後楽園 白梅と紅梅.jpg

私の子供の通う小学校は東京は山手線の内側にある。子供の数はとても少ない。一学年一学級である。この区の子供たちはすべて「防犯ベル」が支給されていて、また、子供たちと親の数が少ないぶん、「子供を巻き込む事件」への対応がかなり徹底している。

先日も、それらしい悪い大人が子供を連れ去ろうとして、未遂に終わっている。すでにそういうことがこの1年で数件あった。ここいらはどちらかというと、お金持ちが住んでいる、と、思われやすいところなので、いっそう、そういう人たちも増えるんだろうと思う。

しかし、こういった不況になると、どこかで一発あてる、などという妄想に取り付かれるやつはいっぱいいるんじゃないか?悪いことに手を染めてでも、という尾ひれつきでも。そして地域社会と学校は、もともと人数が少ないから、寄り添うように、こういった問題に対処している。それが、地域の親たち、子供たち、そして、先生方や警察などの公共機関の人たちにも浸透している。

この状況を見るにつけ、少子化って、本当は悪いことじゃないよな、と思い始めた。子供が多ければ、子供に目が行き届かない。でもいまは、高学年から低学年に至るまで、先生や地域の親の目も行き届くばかりではなく、子供どうしも、学年を越えて友達になっている。

さらに、少々ぼろでも、子供たちが使うことのできる「インフラ」が、大人数の学校の頃のものがそのまま残っているから、とても余裕のある授業ができる。広大で豊富な蔵書を持つ図書室。下手な美術学校顔負けの美術専用教室。音楽室の楽器の数は本当に多い。さらに、教室が余っているものだから、「給食はこちらの教室でしましょう」「国語と算数はこの教室でやりましょう」なんてことができる。図工で作りかけの作品をその教室に置いたまま、他の教室で別の授業ができる。もちろん、集中管理のシステムと、立派なレーザーカラープリンタを備えたパソコン教室もある。もちろん、教育目的があるので限定的だがインターネットの接続もできる。

もちろん、教室は冷暖房完備。体育館と集会場は教室棟と建物自身がつながっていて、簡単に体育の授業が雨の日でもできる。聞くところによれば、けっこう有名な建築家の作になる校舎だそうだ。

英語の先生もNative Speakerの先生がやってくる。各国の大使館も近いので、先日は某国の大統領夫人が表敬訪問にやってきて、子供たちと交流を深めた。そして、子供たちの数が少ないから、みんなその大統領夫人と握手してきたそうだ。

これ、どこかの私立の学校の話じゃなくて、普通の公立の小学校での話なんですよね。親から見れば、まさに少子化の恩恵を最大限に、今の子供たちは受けていると思う。この有り余るインフラと、有り余る地域のサポート、有り余る親や先生や地域の公共機関のサポート。

だからこそ、「変な大人」を子供自身が撃退できた。

どこを見ても少子化に対する悪口ばかりを見るけれども、少子化って悪いことばかりじゃない。それはそれで、やり方があるんだ、というところに、みんな立ってほしい。なぜって、「少子化」そのものを止めることは、おそらくすぐには無理な話だからだ。また、人口が多ければよい、というのは、税収ばかり考えているからだろう。少ない収入であれば、少ないなりにやっていく。個人でも企業でも国家でも、これは同じはずだ。ただ、収益が拡大の方向を向かないと、将来を見据えての「投資」が仕事である金融業が困る。だから、こういう時代には金融業や株投資は衰退していく運命だから、それは仕方ないけれども、それだったら、金融業以外に転職するといいと思うよ。

防犯もまた、地域の「余裕」がそれを可能にするし、地域や行政、公共機関のサポートがそれに厚みを与える。ここにいると、そういう感じを深くする。そして、日本中が少子化になってくるとしたら、みんなそういう余裕も出てくるんじゃないかな?

防犯の一番の決め手は「人」なんだね。結局。だから、人を育てていく余裕がないと、防犯もまたいくら教育しても効果がない。

もうひとつ言っておくと、寝屋川の事件などはもっともっと「ダシ」に使って、地域社会の結束とかを図るきっかけとして使うことが、本当は良いのじゃないか?国共合作とか、どこかの団体のやりかたじゃないが、「共通の敵」を作れば、それは味方の結束に使えるのだ。そして、この都心のこの地域は、その通りにことが動いている。ばらばらだった地域がひとつにまとまり始めている。

投稿者 nori-m : 22:22 | コメント (0) | トラックバック

消えるPHS

小石川後楽園 メジロと梅.jpg

結局、 NTT-DoCoMoはPHSサービスを止めちゃうんですね。不採算の赤字垂れ流し事業だったから、いつかはこうなると思っていましたけれど。

PHSはもともと、PHP(Personal Handy Phone)という名前で始まり、サービス開始のちょっと前に、なにか他のものと名前を間違われるとまずい、という理由があったかどうかは知らないが、PHS(Personal Handyphone System)ということになった。当時の言い方は「携帯電話は高い。だから、安い携帯電話を作る。内容は、コードレスホンが街頭に出たようなものだ」という感じだった。

なぜPHSのほうがコストが安いと言ったか、というと、その基地局の出す電波が非常に弱いために、より広い範囲をカバーできない反面、基地局にかかるコストは安く済む、ということが根拠だった。実際、PHSサービスを始めた最初の会社である「NTT パーソナル」のTVCFのキャッチフレーズは「みんなを電話にする会社」だった。出てたのはとんねるずだね。

しかしながら、フタを開けてみると、携帯電話そのものがどんどん低価格化していき、しまいにはPHSとの価格差がなくなってしまった。PHSは原理上データ通信で優位になれる、ということで、データ通信に特化してきたが、それもまた、携帯電話網でもかなりまともで安いデータ通信が使えるようになってきた。

もっとも、旧DDI Pocket、現WILLCOMは、PHSのまま、データ通信のみに特化し、現在のADSLのプロバイダのように「月額の通信料金一定額」のサービスをはやいうちから打ち出し、大変に多くのユーザを獲得している。PHSの生きる道はあったのだが、NTTという会社の体質が、その道に入ることを拒んだ、という感じだね。

いま、先端技術だとか、あるいは先進的なサービスだとかいってもてはやされているものが、いったいいくつ、この先残ることになるのか?本当にわからない。そして、これからはその成功率が下がっていくことも、どうやらたしかなことだ。なぜならば、地球全体の規模で言えば「お金」は減ってきているのであり、世界的な不況のこの先はまだ見えていないからだ。

こんな時代に「個人投資」を声高に言うのは、要するに企業が行う投資が減ったため、証券会社が個人に投資先を求めてきているからだ。銀行も同じで、個人の預金をあてにしはじめている。そして、それらの「投資」はやがてこの「PHSへの投資」のように、消えてなくなる確率がどんどん大きくなっている。

本当は、もう株で儲かる時代ではない、ということを、みんな知っている。だから、知らない人間に「株をやりましょう」ともちかけるしか、証券市場を維持していく方法はない。プロは、割のあわないマネーゲームから手を引き始めている。

ライブドアの買収騒ぎの盛り上がり、ってのも、要するにそういう時代に、個人の投資家の目を引ける存在だからに他ならない。マスコミの操作なんてあるに決まっている。

その戦いが熱ければ熱いほど、ぼくらはそれを冷静になって、もっと大所高所から見る必要がある。いま、そして、これからという時代は、一般的な投資というものが競馬ほどにも儲かる時代ではなくなっているのだ。そして、その先、人類はどうしていくか、をまた真剣に考えなければならない時代なのだ。

投稿者 nori-m : 20:56 | コメント (2) | トラックバック

2005年02月26日

いい加減にしてくれよ「ゲーム脳」

勝鬨橋夕景.jpg

またまた出ました、「ゲーム脳」森昭雄日大教授の「トンデモ発言」。で、これに対する反応はこれがわかりやすい。そしてまた、この小学校のレポートが、とても面白い!

まさに、自閉症という病気に関する偏見を元にしたトンデモ発言なんだが、これを「大学教授」が「小学校の講演会で」やるってことが、大体信じられない。

日大という大学は、要するにこういう教授ばかりなのか、ということじゃ、あなた、この少子化の時代、大学はみな経営のために学生の数を必要としているのに、これじゃ学生が逃げていくよね。

今の学生はネットなんかでこういうことはちゃんと調べているものなんだから、それを甘く見ちゃいけないね。

マスコミも、「面白いから」「視聴率が稼げるから」って、この「大学教授」のヨタ話をコピーしてばら撒いてばかりいると、あちこちのblogとかで叩かれて、やがてディレクターとか担当者のクビが飛ぶ、なんて事態にもなりかねないね。

しかし、日本の大学の先生、ってこのレベルなんだよね。いや、日大だからかな?でもぼくのトモダチの日大出は、下手な東大出よりも頭いいし、鋭いがなぁ?。

とにかく、今回の問題はあの「森教授」が、あってしかるべき知識が無い、ということや、調べて話すべきことを調べずに話す、という次元にとどまらない。森教授の発言は、「自閉症」という、明らかにかなり解明されつつあるこの疾病について、また、その患者に対しても、明らかな「偏見」をぶつけたのみならず、これまでの自閉症に対する学問成果を一切無視するような、心無い発言をした。

「自閉的な傾向を持つ子供は」という言い方であれば、ぎりぎり許されたかも知れないが、はっきりと「自閉症」と言い切ってしまった。単なる勘違いであれば「発言が間違っていた」などの訂正をすべきだろう。

しかし、大学教授であり、書籍を出すほどの人であり、さらに「医学博士」という肩書きがある以上、その医学知識について間違ったことを発表してしまったことの責任は重いといわなければならない。

投稿者 nori-m : 23:45 | コメント (0) | トラックバック

「ふぞろいの林檎たち」の話

雪の日の花.jpg

放送作家の山田太一氏のエッセイ集に「逃げて行く街」というエッセイ集がある。実はぼくはこのエッセイ集がとても好きだ。彼には「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」などの秀作が多いが、その「ふぞろいの林檎たち」のことについて書かれた1983年のエッセイがぼくは一番好きだ。

ぼくは最近あまりテレビを見ない。でも、その原因の1つは、あきらかにテレビがつまらなくなってきたからだ。

山田太一のエッセイ「ふぞろいの林檎たち」から一部を引用する。これは、番組のために、山田氏自身が取材した、精神病を病んだと言われ、病院に入った若者と、山田氏自身が交わした会話だ。その若者は大学を出て仕事の世界に入ったそのとき、精神病を病んで、ずっと病院に入っている。

---

「なんか」と私は言った。「時代が変わったって感じだなあ」
「時代でしょうか?」と彼は顔を上げた。
「テレビが変わっただけじゃないかなあ。学歴がものを言うのは同じだし、三流大学は三流会社へっていう扱いも変わってないし」
「テレビだけが変わることはないと思うな。やっぱり時代が変わったんだ。みんなそんなことを意識したくなくなった。ましてや不当だなんて怒ったりするようなダサイことはできなくなった。テレビドラマがリアルに現実を描くなんてことはやめて貰いたいというようになった。現実を何十分かまぎらせてくれればいい。目をそらせば忘れられていられるようなことを気つかせてくれるな、というようになった」

「違うと思うな」彼の顔が少し上気したように赤くなった。「なになに問題を描くとか、何かに抗議するとかいうテーマが前面に出たドラマが時代からずれただけのことだと思うな。それを視聴者は気ばらししか求めていないって錯覚するのはいけないんじゃないかな?やっぱり細かな現実に光をあてるドラマは求められてると思うし、自分の現実感をゆさぶられるような作品を求めているし、そういうものを書かなくちゃいけないんじゃないですか?」

その通りだと思った。こんなに生真面目でちゃんとものを考えてる青年が、何故選別された段ボールに入れられ、揺さぶられて運ばれ、ザルに入れられて、「ふぞろいの林檎」だと安売りをされ、さらに点検されて、こんな精神病棟にいなければならないのか?
「書き方なんだな。ほんとうに、そうなんだ」
「ふぞろいのパートⅢを書いてください。結婚とか親になるとか、独りで生きるとか、臆病とか、ぎっしりいろんなことがあると思うな。それを、ありきたりじゃなくて、あっというような光のあて方で描いて貰いたいな。あの登場人物たちは、それを待ってると思うな」
嬉しかった。「今日は、なんなんだ?こっちが励まされて、どうするんだ?」
入るときはなんて陰気な病院だと思っていたのに、一時間半ほど話して帰るときには、病棟から受付のある建物へ行く渡り廊下を、私はトントンと元気にすのこの音を立てて渡った。
「山田さん」
背後で彼の声がした。少し声が離れている。すぐ後ろを来ていると思っていた私は、振り返って、渡り廊下の途中に立っている彼の姿にどきりとした。とても孤独に見えた。
「患者はここまでなんです。そっちへは行けないんです」
患者?君が患者だって? どうして君みたいにいい青年が、患者だなんて言えるんだ?
逢っている間、少しもおかしいところはなかった。礼儀正しくて素直で親切で、こっちの方が余程、おかしいくらいだ。しかし、その彼が営業の世界にほうりこまれると、死んでしまいたいくらいの自己否定の海につきおとされる。こういう青年をただ弱い人間だとおとしめて、会社というのは金が儲かればいいのか?
彼の傍まで戻り、
「今日はありがとう」とつとめて静かにいった。
「それはこっちです」
彼も微笑した。
「退院したら、渋谷かどっかで、夕御飯を食べよう」
「天ぷらがいいです」
「天ぷらにしよう」
「パートⅢ、いいものにしてください」
「ああ---」
まだ局にそんなことは話していないし、実現するかどうか分からなかったが、いいものを書こうと思った。

---

いまの世の中の、おそらくエリートでもなんでもない「普通の底辺の若者」を描く彼のやさしいまなざしが、ここにある。さらっとした彼の描写が、心地よくこころの中に入ってくる。いま、テレビとかのマスコミが、本当はなにをしなければならないか、ということの大変に重要な一面が、ここに描かれていると、ぼくは思う。

普通の人や弱い者へのやさしいまなざしを忘れ、普通の人でさえも生きられない社会に、いまぼくたちは向かっているように見える。それをいたし方ないことだ、とあきらめてしまうのではなく、それぞれがそれぞれの立場で、なにかを始める必要があるんだろう。

「何者かになる」ことをあきらめざるを得ない人間に向けたことばを、今のマスコミは失った。そのことばを取り戻すことができるのは、新興の堀江か?それとも古いフジのおじさんたちか?今の騒ぎを見ている限り、きっとそれはどちらでもないだろう、とぼくは思えるのだ。上ばかりを見させられているぼくらは、やがて自分の足元が見えない、幽霊のような希薄な存在に成り果てていくのではないか?

弱いもの、小さなものに向けたやさしいまなざしを必要としている人間が、今ほど多い時代はないのに。

同じ、エッセイ集の中で、山田太一はニーチェのことばを引用している。

「いつかは、自分自身をもはや軽蔑することのできないような、もっとも軽蔑すべき人間の時代が来るだろう」

いまの日本が、その時代ではないことを祈りたいのだが。

投稿者 nori-m : 20:46 | コメント (0) | トラックバック

資本主義じゃないなんて当たり前

自然教育園 むくどり.jpg

日本が資本主義じゃない、なんて当たり前だよね。戦前からある財閥、その前からある藩閥、みんなひとつになって、えんえんとつながってきた歴史じゃないか。かつての細川政権の細川首相だって、結局は戦国時代から続く細川家だったですしね。日本はそういうもの、引きずってる。そんなの、当たり前すぎるほどの当たり前。

だから、欧米流、特に米国流の資本主義がそのままの形で日本に根付くわけもない。「いやなものはいやだ」で、終わり。「武士は食わねど高楊枝」なんだから、資本の論理だけでお金が動くことはない。だから「カネは天下のまわりもの」と言うんだよ、古くからね。結局いくらカネを持っていても「イヤなヤツにはいい思いをさせてやらない!」という嫉妬心とかで世の中が動く、なんて当たり前中のあたりまえだよ。資本主義どころか、民主主義でさえない。

そんな世の中を変えたい、って?じゃ、ホリエみたいな中途半端な資本家なんかにあんなことさせても無駄だよ。ちゃんと政治家も官僚もすべて取り替えるくらいの革命を起こして、今の政府を転覆させるほどのことをしないと無理だね。そうなると、死ぬ人もたくさんでるよ。戦争しないといけないね。郵政民営化で火花散らしているように見える自民党だって、どこかで妥協はじめるもんでしょ?まぁ、見てなさいな。

ホリエは商売人だから、戦争を起こして元も子もなくなるような真似はしないよ。だから中途半端な改革者で終わる。そして、それはそれでいいことなんだよ。本当の改革者は世の中の価値観そのものを入れ替えることも辞さない。それによって誰が死のうと躊躇なんかしないよ。自分の親族でさえ、ね。ポル・ポトとかかつてのサダム・フセインみたいにやっちゃうわけです。

資本主義の大前提として「人はお金でなんとでもなる」という価値観がある。たとえば、お殿様とか王様がどんなに落ちぶれても、給料も出ないのにそれについていく執事なんていう「職業人」なんかはあってはいけない。でも、現実には、そういう人、いたりする。そんな方々は改革者が抹殺しないとね。資本主義を徹底させる改革者ならさ。

さあ、「日本に本物の資本主義を根付かせる改革だ!」なんて言う諸君。やるなら徹底的にやりたまえ。誰が死んでも躊躇するな。自分や自分の家族の命を落としても、それは改革のためなんだから、本望と思え。

普通、そこまでできないよね。ぼくもしない。でもここまでやらない、やれない改革者は「改革」を単なるショウバイのネタとして使っているニセモノ。偽善者。あるいは、その程度でもなにかできる、と思ってるアホ。これのうちどれかだね。

投稿者 nori-m : 11:43 | コメント (2) | トラックバック

「この人、違うよなぁ」というつぶやきが聞こえる

自然教育園 からす.jpg

オウムの報道などでおなじみの江川昭子さんの江川昭子ジャーナルに、「あの」ライブドアのホリエ氏のインタビューが載っている。江川昭子さん、このインタビューでホリエ氏を持ち上げているわけでもなければ、こき下ろしているわけでもない。でも。。。

彼女はライブドアの作る「マスコミ」に、賛同もしていないが、否定もしていない。じゃ、彼女はどう感じているのか?あえて言えば「絶望」しているのかもしれない。

思うに江川さんという人の持つ「あるべきマスコミ像」というものと、ホリエ氏のそれは全然違っている。このインタビューで見えるのは、「殺す」だとか言うエキセントリックなことばのもたらす効果、なんてことじゃなくて、江川さんというある意味まじめなジャーナリストのまじめさと、あくまで商売だけ考えているホリエ氏の不協和音だけだ。

江川さん、インタビュー疲れたでしょうね、と思うよ。ホリエ氏はジャーナリズムというものや歴史というものをまともに勉強した人じゃない。その無教養な輩が商売でマスコミを持ったところで、今のテレビなんかとどこか違うものができるのかね?という疑問があるよね。

なにかを少々期待したぶん、絶望するよね。

そして、ホリエ氏の言うことを、そのまま鵜呑みにしちゃいけないよ。彼は受けそうなことを言ってるだけ。「ユーザが報道を選ぶ」なんて言ってるけれど、自分の事業に不利な情報が広まれば、そういうユーザをたたきにいくに決まってるよね。こういうメンタリティの人たちってのはさ。

ただ、ある意味古臭いジイサンの説教みたいに見える「マスコミはこうあるべき論」ってのを一切やめてるように見えるから、ホリエ氏が「改革者」に見えちゃうんだろうね。ただの商売人なんだから、資本主義の転覆を図るとか、この社会をもっと住みやすくする、ってことを考えるほどの改革者じゃない、ってのはしょうがないわけですよ。それが彼の限界。

ぼくは彼が今回のニッポン放送をめぐるフジとの喧嘩に是非勝って欲しいと思い始めた。なぜかというと、彼が勝てば、すぐに彼が今までの旧態依然と批判していたお年よりと、実はそう変わらない、ってことがすぐにわかるようになるだろうから。

なんかね、江川さんのインタビュー、ご苦労様でした、って感じだよ。読んでて疲れた。つまらないんだもの。

投稿者 nori-m : 00:29 | コメント (1) | トラックバック

2005年02月24日

バカは今でもシリコンバレー

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シリコンバレーの凋落って、実は日本ではあまり声高に言われる場面がない。だから、ボーッと新聞を読んでいると、ついつい「ITのメッカはシリコンバレーだよな」なんて、まだまだ思ってる人がきっと多いんだろうなぁ。

シリコンバレーはもうだめだね、というのが大方の人の意見。2000年の4月ごろ、おおかたの「ITバブル」は終わった。それに2001年の9月のテロ事件がトドメをさした。ぼくは1986年から毎年、仕事でなんどもシリコンバレーはじめ米国の各地を回った。2002年から2003年にかけても何度か行ったけれど、いや、大変な凋落ぶりなのだ。

シリコンバレーの中心地と言われる、SanJoseの空港近く。そこにあるMariottホテルのレストランは、昼間でも閉店。米国で主な商談の場となっている昼食時のレストラン。そのレストランが軒並みなくなっている。開いているところに行っても、客は少ない。とても、とても、少ない。

ビルのテナントが7割空いている。

シリコンバレーの住人のうち、IT業界で生きていた人たちのかなりの数の人たちが、インド人や中国人だった。白人はもともと、あまりいなかった(IT=インド、台湾の略、なんて言われたくらいだ)。でも、そのインド人も中国人も、そのほとんどが2000年以降、シリコンバレーを捨てて、本国に帰った。たまに、シリコンバレーで仕事の話があっても、「じゃ、打ち合わせは上海でね」みたいな仕事が増えた。

よく「シリコンバレーに長くいました」みたいなことを言う「通ぶった」人たちでも、自分の権威を落としたくないのか、この凋落ぶりをはっきりと言う人はとても少ない。「いや、シリコンバレーにいましてね」という人がよくその地の自慢話をするのを聞くことがあるけれど、その場で「じゃ、September11(テロ事件)以降はどうなんですか?」と突っ込むと、それまで自慢話をして得意げだったその人がいやーな顔をするんだな。

自分の自慢話ばかりしてないで、本当のことを言えよ、という感じだよ。まったく。

で、インターネットの先端技術とシリコンバレーがどうのこうの、だって?寝言を言ってるんじゃないよ。まったく。という感じだね。インターネット自身が既に当たり前の技術であって、本当の先端技術なんてものは、もうインターネットにはない。いま、本当の先端技術はバイオの一部と、ITのごくごく一部にしかない。

そして、日本のハイテク評論家のほとんどはバイオの世界を知らない。だから、ほとんどのこういった人たちは、その企業を訪問しても、彼らがなにをしているのか、まるでわからない。評論も解説もできない。バイオとITの融合ってのがこのところの結構な「先端技術」の1つなんだが、これはあまりにもマイナーであまり知っている人もいない。IT業界の専門家でも、バイオに注目する人はあまりいないから、なおさらだ。

本当の先端技術は、実はわかる人にしか見えないところにちゃんとある。そして、それが見える人たちどうしで共有している。秘密でもなんでもなく、「それ」がわかっている人どうしで「次の時代はこれだね!」と納得しあっている。でも、一般の人には、ましてや評論家などには、まずそれは見えない。ぼくがかかわっていた頃の、最初のインターネットがそういうものだったから、それはよくわかる。あの当時(といっても1980年代後半だ)に、「インターネット」と言う言葉を使っても、日本の普通の技術者には「なにそれ?おいしいの?」なんて言われるのがオチだった。いまやそのインターネットの要となったOSであるUNIX、そしてUNIXを記述した「C」という言語にぼくは注目して、その道を進んだけれど、そのときだって「三田さん、Cだ、UNIXだって、そんなお金にならないものやってどうするの?」なんて、何度も言われたものだ。ぼくは、そういう一般の技術者から「仲間はずれ」にされた。

ぼくはまた、今の先端技術にもかかわっている。でも、かつてインターネットのときにそうであったように、「なぜそれが先端技術であるのか」「なぜそれが人類の将来を変えるのか」ってことを説明してわかってもらうまでに、大変な労力がいる。そんな労力を使うくらいだったら、仕事していたほうがいいよ。だから、普通はそれはしない。

かくて、本当に本物の先端技術は、決して一般の人の目には触れない。いや、触れたとしても、普通の人にはそれがなぜ大切なものなのか、ということがまるでわからない。だから、いま、「インターネットの先端技術」なんてものを解説した「本」なんてものがあっても、それは既に今の時点で先端でもなんでもない、というレベルのものなのだ。ぼくに言わせれば、「先端」でもなんでもないものを「先端」なんて言うなんて、それは詐欺だよ。

先端技術って、そういうものなんですよ。だから、簡単な解説本なんかでだまされちゃいけないよ。それが本当に先端技術であればあるほど、一般の人にやさしく解説する、なんてできっこない。そんなこと、あたりまえでしょ?だって、「それ」を説明したりする「概念」とか、その概念を表すことばさえ定かじゃないものなんだから、説明なんて難しくなるに決まっている。簡単に説明なんかできない。だから、「先端技術(Leading Edge Technologies)」なんだから。

あわよくば人より先に、人がまだ目をつけていないところでうまい汁を吸おう、なんて考えている投資家のみなさん。あなた方に、うまい汁を吸っていただくのは、おそらくもうちょっと後になる。ごめんね。

投稿者 nori-m : 22:44 | コメント (2) | トラックバック

外野の寝言

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これは外野の寝言だと思って聞いて欲しいんだけど、いまどき、テレビなんてものに価値があるのかな?もっとわかりやすく言えば、ライブドアが株主だろうが、フジサンケイグループが株主だろうが、そんなことは視聴者にとってはどうでもいいことなんだよね。

ライブドアが株主になったところで、あるいはがりがりの外資が株主になったところで、株主がすべてを決められない、というのが、日本的な会社の作り方だよね。米国流というと、経営者が変われば経営が変わって、と考えるけど、日本ではそう簡単にはいかない、という例がけっこうある。

ま、外野としてはだね、要するに面白くてまともな番組が増えてくれれば、見てやるよ、というところ。東京なんかじゃ民放こんなにあるんだよ。おまけに最近はケーブルもあるし、よりどりみどりなんだから、1社くらいなくなったり、トチ狂った番組を放送しても、そんなことはどうってこたぁない。ライブドアが株主だろうが、どこが株主だろうが、要するに経営権の問題ばかり言っているけれど、そのテレビ局がいかに面白い番組を作ってくれるか、ということが一番大きいはずだね。どこが株主になろうと結構だが、面白くないと見ないよ。それだけのこと。 亀淵昭信社長くらいだったらできるかな?記者会見で澄ましてないでさ、「いやー、カメカメエブリボディのカメです!今日はちょっとすごいどらえもん対策を発表しちゃおうかなー、とか思ってるんだよね!、じゃ、今夜もいってみよう!、あ、ごめん!。どらえもんとホリエモンって、どっちも太ってるから間違えちゃたよ!じゃねー」とか、昔のあのノリでかましてくれないかな。いや、ホリエくんはその時代は知らないだろうから、このノリがわかるとは思えないけどさ。

日本は戦後、お金ばかり気にしてきた。労働組合は仕事の質を問う、なんてことは全く考えず、給与闘争だけしてきた。労働こそ、最大、最高の人間の営みであり、エンターティンメントだ、という、きわめて原初的なこの原理について、全く無頓着だったんだな。そして、ぼくがコンピュータの仕事をしていて、一番びっくりしたのは、労働組合とか、左翼系の人たちも、右翼なんて人たちや保守と言われる人たちが、すべてそろって、この新時代のハイテクに対して、誰も免疫を持たず、みんなバンザイしてこれを受け入れちゃった、ということだった。

みんな、自分の知らない新しいものを目の前に突き出されると、どうしていいかわからず、やみくもに受け入れた。その現場をぼくはこの目で目撃した。本当のことを言おう。ぼくはそのとき、こう思った。「なんてばかなやつらだ!自分の思想を持たない、自分の意見を持たないなんて!」。

おいおい、おまえら、あんたの持ってる、その哲学も思想も借り物かい。単にどこからか流れてきた人の本を読んで、その思想を「学習」していただけかい。自分の体からたちのぼるその知的で身体的な欲求を自分のものにして、自分の考えとか自分の哲学とか、そういうものを持とう、なんて、まるで思わなかったのか?思想とか哲学って、そんなにうすっぺらなかりものだったのか?しょせん、日本の学校の作る優等生なんて、その程度のものだったのかい?もしもそういうものを持っていたら、こんなITなんてもの、インターネットなんてもの、断固拒否する、なんて人が一人くらいいてよさそうなもんだったんだがね。そういう人がいれば、インターネットと言う技術の根底にある思想を、その場で見抜いて、ちゃんと自分のものにしたと思うよ。まともな知性ならばね。でも、日本にはそういう人は皆無だったんだな。

まぁ、日本の戦後なんて、結局は明治維新の延長だったものね。自分で自分の確固たる思想と哲学を確立する、なんてだーれも考えなかった。自分の立っているその場所からわきあがってくる思想や哲学をみんな殺して、どこからか流れてくる「それ」を、みんな「お勉強」することが、思想を持つこととか、哲学をすることとか、思い込んでいたんだものね。「個の確立」の意味をちゃんとわかることができなかったんだね。不幸な日本のガキども、と言いたくなるな。

テレビというメディアの本質をあの時代、ちゃんと剽窃できたのは、マクルーハンだけだったじゃないか。日本の思想家とか哲学者は黙ったまま。その本質さえ見抜けなかった。少々間違っていようと、本質を見抜こう、という努力さえしなかった。インターネットがでてきたときもそうだった。そのマクルーハンを翻訳して日本に紹介した若き日の竹村健一は、それだけでまだまだまともだったと言っていい。いま、彼がそうかどうかは知らないけれど。

自分で自分の思想を持つ。自分で自分なりの哲学を持つ。その楽しさを知る。人生を「それ」を使って、すべてエンターティンメントにしてしまう。そういう生き方を選ぶ。ね?日本ではこれらのことごとくが、できない人ばかりだった。みんなバカだなぁ、とぼくは思うよ。楽しく生きることを至上の価値にしたとき、そこに新しい価値をベースにした地平が開けてくるものなのに。

みんなさ、あのライブドア騒ぎで、本当に大切なことを忘れてないかい?仕事って、なんだったんだろう、とか、生きていく、ってどんなことだったんだろう。自分はなにをして生きていったら、充実した人生を生きられるんだろう、とか。そういう本質的でとても大切なこと、忘れてないか?それをちゃんと考えてこそ、あのくだらないのっとり騒ぎを自分のものにできる。そういうものさ。

投稿者 nori-m : 20:54 | コメント (0) | トラックバック

「きれいごと」の世界(ふたたび「貞子ちゃん」に関することから)

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先々週から先週にかけて、「貞子ちゃんの連れ連れ日記」とのやりとりがあって、私が自分で行ったトラックバックを消された話をしました。あれから1週間とちょっとたっているのだけれども、いま、あらためてそのときのコメント等を読み返してみて、このblogの仕組みなどについて、やはりちゃんと言っておかなければならないことがある、ということを感じています。そこで、今回は「あれから1週間」、自分が感じていることを書きます。

同じ日本で同じ場所の空気を吸っていても、違う立場の人って、のがいつもいます。仕事上のお付き合いと言う意味でも、遊びのお付き合いという意味でも。そして、立場が違えば語ることばも違う。価値観も違う。いま、日本人は共通のアイデンティティが、ない、というけれども、これだけ多様化した世の中には、そんなもの、どこにもないのじゃないでしょうか?

結局、人と人を、つなげるものは、特にネットという空間では「ことば」でしかありません。「ことば」の裏に隠れているものをなんとなく想像せよ、といっても、同じ環境、同じ立場にない人は、それを想像することさえできない。

だから、あのとき、ぼくは「貞子ちゃん」に、自分がわからないことについて、質問をしても、その答えが一切返ってこない、ということが不思議でならなかった。「善意」と「貞子ちゃん」は言うのだけれども、なにが善意なのか、わからない。だから「貞子ちゃん」の言うところの「善意」について、ちゃんとことばでの解説を求めたのだけれど、それの答えもまるで返ってこない。普通はこんなこと、ありえないことです。ネット上では、普通は「なんと不誠実な態度だ」ということになってしまう。だって、ことばで聞いたことに、ことばで答えないのだから。

すべてはことばにして表現しなければ、そこに存在しません。それが地域社会とも、また、仕事上のつながりという社会とも違う、ネットという空間の、唯一のお約束なんだと思います。だから、ことばにしてすべて表現し、論理を尽くす。これがネットでの議論の正当なマナーというものだと思います。

そのマナーはなぜできたか、というと、やはり、さまざまな地域の人たち、さまざまな立場の人たち、同じ情報を共有していない人たちどうしがつながることがある、というこの空間の性質によるものだと思うのです。みんな同じ仲間だよね!みんな同じことを同じように感じているよね!というところがもともと否定されている場所なんですよね。

また、「貞子ちゃん」は「技術者とか研究者にはお金で報いなければならない」と言っていましたが、それは大変ありがたい話だと思うし、お金はもちろんあったほうがいい。けれども、一方で違和感も禁じえないところもあるのです。前にも書いた通り、「お金」という価値観を絶対化するのではなくて「相対化」して「充実した人生の時間」を得られる立場にいる「技術者」とか「研究者」は、お金に無頓着なことが、勲章みたいになっていることもあるんですよね。そういう価値観がきっと「貞子ちゃん」は想像できない。もちろん、それを感じる立場にもいないし、「貞子ちゃん」の周りの人は、そういう「現代と相容れない価値観」そのものが、おそらく肌で理解できない。

一方で、いま、始まっていることは、ぼくには「資本主義の本当の崩壊」である、と感じています。資本というもの、お金というものが、原則とか原理というレベルで崩壊をはじめているように見えるのですね。それも行き着くところまで行ってしまって。この後、いったいどんな社会が来るのか、は、ぼくにもわかりませんけれど、このように資本主義が「行き着くところまで行った」要因の1つに、世界中をとりまくコンピュータと、インターネットを含めたデータ通信網の短い間での、劇的な発達があったと思います。

地域情報格差を使って行われていた商売は、「アッ」という間もなく、崩壊しました。商社とか、証券会社などのやっていた仕事ですよね。たしかに、ぼく達はそういう社会を目指して、ネットというものを作ってきたんです。

そして、多くの資本主義を成り立たせていた「人間」「地域」「情報」などの「格差」を、極限まで減らしたんですよね。あるいは、減らす方向にすごいスピードで向かっていくように仕向けた。実際、みんなそっちの方向に走って行かざるを得ないでしょう?

なぜこういうことが起こるのかと言うと、資本主義のもとになっている価値である「お金」というものが、結局は、暴力(軍事力)などの国家権威、あるいは企業の信用をベースとした「数字」という情報に過ぎないものだからです。これはいまや一瞬にして世界中移動可能なものになりました。そしてそのお金をつぎ込む先の情報も、そこから得られる利益の情報も、すべて「情報」であり、これも一瞬にして、多くの人が知ることができる。情報の平等化はお金の平等化につながる。均質化されてエントロピーの高くなった「情報」は、もう「情報」と呼べるほどの価値はなくなる。だから、情報の集中をメシのタネにしてきた証券会社という業種はだんだんいらなくなってくるんだよね。

企業は自分で社債を発行して、マーケットではなく、自社で資金調達をする。それが、ネットでできる。売るほうも、買うほうも。これがぼく達ネット系の技術者が社会の裏側でこつこつと積み上げてきた、新しい社会像なんですよ。

だから、ぼくは「ネットは資本主義社会に投じられた触媒」と表現しました。

この触媒が既に投じられ、効果を表してきました。それが、今という時点なのだと思います。

そして、blogはその価値ある「情報」の価値のベースになっていたものをも、侵食しはじめました。つまり、「地域」「立場」などのスケールだけではなく、最後に残った情報格差である「秘密にしていること」という情報格差を、blogは暴いて行きます。つまり、情報格差を価値創造の源としていたすべての「情報産業」を、いま、blogのような「個人の持つマスコミ」が崩していっている。人間社会をこれまで支えてきた「かすがい」にあたるものは、簡単に言えば「情報格差」です。その「秩序」の源が、いま壊れはじめているように思うのです。簡単に言えば、昔は社長しか知らなかった情報を、社員も持っている。ときには社長以上の情報を、社員が持っている。そういうことがどこにでもある、と言う世の中なんですね。気がついたら、一社員の持つ情報が、会社の役職の持つ情報よりも質がよかったり、あるいは、それが会社をつぶしたりする。そういう世の中なんですね。

既に米国ではbloggerが巨大マスコミのニュースキャスターを降板させる、政治家の隠れた失言を暴く、内部告発で、会社をつぶす、などの動きが活発になってきています。企業から見れば、blogは、個人という「産業スパイ」の集まりが情報交換をしている「集い」のようにも見えてしまうでしょう。実際、そういう働きをしているといってよいと思います。そして、そこに集う人たちが、そういうことを考えているかどうか、ということとは、全く別の問題なんですけれど、結果として、そうなっている。

これまで人間の手にした道具のうち、ネットという道具ほど、人間社会に短い間に浸透して、人間社会の秩序を揺るがしたものは、他にはないのではないかな?実に強力きわまりない「情報の道具」だったわけだけれど、その強力さに目がくらんで、その導入の効果や、社会がどのような方向に向かうか、まであまりみんな考えていなかったよね。ぼく?ぼくはわかっていてやった、ってところがもう20年ほど前からあったけれど、まさかここまでうまくいくとは思っていなかったな。いや、ぼくだけじゃなくて、ネットを作ってきた人たちのほとんどが、今までの古い社会秩序の崩壊を予感して、この仕事をやっていたとぼくは確信する。日本人にはほとんどいなかったけれど。

そういう目で見ると、今回の「ニッポン放送対ライブドア」の騒ぎは、そういった世の中の変わり目のひとつの風景、というように見えるよね。世界から見れば、遅きに失した、というところもありますな。この勝負、ライブドアが勝つにしろ、ニッポン放送が勝つにしろ、世界的に見れば「コップの中の嵐」でしょう。

目の前のこの小さな事象は、要するにネットが人間社会になにをもたらしたか、という大きな流れの中で起こった「ある事件」のうちの1つでしかないよね。注目するほどのことはない。暇つぶしに見ているぶんには、良いのですが、これだけ見ていると、大きな時代の流れを見失うのではないかな?ぼくはそう思うのだけれども。

結局、日本と言う国を「同じことを考えている人の集まりの1つ」としていたものが、ネットなどの道具の登場で崩れちゃったんだね。だから、ことばによる「説明」って、本当に大事なことになったんだね。ちまちました小さな世界に身をおいて、そこで感じたことを面白く書く、なんてレベルのことじゃなく、「説明をする」「説得をする」ってことにある意味命をかけるくらいの覚悟が、やはりblogなんかには必要なんじゃないかな?

きっと、それが「貞子ちゃん」というブロガーに欠けているものなんだろうね。いや、「幸せです、わたし」なんて言ってる時点で、それには気がついていたんだけれども。

ネットに古くからかかわってきたネットの技術者の本音。それって、こういう面もあるんだよ。単に面白がっていただけじゃない。いや、技術を面白がっていただけじゃない。自分の手にしている技術が世の中を変える、っていう面白さを、そのときに感じたんだよ。まだ世の中のひとのほとんどがそれに気がついていないときに。

裏に隠れているものをすべて「ことばにする」って、こういうことなんだけれどね。

投稿者 nori-m : 10:59 | コメント (5) | トラックバック

2005年02月23日

懐かしいというかなんというか

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テレビのニュースを見ている。ライブドアのニッポン放送株買収の話。ニッポン放送がどこの経営になろうが、あまりぼくの知ったことではない。もともとぼくも、ぼくの周りの人も、ラジオもテレビもあまり見ないからね。日本が他の国のものになっても、あまりどうってこともない。みんな今までの生活を続けていかなければならないことには、変わりはないんだから。でも、ひとつだけ、ああ、と思ったことがある。

ニッポン放送の社長は、かつてのラジオ深夜放送のパーソナリティ、「カメとアンコウ」の「亀淵昭信」氏なのだ。かつて、元気で若い声を深夜放送で響かせていた、その人なのだ。いまでも、テレビで聞くその張りのある若い声の彼は、いま、なにを考えているのだろう?

ラジオの深夜放送を聴いていたぼくらの年代の人間では、彼の名前を覚えていない人はいないだろう。スピード感のある彼の語りは、本当にカッコ良かった。インターネットは世の中を変えた。そう感じさせる一場面でもあった。

そして、同じ今、西武グループの堤義明会長もテレビのニュースの中の人だ。そして、その顔はいまや「ただのやつれたおじさん」になってしまった。この人、どこかの会社の経理の課長なんですよ、と言っても、今ならみんな信じるだろう。かつてのバイタリティあふれた堤義明は、もういない。

新しいものがすべて善とはいえないだろう。古いものだって、すべて良いものとはいえない。ただ、世の中は移り変わっていくだけだ。それが良いほうなのか、悪いほうなのか?それは後の時代になってさえ、評価が変わっていく。そういう意味で、過去は現在であり、現在は過去だ。すべての剽窃は移り変わっていくものであって、評価そのものが、移ろいやすいものなのだ。

この動きこそが、生きていること、そのものなのだ。やがて、インターネットでさえ、移り行く世の中の風景の1つになってしまうだろう。ぼくらは、その時代の流れの中で、あたふたと周りを見ながら自分の位置をなんとなく確かめている。それだけなのかも知れないね。

そう、好きなことをやろう。みんな。

投稿者 nori-m : 22:14 | コメント (0) | トラックバック

技術者の意識と非技術者の意識

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どうもさ、技術者と言う仕事をしていると、金融関連とか、営業とか、あるいは経営を仕事としている人たちとの違和感ってのが、いつもぬぐいきれなく、あるように思うんだよね。この「違和感」の元はいったいなんなんだろう?

技術者の仕事は、いくらでも取替えがきく、みたいな仕事もあれば、そうでない仕事もある。技術者が偉そうなことを言って、みたいな目で見られることはもちろんある。腕一本で生きている、という感じを技術者は持っているから、別にこちらに「価値」があれば、経営者も金貸しも、すべてこちらを向く、みたいな意識が抜きがたくあるね。だから、違う価値観で生きている人間にとっては、技術者という人種は傲慢に見えることもあるんじゃないかな?

だから、別に誰にへつらうでもなく、自分のやりたいことができればどこにでも行くよ、みたいな感じがある。これを「企業に対する忠誠心がない」みたいないわれ方をしたこともあるな。技術があれば、日本から出て行くことだって可能だから、「日本なんて国はどうなってもいいんじゃないの」みたいな気持ちもどこかにある。これが技術者というものなんだよね。日本が没落すれば、日本以外のところで、仕事すればいいじゃん!みたいな。

だから、青色LEDの中村修二氏とか、ノーベル賞の田中さんとか、そういう人たちって、すごく身近に感じる。ああいう生き方っていいな、と思う。お金だけじゃないところで、人に認められる仕事をコツコツとしていて、できればちょっとお金も増えればいいな、みたいな。田中氏の場合は、並み居る「研究者」と称する学者先生を差し置いての「ノーベル賞」だから、なおさらだね。周りにいた「先生」と称する方々は口には出さなくても「なんで博士号も持たないあいつがノーベル賞とって、おれが取れないんだ!」と、世界中で不満たらたらのはずだね。でも、それを口に出して言えばそれこそ自分の「名誉」にかかわるから、そんなこと、口が裂けても言わないけれどね。ほとんどの「先生」は。

名誉がほしいのでもなく、身分不相応なお金がほしいのでもない。ただ充実した自分の仕事ができるかどうか?そして、その充実した仕事の結果として、多くの人が喜んでくれる結果が出るかどうか?技術を仕事とする人間のメンタリティは、多くはそういうものだよ。

日本と言う国は、そして米国という国も「仕事のモチベーション」として、「お金」を考えていることが今も多い。事業をしている人、営業をしている人はそれでも良いかもしれない。お金はとてもわかりやすい価値だ。大学の先生方にしても「名誉」がある。これもお金そのものではないけれど、ある意味とてもわかりやすい価値だ。でも、技術者が持っている「仕事の充実」という価値は、この2つの価値に比べて、あまりにも、軽視されすぎてきたんじゃないかな?

会社を助けるため、とか、国をなんとかするため、あるいは家族をなんとかするため、という大義名分が仕事のモチベーションになるのは、技術者の場合は、やはり人間としての衰えを感じる40歳を過ぎた頃からだろうね。それまでの技術者は、そういうモチベーションを目の前に持ってきても、多くの場合は、あまり心動かない。そのことを、技術者を「使っている」と思っている人たちは、まるでわからないんだな。違う価値を目の前に持っていく、というその行為が技術者にバカにされていることさえ、感じられない。

でも、いま、日本も世界も本当に必要とされている「労働というものの価値」って、実はそういうものなんじゃないかな?お金をモチベーションにしたり、名誉をモチベーションにしている限り、見えてこないものがあるよ。そんな、今まで見えてこなかった「労働の本当の価値」が、実はみんな見え初めているんじゃないかしら?いや、まだ見えないかな?

でも技術者は見えてる。労働というものが、自分に人間として生きる喜びを与えているその瞬間を生きているのだから。お金、名誉。それは大切だよ。でも、その程度のものだよね。どんな金持ちになったところで、生きて死ぬまでは簡単に言えば「暇つぶし」じゃないか。そういう人生観に立てば、その時間をいかに充実してすごすか、ということこそが本当に大切なことだ。そのための「お金」だったり「名誉」だったんじゃないかな?技術で身を立てている人間は、実はそのことをよく知っている。

技術者は自分が生きた、という充実した時間を、まさに生きている。そして、お金はそれについてくる、と言う程度のものだ、と思っている。

ロマンチスト?いや、そうじゃない。本当は世の中にはロマンがあふれているものなんだよ。でも、多くの人はそれに気がつかない。こういう仕事をして、充実したときをすごしている人間だけが、そのことをよくわかっている。この価値観を人生最高の宝と言わずして、なんと言おうか?お金だけじゃない、エセ新興宗教でもない、本物の充実した時を、技術者は過ごし、人生を終わる。少なくとも、その理想を知っている。

投稿者 nori-m : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

ただ電:スカイプ

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この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。

 前にも書いたことだけれど、最近は特に頻繁に使うようになった。なにをって、Skypeというインターネット電話のことだ。相変わらずこれはすごい。無料でこのソフトをダウンロードするだけで、パソコンのマイクとスピーカーが受話器になる。全世界に通話料完全無料でつながる電話になる。チャットなどの機能もある。加えて、PC上にあるファイルを、そのまま通話中の相手に送ることができる。

 
 日本でも既に25万人のユーザがいて、全世界では1500万人を超えるユーザがいるという。さらに、ちょっとした会社のファイア・ウォールなどのセキュリティの仕組みがあっても、この電話は使えてしまう。音声の遅延などもほとんどなく、音質もクリアそのものだ。かなりユーザも盛り上がっていて、ユーザ自身が立ち上げている日本語で読めるSkype情報サイトもある
 

  友達にメールで「Skype使えよ!」というだけで、PCの前に座りさえすれば国際電話、国内電話とも完全に無料になる。相手を探すのは、Skypeのデータベースから、そのまま相手の名前を入れるだけだ。また、通常の電話網にもつながっていて、こちらは料金を取られるものの、通話料は格安だ。
  

 もちろん、日本語化もされている。 接続を拒否するための、ブロックの機能などの付加機能も充実している。 おそらく、Skypeだけではなく、同じようなインターネット電話がこれからも続々出てくることだろう。もし出てこなければこの分野はSkypeの独占になる。ネットの接続料金さえ払えば、電話は全世界無料。そういう時代がはじまったのだ。
 

 このままいけば国際電話会社も、電話会社も、結局は単なるTCP/IP接続業者(プロバイダ)になる。そして、それはそれでよいのかもしれない。 インターネットとは、データになるものだったら、なんでも無料かそれに近いコストだけで、それをつなげてしまう。インターネット電話は音声をデータにした、というわけだ。あとは言語と文化の壁だけがぼくたちに残っている。

追記:
Skypeは、以下からダウンロードできます。

Skypeホームページ

投稿者 nori-m : 11:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月22日

技術の面白さ

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技術を仕事にしていて、一番エキサイティングな瞬間は、自分のこの手の先で作られている「それ」が、世の中を劇的に変えていく、という予感を感じて、まっしぐらにその技術を追求している、その瞬間なのだ。電球を考え、作ったときのエジソンがそうであっただろう。電話を作ったグラハム・ベルがそうだっただろう。ぼくはちょどインターネットというもの、コンピュータとデータ通信が融合しはじめたその瞬間に居合わせた。それは、人生最高の一瞬だったといっていい。

徹夜の仕事が終わる。まだ朝日が昇らない街角で、カラスがゴミをあさっている音が、がさがさと聞こえる。でも今の自分の気分はちょっと違う。この仕事が、日本を変えていく。世界を変えていく。朝方、まだ寝静まった街のほとんどの人たちは、まだこのことを知らない。でも、間違いなく、ぼくの手元で育っている「これ」が、世の中を変えていく。そう思えるその瞬間は、まるで自分が世界の王になったような気分がすることだってある。企業や事業を買収する、などというレベルではまったくない、おそらくは個人技が重視される、この技術という世界。

やがて昇っていく朝日が、まぶしく見えるそのとき、ぼくはなんともいえない幸せな気持ちで家路をたどる。他の人たちとは反対の方向に家路をたどる。ぼくは普通の人から見れば仲間はずれだ。心地よい仲間はずれだ。そして、家に帰ってぼくは幸せな気分で寝る。

結果はどうだ?たった10年でインターネットを使わない人はほとんどいなくなった。たった5年ほどで、ケータイのメールは普通の道具になった。ビジネスで、プライベートで、必需品になった。そう、世の中が変わったのだ。この予感を、それを作ったそのときに感じられる、というのは、大変な幸せだった、といま、ぼくは言っておこう。実際、そうだったのだから。

技術で身を立てているこの身にとって、この至福の瞬間は、なにものにも代え難かった。この瞬間のために、自分の人生があるみたいだった。

誰にだって、どんな職業にだって、同じ瞬間はどこかにあることだろう。

でも、言っておこう。技術は個人技だ。徹底した個人技だ。それが他の仕事と違うところなんだね。

投稿者 nori-m : 23:09 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月21日

今回は書籍の宣伝です

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写真のように、私の新しい書籍が出来ました。これが私の本業なんですけれどね。今回はその宣伝です。すみません。

今週くらいには書店に並ぶと思いますが、新しい私の本が出ました。

「qmail完全解説 - qmailを使ったセキュアなメールサーバの構築」

という本です。九天社という小さな版元からの出版です。

内容は企業とかでメールサーバを構築する人たち向けのものなので、あまり一般向けのものではない、技術書です。要するに、外部から攻撃されたとき、攻撃されにくいメールサーバを、どのように構築するか、という技術的ノウハウの本です。

もし、お時間ありましたら、お手に取ってながめてくださいませ。

ではでは。

投稿者 nori-m : 20:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月20日

株取引の不透明はなにを起こすか

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ライブドアの堀江氏の話を続ける。この記事は、前回とは違って、ちょっと核心に近い。でも、マスコミはそこに目をあまり向けない、というところを書いてみる。いや、向けているのだが、かなりヤブニラミだ、とぼくは思うのだ。

株を扱う人たちの多くが、実際にライブドアという会社がなにによって収益をあげているのか、ということや、その事業の将来はどうなのか、ということ、不採算の収益部門はどこで、採算の収益部門はどこか、なんてことも、まるで知らない人が多いんだよね。ライブドアという会社のバランスシートを見れば、そんなこと、すぐにわかるのに、ね。これも問題だけどさ。

ところで、この記事を書いている時点で、ライブドアの株価が下がっている。当たり前のことだろうなぁ、というのがぼくの印象だ。

フジサンケイグループとのやりとりの問題で、「戦争をしている」結果として、こういうことが起こっているように思えるだろうね。でも、本当にそうだろうか?

今回の日本テレビ株のライブドアの取得について、時間外取引と時間内取引の狭間で、非常に不透明にことが行われた、ということがわかってきている、というのは報道の通りだ。さらに、その株そのものが「どこから湧いたかわからない」といわれる株である、という。簡単に言えばライブドアという会社がどうのこうの、と言う問題ではなく、取引が不透明である、というところに大きな問題がある。

日本の株を多く持つ海外の投資家(現状日本株の7割は海外の投資家が持っている)から見れば、この不透明な取引は、経営の不透明さとともに、非常に問題なもの、と映るはずだ。海外からの投資を受け、会社を経営している人間からすれば、こんな取引をされて、日本の株全体に及ぶ影響が、問題にならない、ってことはまずないだろう。

フジサンケイグループのみならず、マスコミが総動員してライブドアという会社や堀江氏を攻撃するのは、なにも自分の身がかわいい、というだけじゃなくて、日本という国そのものへの投資の低下が気になるからに他ならない。外から見れば、日本という国の新興企業の株は、ダーティで、不透明で、買っても損をさせられるだけの株のように見えてしまう。どこでなにをされるかわからない、という印象を与える。

つまり、日本という国そのものの全体的な価値の下落=「日本売り」の引き金に、このライブドア騒ぎはなる可能性がある。外資は、その「見せしめ」、あるいは「アドバルーン」のつもりで、ライブドアの株を売る。そして、この会社がどういう動きに出るか、日本のほかの企業や投資家がどういう動きに出るか、を冷徹に見ているのだと思う。

フジサンケイグループが「守り」をするのは、当たり前のことだ。ここで攻めをはじめ、ライブドアをつぶすようなこと、堀江氏を追い出すようなことがあれば、なおさら、海外から見たこの国の会社の経営というものに不透明感が募ってしまう。他の選択肢なんかできない。

スポーツ新聞とか、テレビとか、そういう世界だけで物事を見ていると、どうしても、当たり前のことが見えなくなる。自分が煽られている、という意識さえなくなってしまう。でも、本当のことはちょっと離れてみれば、よく見えるものだ。

堀江氏が人間のみならず、インコに嫌われるような人であろうと、「カネさえあればなんでも買える」と考えていようと、透明でわかりやすい取引を正面からする人であれば、おそらくこんな騒ぎにはならなかったことだろう。

「金融の改革」をすすめることを良しとする立場の人間が、その改革をあせるあまり、不透明でダーティな取引に身を沈める。自分では気がつかずに?いや、本当はごく近くにいるだれかにはめられたのかもしれない。堀江氏という人は、ね。

投稿者 nori-m : 07:18 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月19日

堀江氏の見え方

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mixiの某氏の「日記」に、「飼っているインコが、あのライブドアの堀江氏がテレビに出ると、その姿に向かって罵声を突然浴びせる」ということがあったのだそうだ。それも、毎回テレビに出る都度に、だ、そうである。

そういうことが、何度もあったそうだ。

堀江氏の経営手腕をぼくは注目して見ているわけではないし、その報道もあまり興味がない。また、堀江氏の近くにいる人間の話を聞くことはあっても、ぼくにとっては違う世界のことだと思っているから、その方面の批評はここでは控えておく。ぼくっはその方面に詳しくもない。このblogのこの記事には必要ないことでもある。

面白いことに、他の人に聞いても「堀江氏は、言ってることは立派、というかある意味当たり前のことを言っている。でも、どこか不快感がある。同じことを楽天の三木谷氏が言っても、そういう不快感はないのに、なぜだろう?」と言う。みな私の周りにいる女性は同じことを言う。男性もかなり多くの私の周りの人が同じことを言うのだ。

堀江氏とはだいぶ格の違う人の話で恐縮だが、その昔、Microsoftのゲーツ会長が米国の3大ネットワークの1つのテレビに出演したことがあった。そのときの映像を見ていたら、面白いことに気がついた。質問をゲーツ氏に対してする人は、カメラに正面から話し掛ける。「で、ゲーツさん、どうお考えなのですか?」と、真正面の映像が言う。すると、ゲーツ氏がこたえる場面では、彼はカメラに向かって、若干横を向いてこたえる。「それは、かくかくしかじか、こういうことなんだ、とわれわれは理解しています。」顔は横を向いたままだ。

さらにインタビュアーは「ゲーツさん、私はあなたにXXついてこたえていただきたい、と言っているのですが、今のお答えは若干的を外しているように思うのですが。ちゃんと正面からお答えをいただけないでしょうか?」と、たたみかける。もちろん、カメラから見て正面の映像で、だ。

でも、それにこたえるゲーツ氏の映像は、やはり「斜め横向き」だ。彼がなにを答えようとも、ゲーツ氏の印象は悪い。不誠実に答えをしているように見えるし、それを助長するような、「見せ方」を、メディアがしている。「ゲーツは不誠実な悪だ!」というメッセージを、テレビはその無言のやりかたで、まるで「作っている」ように見える。「なんというデキレースだ!」と、ぼくは声を出したことがある。

ひょっとすると、堀江氏のテレビでの「表出のされかた」が、似たようなことになっていないだろうか?彼の言う「もっともなこと」が、「もっとも」ではないように見せる、なんらかのやり方を、彼に対して使っていないだろうか?

マスコミ報道を見るとき、ぼくたちはそういう「人の見せ方」にも、充分に注意してみる必要がある。

投稿者 nori-m : 20:38 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月18日

「少子化」という前提を疑え

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少子化議論、というのもテレビとかのマスコミを見ていると、「第二段階」に入ってきたな、という感じがします。つまり

第一段階は「少子化ってものがあるんだ、たいへんだ!」です。

第二段階は「では、その少子化にわれわれはいかに対処すべきか?」

と、なります。

当然のことですが、この第一段階での「認識」が、社会的に誰も疑うべくもない認識として定着したのではないか、ということを見計らって、「第二段階」の言い方が出てくるもの、と普通は思いますよね。

でも、違うこともある。たとえば新人歌手のまだ知られていない歌を売り出すとき、「絶賛発売中」とか「ミリオンセラー!」とかやるでしょ?新人の新しいものなんだから、売り始めたそのときに、そんなにたくさん売れてるわけがない。でも「絶賛」とか「ミリオンセラー」とか、あんた、いつ、それ、誰がそう言ってんのさ、という書き方、あるよね。

「おまえ、これ、売れてるんだから、おまえも買え!(でないとあなたはこの社会から捨てられるよ)」というメッセージがそこに聞こえるみたいですよね。でも、本当に「いま」売れてるのかというとそういうわけではなくて、売れていないものを売るためのの「方便」として、こういう「先取りした言い方」が使われるわけです。

少子化議論もまさにそれですよね。「第二段階」の議論を盛んに盛り上げれば、「第一段階」の議論は、既に疑うべくもない大前提、ということになる。役人とか政治家とか、そういう人たちにはまず「第一段階」の話はあまりせず、いきなり「第二段階」の話を持っていく。すると、「第一段階」は疑うことを許されない大前提になる。結果として、「第一段階」が本当に「おそるべきこと」であるのかどうか、という検証もなにもなしに、うやむやに「追認」されてしまう。あらためて踏みなおされる、という言い方もあるな。

少子化議論で一番怖いのは、その論争の中身ではなく、こういった話の進め方なんですね。

いつまでも、「前提を疑う」ことなしに、知的な議論というものはすすみません。本当にいま、自分の立っているところが正しい位置であるのか?ということについて、ちゃんと疑う目を常に持っていないと、いつでも自分のことばが、どこかで聞いたような、他人からの借り物になってしまう。それは説得力を持たないだけではなく、自分自身の持つ考えを捨てて、安易な議論に流れる可能性があるものだと思います。学校の優等生に多いよね。こうやって流されるのは、ね。

栄枯盛衰は世の常です。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と、白人のジイサンに持ち上げられて浮かれているうちに、日本は世界的に「どうでもいい国」になっています。私はここ20年、仕事で海外に行くことが特に多かったのですが、ここ数年は特にそれを感じます。日本の国内にいると、どこかにまだ「日本は世界でもたいした国の1つなんだぜ!」みたいな雰囲気が漂っているので、よくわからないかと思うのですけれど、いったん外に出ると、「日本なんてこんなもんなんだねぇ」という場面に多く出くわすのです。

一例をあげれば、いま、ブームのお隣の韓国だと、たとえば、5年前だと、夜の繁華街を歩くと、必ず呼び込みのお兄ちゃんが「だんな、良い娘いますぜ!」と日本語で話しかけてきた。でも、今はその呼び込みのお兄ちゃんは、カタコトでさえ日本語を知りません。使う場面がなくなったからです。日本人はお金を落とさなくなったんですよね。

昨年、スタンフォード大学の将来を嘱望される優秀な学生たちと話をしたことがあります。彼らに「日本ってどう思うか?」と聞いても「さぁ」という感じです。「じゃ、日本ってどこにあるか知ってる?」ってきいても、「ここかなぁ」と指差したところは「インド」だったりします。ほとんど全員がそういう感じ。加えて、そういう米国の優秀な大学のトップの学生はほとんど白人はいませんが、日本人も全くいません。だいたいが中国人とかになります。

中国人のプログラマの仕事の管理をしたことがあります。たいへんに優秀です。月5万円くらいの給与で、日本人のプログラマが1年かかる仕事を、彼らは2か月ほどでこなします。これが、普通の「あたりまえ」なのです。特に優秀、というわけではないプログラマが、この水準なのですね。

まぁ、小さいことかも知れませんけれど、どこに行っても「日本」なんてこんな扱いです。世界的な存在感が既に無きに等しい。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から、お日様が沈んで「陽はまた昇る」と、期待せざるを得ない状況になるまで、本当にまっしぐらのジェットコースターみたいだったですね。このところ遊園地で絶叫マシンが流行る意味が、なんだかよくわかったような気がします(←ちがうとは思いますが)。でも、本当は昇る陽はこれからもうだいぶ長いあいだ、ないでしょう。いま、アジアとは中国と同義です。いまは、アジアの時代=中国の時代です。

「日本の少子化は実はたいへんなことではない」というメッセージは、この「貞子ちゃんの釣れ釣れ日記」にも、紹介されている、

ここ

にも、じっくりと書いてあります。是非、ご一読をされることをおすすめします。

栄枯盛衰はあるのです。華やかだった頃を懐かしんで、渋茶をすすりつつ漬物をつまみつつ送る、しょぼしょぼとした老後だって、実は悪いことはないですよね?莫大な借金で子孫が苦しむ。そんなことわかっていたのに、借金したっていいじゃないか、と、突っ走ってきたのが、今までのこの日本だったのですから、借金をしたあとには、生活苦が待っていることくらい、当然のことでしょう。生活苦がいやなのは誰だって同じです。でも、その「いやなこと」を子孫に押し付けて、じぶんたちだけ良い思いをした(している)ジイサンバアサンたちがいた(いる)んですね。浪費放蕩癖のある親を持った子の不幸、ってなもんですな。そんな親はさっさと勘当して、まだいくばくかはある年金も大幅に減らして、責任を取ってもらいたいもんだけどね。だって、その年金、もともと借金の一部だよ。

で、それをなんとかうやむやにするためには、経済成長を続けていきたい、と、まぁ、こうなる。もうかっているうちは、借金も財産のうち、と思えるくらいにしたい。だから、少子化で人口が減るのは、経済成長したい人、借金をなんとか隠したい人には、たいへんな問題になる。消費が減れば生産が減る。全体のお金の量が減るんだもの。

でもね、ものごとには「考え方」ってものがある。内田百閒先生みたいに、金は天下のまわりもの、って言いながら借金しまくって死んじゃったじいさんと、高度成長期-バブル期を通してうかれまくった連中ってのは、結局同じでしょ?「生産」というのを、なにか「価値を作っている」と思い込んでいるか、それともそう思わないか、だけの差だよ。借金なんて思わないで、「もらった」と思って、「使っちゃう」ところ、似てるでしょ?今の日本人も、百鬼園先生も。要するに経済の原則なんて、誰も大事にしてない、ってことさ。上から下まで。だから、「経済」そのものの崩壊は来るよ。間違いなく。

いま、ぼくたちが本当に気がつくべきは、経済ってものを根底から支えているものが、どういうアブナイ思想か、ってことなんじゃないかな?それを知らずして、人間の次の歴史はありえないと思うよ。そしてね、なによりも「普通の人が普通に楽しく暮らせる」社会も、そこに気がつくかどうか、ってことにかかってるんじゃないかな?

そのためにも、前提を疑え!ってことは、実は大切なことなんだと思うよ。

投稿者 nori-m : 07:04 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月16日

「ゲーム脳」ふたたびのふたたび

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寝屋川の小学校内殺人事件で、またゲームに狂った17歳の少年がその犯罪を起こした、というテレビの、相も変らぬ「紋切り型」の論調が幅をきかせている。そのさい、必ず使われる単語が「ゲーム脳」だ。

私のこのblogの元である、共同通信社のコラムでは、その最初にこの「ゲーム脳」という単語をとりあげた。全く、また同じことをやっているのかね、というのが、正直なところだ。

その17歳の少年が起こした犯罪は重大だ。しかし、ゲームがその原因であれば、もっともっと、同種の犯罪は多くなければいけないのだが、実は犯罪件数はそんなに多くない。少年の犯罪、と言うことで言えば、最近は増加傾向、という程度のものだが、それだって、ここのサイトで数字で実証されている通り、まだまだ少ない、といってよいのだ。

実際のところ、コンピュータゲームと殺人などの犯罪をまじめに追及した人たちは、前回の私のコラムで紹介した殺人学を提唱した人たちだけといってもよい。このグループの実証的な研究とそのベトナム戦争の成果から見れば、日本で「ゲーム脳」という単語をアルバイトの印税稼ぎに使っているかのような森昭雄教授の成果なんて、はっきり言ってどうでもいい、というくらいのものだ。実際、この先生の言っていることは、科学的根拠に乏しい、ということが既に学会では既知の事実になっている。実はこの先生、論文を米国の「New Scientist」誌に送ったが査読の段階で「結論にいたる過程が科学的根拠に乏しい」として掲載を断られている。

マスコミ企業にとってはニュースは商品である。商品を売らなければ、マスコミ企業は成り立たない。そこで、なにも知識がない人にも安易でわかりやすい、一言で言える「単語」とか「絵」を探し、それを番組や記事に使い、印象的になるように、情報を操作する。一言で言えば、そういう「報道」を私たちは「読まされている」ということ。そういうことなのだ。

今回の小学校での殺人事件も「その深層に迫る」と言いつつ、自らが多くの問題を含んでいることに無自覚なマスコミが多いのは、相変わらずだ。今回もこの安易でわかりやすく見える「ゲーム脳」という単語を使いまくるのだろう。報道を糧とする人間が、人の生死にかかわる報道を、安易な単語をちりばめた安易な文言で、結果として不正確な内容で、流してしまう。

しかし、科学者とは言えないお粗末な実験を通して「ゲーム脳」という単語をひねくりだし、まっとうな論文としては価値のないものをNHK出版で本として出した、という森昭雄日大教授は、やはり科学者として、というよりも、商売人として、たいへんに尊敬していい人じゃないかね?良い営業マンっていうのは「壊れたコップを売る」人のことだそうだから、営業マンとしては一流と言えるよね(←皮肉だけどね。念のため)。まったく、どこかの会社のセールスマンであればトップセールスマンになれて、しがない私大の大学教授どころではない給料がもらえたのだろうに、大学教授にしておくのがもったいない。

ただし、森教授の論文の内容がどうであろうと、また「ゲーム脳」と言う単語があろうとなかろうと、子を持つ親としての実感から言えば、「ゲーム漬け」が、子供に良いはずはない。それは感じる。そして、今回の寝屋川の小学校内殺人事件と、ゲームを結びつけることは、なにも森教授や「ゲーム脳」という単語にご登場いただかなくても、前記の「殺人学」の範疇で、ちゃんと科学的な根拠を示して、できることだ。

安易なマスコミの受け売り的な安易な理解と報道だけでは不足、ということだ。

情報化時代、ぼくたちは、「ある単語を知ること」「理解していること」を混同していることって、あるのではないかな?

そしてこの「単語でわかったつもりになる大人」と、「ゲームで条件反射する子供」って、どこか似てないか?

「なにも自分で考えない」という一点において。

投稿者 nori-m : 09:55 | コメント (0) | トラックバック

ロボットの話

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この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。

「ロボット」という単語を最初に使ったのはチェコの作家、カレル・チャペックだ。彼はなんでも人間の仕事を機械にさせる、という風潮を批判して、1920年当時「R・U・R」という戯曲を書いた。その中に最初のロボットが登場した。チェコ語で「robotnik(強制労働者)」「robota(強制労働)」などの言葉の最初の部分をとったもの、という。robotaという単語は、ドイツ語の「Arbeit(アルバイト)」と同じだそうだ。

 まだ技術が今ほど発達していなかったその時代、「考える機械」コンピュータや、考える機械どうしを結ぶ「データ通信」がどんなに重要なものなのか、ということはあまり意識されていなかったのは当然としても、ロボットが想像の世界で登場したそのときから、既に「ロボットの人間への反乱」というシチュエーションがついてまわっていた、ということは、非常に興味深いことじゃないだろうか?

 人間の世界に信頼され必要とされ、深く入り込み、そして十分に人間社会に不可欠な存在となったそのとき、反乱を起こし、気がついたときには、人間社会が破壊されている。

 え?なにかに似ているって? まさか、インターネットとか言うもののことじゃないよね?


投稿者 nori-m : 09:06 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月15日

あらためてblogの意味とは?

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この記事の直前の記事、そして数々のコメントで、私と「貞子ちゃんの連れ連れ日記」のあいだで起こったことがなんであったか、ということは、十分におわかりになったかと思います。いっとき、この「貞子ちゃん」から離れて、Blogというメディアの意味、インターネットの意味など、私がここ20年、これらの技術にかかわってきたこととからめて、お話をしておきたい、と、思います。

もともと、インターネットはblogを行うためにできたようなものでした。つまり、個人間の相互のつながりをつくっていくメディアとして誕生しました。個人の持つ「モラル」を、国と国さえ越えるもの、として扱って、それを大切にしてきたのです。言い換えれば紳士と淑女の集まりであった、と言えるでしょう。

もちろん、その後、インターネットが普及するにつれて大衆化がはじまりました。Windwos95が発売され、それが広まった1995年末に、この動きは大きなものとなった、と言えます。そして、大衆化した以上、猥雑なものや悪いものもまた増えてきました。紳士と淑女ばかりではなくなりました。また、インターネットは「サイバー空間であって、普通の社会とは違う」とうよく言いますが、このときを境に大衆化したインターネットは、実社会と密につながるものとなりました。私の感触としては、「サイバー空間」といって、ネットを実社会とは別物と見る、ということ自身が、既に古い考え方だ、と、だいぶ前から感じています。

そして、2003年くらいからblogのブームが始まりました。ちょっとだけでも自分の文章を誰かに見てほしい、という人は、こぞってblogを始めました。blogの相互リンクとしてのトラックバックは、面白い機構でしたが、要するに、ある一定以上の技術を持った人間しかできなかったホームページ作成というものを、なにも技術のない個人のものとした、というところに、blogというものの本質があるように思います。そのため、他のページへのリンクとか、リンクをしてもらう機構とか、掲示板とか、手軽に自分の意見や画像を載せられる、という、今まではホームページでやっていたことの本質を気軽に体験できるようになりました。

こういった「技術の大衆化」は、今まで個人には高嶺の花だった技術を、個人のもとに引きずりおろしました。ネットの持つ最大の強みである「双方向性」が、blogによって大衆化されました。だからこそ、個人の持つ倫理とかエチケット、常識といったものがたいへんに重要な役割を持つ。それを試されている、というのが、ネットの持つ性質の1つにあるんだと思います。

投稿者 nori-m : 21:15 | コメント (2) | トラックバック

2005年02月14日

「貞子ちゃん」「貞ちゃん」に消されたトラックバック

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「貞子ちゃんの連れ連れ日記」にこれまでしたすべてのトラックバックを消されてしまいました。ぼくは、「貞子ちゃん」「貞ちゃん」の書いているものに、反論をしたのですね。SPAMをしたとか言うのであればともかく、まともな反論をしたつもりだったのだけれど、突然予告もなく消されました。

blogの機能としてはもちろんこういう機能はあるのだけれど、自分の気に食わない意見を消すためじゃなくて、本当は要らない広告をコメントに入れてくるSPAMの消去とか、そういう場合に使うものですよね。少なくとも、ぼくはそういうつもりでいたのだけれど、「貞ちゃん」「貞子ちゃん」は、この機能を別の目的で使ったみたいです。

おまけに「貞子ちゃん」「貞ちゃん」は、「今後は当分トラックバックをご遠慮ください」と、私の掲示板に書きました。なぜでしょうか?SPAMなどの、とんでもないアホを私がやったわけではなく、私は私のことばで「貞子ちゃん」「貞ちゃん」に反論をしただけだったのに、私にはとても意外な反応でした。自分はこういうことはしない、と、自分で自分を戒めているからです。ネット上の自由な議論、というものは、そういうものでなければいけない、と、思っているからです。

だから、「貞子ちゃん」「貞ちゃん」が「今後は私にトラックバックしないでください」という、メッセージを私のblogの掲示板に残して行かれましたけれど、それもまた、残しておくことにしました。私にとっては不快ですけれど、これもまた、残しておくべきと思ったからです。

おそらく、私の書いたことに「カチン」ときて、「貞子ちゃん」「貞ちゃん」は一定以上の不快感を感じて、思わず感情的にそうしたのでしょう。人を不快にさせるのは私の本意ではありませんが、気持ちよくさせるだけでは、やはり真実というものが見えてこないものである以上、本当は「不快な意見」もまた、意見として残しておいて欲しかったです。私がそうしているように。意外と、「貞子ちゃん」「貞ちゃん」は人間的なキャパシティが小さい人なんでしょうか?もしかして?いや、そういうことはないと思いますけれど。

まさか、ネット上の「貞ちゃん」「貞ちゃん」は、女性でも主婦でもなく、日本の個人投資家を煽っていく役目を持って、「バカでちょっとインテリな地方の一主婦」を演じて、投資家を騙しているのかな?という疑いも出てきます。まさか、とは思うのですが、メールアドレスも公開せず、コメントも拒否し、トラックバックも自分の意に沿わなければ消してしまう、というこのやり方を見れば、その疑いも拭いきれません。いや、そういうことはないとは思います。私はだまされても、人はだましたくない。貞ちゃんもまた、そういう人であってほしいです。

20数年前からインターネットというものを仕事にしてきた私は、すくなくとも、そういうことがあってはいけない、自分が不快と思えるものも受け入れていこう、という前向きな意志を持って、こういう仕組みの普及を考えました。それが、世の中から戦争をなくす道の1つじゃないか、と思ったからです。それがITの一技術者として真実に至る道ではないか、と、思ったからです。

「検閲」は「事実を事実として伝えない」わけですから、きっとライブドアの堀江氏もまた、「そんなマスコミであってはいけない」と言っていることからすると、「貞子ちゃん」「貞ちゃん」のしたことは、彼が絶賛する堀江氏の考えとは正反対のことをしている、ということでよいのでしょうか?まさか、そんなことはないと私は断言しましょう。

どんなことばを使っていようと、「貞子ちゃん」「貞ちゃん」のしたことは、「自分の気に食わないやつはくるな」ということですよね。それは、貞ちゃんが一番いやがっていた、他人の意見に耳を貸さず、自分の言いたいことだけ主張する、という「日本的なムラ社会」そのものを彷彿とさせる行為です。少なくとも、私にはそう見えます。貞ちゃんがいちばんいやがっていた、団塊の世代の人たちがよくやっていることです。

そして、「貞子ちゃん」「貞ちゃん」「貞子ちゃんの連れ連れ日記」をキーワードにして今後Googleを使う人は、私のblogにもまた、その名前があることを見て、みんなこの記事を読むようになるのですよ?そして、ネットって、そういうものなんですよね。そこまで考えていないみたいですけれど。「貞子ちゃん」は。

ここのトラックバックはいつでもできるようにあけてあります。コメントも、自分のメールアドレスやホームページのURLを隠して投稿することもできます。悪意のある人はやり放題でしょう。本当に根拠のない悪意しかない意見は即座に消しますけれど、ちゃんと理を尽くした意見であれば、私はそれをここに残し、私もまたそれにコメントするでしょう。反論があればしますし、時間のある限り、議論を尽くしたい。内容がごもっとも、という内容で、私が謝らなければならない場面があれば、私も謝るでしょう。

そして、自分が気に食わないからという理由で、善意を装って、他人のまともなコメントやトラックバックを消すことは、やはり戒めようと思います。少なくとも、それが本当に「善意から」であったとしても、それを偽善と取られないようには気をつけることでしょう。

「貞ちゃん」「貞子ちゃん」がどういう考えであれ、それが私にとってのネットであり、blogです。私の意見が伝わればそれでよし、伝わらないときは、それまで、ということもまたあるでしょうね。でも、理解しあう努力は続けていかなければなりません。そのためのネットであり、そのためのblogであり、そのための「人と人とのコミュニケーション」なのです。

「人の振り見て我が振り直せ」と、ぼくはよく親に言われていました。いま、その実例を、この年齢になって、このようなかたちで、あらためて目の前に見ようとは、思っても見ませんでした。わたしも、気をつけようと、思いを新たにしています。

投稿者 nori-m : 22:27 | コメント (3) | トラックバック

洗脳

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オウムといえば江川さん。その江川さんの堀江氏へのインタビュー。でも、どう考えても将来にわたってあのライブドアがメディアになれる、あるいは、メディアとして大衆に認知される、ってことはまずないんじゃないだろうか?いや、たとえあったとしても、さらに大手のyahooでさえ、この程度だし、Googleはニュースを初めても、しょせん「あのGoogleがニュースをやった」という程度のこと。であれば、堀江氏の本当のねらいは、

株価

しかないよね。やっぱり。

前から、取材網をきっちり持っていて、普通の新聞社のように、ネット時代の足かせとなる輪転機と販売網を持っていない新聞社ってどこだかわかりますか?共同通信社(厳密に言えば新聞社じゃないけれど)なんだよね。彼は古びたメディアの日本テレビなんか狙うんじゃなくて、ここを狙えばよかったのかも。

何年も前から、「共同通信社は早くネット新聞社に転換したほうがいいんじゃないの?」とは、ぼくは勝手に言っていたのですけれども、なかなか図体も大きいから、簡単に転換は図れないよね。そこを狙えば面白かったかも。

ところで、お金だけで世の中を見ている人、テレビだけで世間が見えちゃってる、と思っている人には見えないだろうと思うけれど、米国HP社のフィオリーナおばさんがCEOを辞任した、ってことがあったよね。今回はどうやら違う騒ぎのようだが、根底には、HP社の創業者一族との葛藤が尾を引いていたことは、誰でも知っている。儲かればそれでいいんだ、という資本主義の権化として君臨したフィオリーナ氏は、自分で儲からないお荷物部署(PCの部署だね)を1つ作ったとたん、自らの論理で自らが刺されてしまったわけだな。お金と組織をいくら繰ることができても、株主や、社員、役員との信頼関係がないからだね。

また、小糸製作所の騒ぎも覚えているだろう。株主になったからといって、役員や社員が全員株主のほうを向くとは限らない。言うことを聞くとは限らないんだな。だから、小糸の大株主は、何度も役員と摩擦を起こし、役員は社員と団結して、結局は株主を追い出してしまったよね。あの騒ぎは面白かったよ。つまり、カネは出せ、口は出すな、ということを地で行った。

資本主義の原点には「人はみんなお金の言うことを聞くものだ」という、大原則がある。たしかに、戦争のように、暴力で人の言うことを聞かせる、というよりはよっぽどいいことかも知れない。でも、それでも「いやだはいやだ」になると、もう人間というものは抑えがきかない。それが、自分とその周りの世の中が破滅に向かう道だろうと、なんだろうと、いくらお金を積まれても「いやだはいやだ」なんですね。

いま、おそらく、彼を気に食わない、と思う人は、わずかのお金を積んだだけで、堀江氏に本物の刺客を差し向けることだってできる。でもそれをしない、ということは、要するに、彼もその程度のもの、ということをわかっているからだよね。リクルート事件で何人もの人たちが「謎の自殺」を遂げたことを思えば、この程度はどうでも良いことと思われている。だから、彼は狙われない。いまでも、暴力で人に言うことを聞かせる、ということは、やはり裏を見ればあったりする。

あとね、お金を握っている人が、必ずしもその事業の全体をわかっているわけじゃない、ってことも大きいな。人と組織あっての事業であり、事業収益。そして、それをもとに金融があり、株なんてものもあるわけだけれど、事業の中身がわからない人がどうやって納得してお金を出すのかな?

かつて、投資の判断をちゃんとするだけの調査の時間があった時代では、今はない。ということは、専門家でさえ調査がちゃんとできないうちに投資の判断を迫られる。だから、投資は投資ではなく、そのすべてが「ギャンブル」になってしまう。それが今という時代の資本主義のありようなんだろうな。つまり、資本主義のもととなる、目に見えない「原則」とか「まっとうな投資指標」みたいなものが、実は投資家全体から見えなくなっている。それが今なんだよ。ついでに言えば、だから証券会社の人はその事業についての勉強をしないほうがいい。事業をわかっていると、危ないところやリスクもわかってしまうから、正直なことを投資家に話さなければならなくなる。当然、前向きの良い話ばかり聞きたい投資家を騙すには、それを勧めるほうだって、知っているよりは知らないほうが勧めやすいんだよね。「ぼくも騙されちゃうから、あなたのだまされましょーね!」って言いつつ、やがて減る一方のお金をふんだくるためには、自分も騙さなきゃいけないもんなんですな。証券屋さん、ってのはね。だから、証券屋さんは自分で事業のことなんか知らないほうがいい、って思ってるの。

いま、ぼくはまさに投資の只中にあるバイオベンチャーの仕事をしているけれど、そこでも特にこのことを感じる。投資する側はその指標として「特許の数」なんてものしか見ない。でも実際に問題なのはその「特許の中身」であり「その特許にもとずいた事業の収益性」でなければならない。でも、そこまで「読める」人はまずいないんだな。どこにもね。でも、投資は行われる。株価は上場によって上がるけれども、事業本体の収益は一向にあがらない、なんて場合も多い。いや、そのほうが圧倒的に多い。そうならないために、ぼくたちは努力しているのだけれども。

いや、あの最盛期のシリコンバレーでさえ、投資した事業の成功率は3/1000と言われていたんだから、ベンチャーの事業への投資なんて、まさに率の悪いギャンブルそのものだろう。

堀江氏がいくら吼えようとも、また、「経営戦略云々」と言ったところで、ほとんどの人は「ああ、またか」と、彼の「株価吊り上げ」のアドバルーンとしか、この事態を見ていない。熱くなってないんだよね。

前の球団買収のとき。あのときはちょうど参議院選挙前だった、ってことを思い出してほしい。そのとき、共同通信社の一記者がライブドアに浴びせた「冷や水」が、株価にどう影響すると考えたのか?そして、裏で、上がったライブドアの株を使って、誰が何をしていたのか?この業界で長くいればいるほど、その裏になにかあったんじゃないか、ってことを考えなかったやつはまずいないだろう。物事には表と裏ってものがあるんだよね。

球団の次はマスコミですか。次は宝塚かヨシモトの大株主にでもなるんじゃないの?みたいに思われてるライブドアは、要するに、業界の「イロモノ」という感じをぬぐいきれない、と思っている人は多いんじゃないかな?だから、彼には品というものが感じられないんだよね。品のない経営者は、その出自がどうであろうと、リクルートの江副みたいな追い出され方をするものだよ。日本では。

別に、伝統的なマスコミの人たち全部がいいとはぼくは言わないけれども、堀江じゃ、ねぇ、という感じもまた、あるのは事実なんだよね。というかね、彼はそういう役どころなんだよね。

投稿者 nori-m : 19:33 | コメント (5) | トラックバック

2005年02月12日

神は人が創った

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バイオの仕事をしていると、米国などのキリスト教ファンダメンタリストたちの多い土地で、「人間を作るとは神をも恐れぬ所業だ」みたいな宗教的メッセージをよく聞く。

より柔らかな言い方では「人間の尊厳」とか言うわけだが、これまでの歴史で、再生もできないこの人間というものを、十字軍このかた、その数も数えられないくらい大量に殺してきて、いまさら「生の尊厳が云々」なんて、チャンチャラおかしい。人間を再生させる技術を得るほうが、まだナンボかマシだろ?。

人間は誰が創ったか?それは「神が創った」という。しかし、神は誰が創ったか?それは人間が心の中に創ったものじゃないか。であれば、神もまたその時代とともに解釈やかたち、人間がそれをどう見るか、ということも変わってきた。そういうものだ。

神のいない宗教と言われる仏教でさえ、「生」の解釈「死」の解釈は、時代とともに移ろい行くものだった。

いま、バイオの世界では、やがて人間の臓器の一部はできそうな気配だ。皮膚や腎臓の開発はもっとも近い距離にある、と言われている。そういうものができたとき、また宗教も変わっていかざるを得ないだろう。人間の尊厳というものもまた、変わっていくだろう。

人間にはしてはならないことがある、という。しかし、人間の歴史はその「してはならないこと」を、ひとつひとつ、その意志を持って、できることに変えてきた歴史ではなかったか?

空を飛ぶこと然り、宇宙に行くこと然り、自分の気に食わないやつを大量に殺すこと然り。そして、その都度、神の解釈とか「生とはなにか」とか、宗教とは何か、ってことは人間によって勝手に作り直され、バージョンアップされてきたわけだよね。

世に普遍なものはなく、変化していくものばかりだ。考え方も変われば、人も変わっていく。もし、科学の力が人を作ることができるところまで到達したとき、神はどのように変わるだろうか?

ぼくには、そういう世界が来る、ということよりも、そういう世界になったとき、人がどのように自らを変えていくのか?あるいは、変えていかざるを得ないのか、ということに興味がある。そこのことを想像すると面白くて、わくわくする。

そろそろ、世にある宗教も、神も、賞味期限が切れかかっているから、Updateコマンドでバージョンアップしたらどうかい?いや、そんなに簡単なものじゃない、ってことはわかってるんだけど、さ。

投稿者 nori-m : 21:20 | コメント (2) | トラックバック

2005年02月11日

ライブドア騒ぎふたたび?

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やりかたが巧妙になったのかな?これは警戒する必要があるよ。

昨年の10月あたり、共同通信の「署名で書く記者のニュース日記」で、ライブドアの堀江社長のことを「いかがわしい」と、ある意味素直に表現した記者の方が、大変なバッシングを受け、とんでもないアクセス数になった、という騒ぎがあった。ライブドアが球団の買収を発表した前後でもあり、同社の内部犯行説も取りざたされたが、真偽のほどはいまだにわからない。

楽天でもライブドアでも似たようなものだけれど、要するに従来の日本のお金の回り方とは違うやりかたで巨額のお金があつまり、古い価値観から見れば、一歩間違えればただの詐欺師になってしまうような「ビジネス」がもてはやされるようになったことだけはたしかなことだね。この夢のない時代、閉塞した時代に、ライブドアっていうのは、一攫千金だけが自分の夢と思い込んでいる田舎育ちの教養もへったくれもない「その他大勢」には、やっぱりヒーローみたいに見えるんだろうなぁ。それはそれで「夢」ではあるんだけれどね。凡人なら誰でも持つ類のさ。

あの会社は球団の買収、テレビ局の株の取得など、さまざまな「話題」をふりまきながら株価を吊り上げていくけれども、その投資に対する収益の問題は、事実として保留みたいにされて「これから考える」ようなやりかたが、古い日本の産業の価値観とは相容れないのは、仕方のないことだろう。

資本の集中と、投資の集中が、貧困な層をより貧困にしていく、という「貧富の格差」を生む、ってことは、「貞ちゃんのblog」とやりとりをしたとおりだ。日本をああいう国にしてはいけない。

しかし、その米国型に変化する日本の象徴とも言えるようなライブドアという会社について、同じ貞ちゃんは手放しでの誉めようなのだね。これはなんとしたことだろう?

ネットがしてきたこと、これからするだろうことは、要するに「ヒーロー」なんてものを作らないことだ。巨大マスコミが、ではなく、一般の人が「カリスマ」を地にひきずりおろし、バッシングを加え、「特別なもの」を否定する。それが、資本の集中を防ぎ、みんなが暮らしやすい社会を作る。庶民が普通に暮らしていける世の中を作る、ってことは、要するにお金にしてもなんにしても、集中を否定する、って本質をとことん追及すること、という面もあると思うよ。

一方では資本の極端な集中の結果ともいえる戦争を否定し、また一方で資本の集中に危険信号を出さず、手のひらを返したように賛美する。あるいはそれに気がつかない。そういうノーテンキなこの「貞ちゃん」は、新しい時代の資本の集中のさせ方について、危惧するものがカケラほどもないのだろう。警戒心というものが全く感じられない。

それから、「電通」。あそこは共同通信が大株主のところですね。共同通信社と大きなつながりがあるところだって、知ってましたか?

一番恐いのは、「貞ちゃん」のような「普通の人が普通に生きられることがすばらしい」って、考える人が、資本の集中を結果として煽っていること。その一部に、本人も無意識に加担しているんじゃないか?ってことだよ。いや、「貞ちゃん」が計画的にやっている、とは思いませんけれど。。。。。ね。

投稿者 nori-m : 18:34 | コメント (10) | トラックバック

2005年02月10日

Webデザイナー諸君!

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あのさ、Webデザイナーって「デザイナー」じゃないんだよね。単なる未組織低賃金労働者なんですな。

若いってことは、ある意味、体力に任せてなんでもできる、ってこと。でも、できるからといって、安易にやっちゃいけない。食えるからって、そのことだけを喜んでちゃいけない。

自分が世界のどこでどういうことをしていて、世界の中でどの分野のどのくらいのところにいるのか?ってことを、常に考えていなよ。自分の価値はどれくらいか、ってことを常に考えて、転職も必要であれば、ちゃんとしたほうがいいよ。

クリエイターってことばもあるよな。でも、若いときは「君もクリエイター!」とか持ち上あげられてさ、安い賃金で徹夜の連続。挙句の果ては、トシがいったら「ポイ」される。そういうことって多いんじゃないかね?

今の世の中って、簡単に言えば若い人間を使い捨てにする世の中なんだよ。若い人間からいかにその若さをぎゅー、って搾り取ってさ、いかに簡単に使い捨てにするか、ってことばかりを、資本家は考えてるわけ。

だから、そんな世界でいい気になってちゃだめだよ。「前向き」とか言う単語で、「勉強してお金もらえるなんて幸せ!」なんて言わせておいてさ、うまくだましてるだけなんだから。 まずそれに気がつけ。話はそれからだよ。

投稿者 nori-m : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月09日

北京とIT

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前の記事に続いて、思い出話を続ける。1995年ごろ、ぼくはある仕事で北京に行った。まだインターネットがそれほど普及していなかったころのことだ。Windows95の発売時期の前だったと記憶しているから、当然、1995年の12月以前の話だ。


日本のさる新聞社と、北京政府のあいだで、直接ファイルのやりとりをする必要があったのだが、どうしてもオフラインではやりたくない、という。でも、ネットの環境はまだなく、しかたなく、モデムを通常の電話回線につなげて、東京と北京を結んだ。

そのときの北京側のトップはその頃すでに政府を定年退職していた肖向前氏だ。中日友好協会の中国側の副会長であり、日本に「教科書問題」を最初に仕掛けた張本人である。戦前、早稲田大学に留学していただけあり、大変な日本通であり、当然のことだが、中国共産党の本当に初期のエリートだ。周恩来の直下にいた人、ということだった。もちろん日本語が大変にうまい。北京飯店の「五人囃子」という日本食の居酒屋の一角で、ごく地味にこちらの他のメンバーの人間とともに簡単な酒席をご一緒した。

食事が終わると、みな酔いがかなりまわってきていたから、その「日本の雰囲気」に、思わず、このまま外に出たら、山手線のキップを買って、自宅まで帰れるんじゃないか?という錯覚さえ起きたくらいだ。でも、外には肖向前氏を迎えるベンツと、何人かのSPが待っていた。

彼はそのベンツの前で握手を交わしながら、こう私たちに言った。「これからは間違いなくコンピュータの時代です。私たちも、がんばります。あなたもがんばってください」。まだWindows95が出る前のあの時期、あの世代の人たちでさえ、政府要人ともなれば、これだけの見識がある中国という国を、正直なところ、うらやましく思った。

そのころ、日本の政治家はなにをしていたか?ましてや戦前から戦後を通して生き抜いてきた狸親父どもでさえ、あの時代、コンピュータやデータ通信をこれからのキーとなるもの、とは見ていなかったんじゃないだろうか?

中国という国の「強さ」。日本という国の「弱さ」は、その頃から、ぼくの目には明白だった、と言えば、言い過ぎだろうか?いや、現実はそうだった。

そう。その頃、ぼくはそういったものを見て暮らしていた。

投稿者 nori-m : 18:31 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月08日

団塊の世代の左がかった人たちよ、よく聞けよ

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久し振りに「話の特集」なんていう団塊の世代のご用達雑誌を読んだのは、大阪の書店に「40周年記念号」とかいって、山積みにされていたからだ。いや、厚さからいって「創」とかなんかかと思いました。で、その「感想文」を書きます。


一番びっくりしたのが、矢崎泰久の写真。昔とはうって変わって、どこかのアヤシイ牧師みたいな容貌になってますな。矢崎氏のナマ顔を拝見したのは、もう20年以上前、ぼくがちょうど20歳のとき、「革新自由連合」の参議院選挙のお手伝いをしたあたりだもんね。中山千夏とつるんで、よくあちこちに出没していた頃だね。ずいぶん昔の話だ。代々木ゼミナールの講師だった古藤氏はどうしているのかな?青山通りと表参道の交差点にあった材木屋さんの奈良ビルという小さなビルの中に、その選挙事務所があったね。ぼくは鈴木武樹という明治大学の先生にして、「クイズダービー」って言うクイズ番組の回答者の人の選挙を手伝っていたわけだが。

もう60は過ぎたんじゃないか?という、かつての「レモンちゃん」こと落合恵子は相変わらず「絵本」に自分の世界を持っていて、このワンパターンは安心できました。一番読んでいてよかったな、と思うのが俳優の富士真奈美さんの文章。自分のこと、正直に描いています。男が読んで、おとこが泣ける文章でもある、というところがこの人の貫禄だね。「私はこんなにあなたのことを考えているけれど、このくらいしかあなたのことを考えていないのよ」というその昔の男に対する距離感。それがとても正直なものだ、というところがよかったね。男ってなんて悲しい生き物なんだろう、って、思うね。女は強いわ。

ぼくは競馬なんかのギャンブルはやらないから、よくわからないところもあったけど、小沢昭一と矢崎泰久の競馬談義も悪くなかった。中山千夏は相変わらず安心感のある「女」論が気持ちいいね。永六輔もあの年齢でよく喋る。

子供のこと、学校教育について、小田実氏を中心とする方々がお話をしている。鎌田慧もいる。でも、なんか違う。ある意味、実業でもまれている部分を引退したおじーちゃんおばーちゃんの学校論議だね。おまけに、ところどころ、対談に参加する人の勉強不足のまま、話が進んでいるところがある。たとえば、「ゲーム」とか「殺人」とかのところ。あれは、積極的に「科学」として殺人を考えた結果として、今の状況があるんだが、それがあたかも「そうなってしまった」みたいな言い方。小田実はさすがにそこのところは把握していて、「もっとすさまじいですよ」と、さらっと言っているのに、他の参加者が気が付かない。

そういえば、一昨年、韓国に行った帰り、関空から西宮行きのリムジンバスに乗ったんだけど、バスにはほとんど人が乗っていなくて、乗っていたのはぼくと、小田実氏のご一行のみだった、というのを覚えてる。どっかで見たひとだなぁ、と思ったけど、小田実は西宮に住んでたんだっけ、と思い出して、その本人であったことを確認した。バスに備え付けのトイレに行く足取りがヨロヨロしていて、だいぶ年齢を感じさせた。もっとも、唐津一みたいな元気そうに見える文化人(?)ももうご老人で、会えばヨロヨロ歩いているもんなんですけれどね。

でも、団塊の世代の人たちはなんでも「あれはビル・ゲーツが悪い」とか言うように、自分が実際に行ったことのない、見えない世界を類型化して「わかったつもり」になる、という能力に長けているんだなぁ、と、この座談会を読んで思ったね。ビル・ゲーツに象徴されるようなもの、って、無いとは思わないけれど、それって、単純に理解しすぎだよ。たとえば、今の学校では企業の要請で「特徴のある子」が欲しいから、云々、というところなんか、バカかい、こいつら、と思ってしまう。学校とか役人とかって、あまり元気じゃないんだよね。みんな一生懸命になにかしている、と思ったら、大間違いなんだけどなぁ。

産業というものの只中にいれば簡単にわかることが、評論家面下げた小田氏以下のご一行には、よくわからないらしい。いや、それをわかれ、ってのは無理なことはよくわかるんだけれどね。同じ世代で、病気で体を壊しちゃったけど、バークレイ在住のお友達である室謙二(元新宿フォークゲリラの首謀者の1人 - 朝日パソコンにもかかわっていた)とかに、小田実はもっと話を聞いたほうがいいと思うよ。ここいらへんのことは、ね。

そういえば、室さん、最近お元気ですかね?このblog見ていたら、ご連絡とかコメントとかください。私はとても元気です。

日本の穏健派新左翼として一時代を築いた、小田実が率いる「ベ平連」。ぼくは年齢がひと世代ちがっていたから、その人たちの直接の仲間ではなかったけれど、そのつながりは、うすうすとあったね。だから、ここいらへんの人たちをよく覚えているし、ときどきは「触りに」行ったりもした。でも、ぼくと同じ世代では、こういう人たちを知っている人は、そんなにいなかったろう、と思う。

団塊の世代は、すでにいいジーサン、バーサンになりつつある。ITにはめっぽう弱い。IT業界なんか知るわけはない。「企業の要請」とか「政府の要請」を言うわりには、その言うほう、言われるほうのバイタリティの無さとかが見えてない。みんな自分と同じ元気な人だと思ってる。違うんだよなー、それ。

でも、彼らがもうすぐ消えてなくなるそのとき、戦争がまたはじまることだろう。戦争がどこかで身近だった時代の戦争ではなく、ハイテクを駆使した戦争。いや、すでにお金の分野とかバイオの分野では始まっていることなんだけれどね。

だから、団塊の世代の方々には、実はこの戦争は見えないんだよね。ほんものの戦争よりも多くの人がたたかい、多くの人が死ぬ、この戦争の実際を、さ。

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2005年02月07日

ゲームと殺人

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この記事は共同通信社CH-K・電網解説・「だからそれは、さ」に連動しています。

 Killology(殺人学)というものを提唱したグループがアメリカにある。要するに殺人について科学的なアプローチをしよう、という人たちだ。中心は軍隊で殺人を専門に研究していた人たちだ。

 研究結果によると、ベトナム戦争での兵士一人当たりの敵人員の殺傷数は、それ以前の戦争に比べて飛躍的に上がった、という。つまり、科学的洞察と研究のもと、その成果を応用したら、戦争での殺傷率が上がったのだ。

 その訓練とは、要するに「標的が目の前を横切ったら、反射的にそれに向かって引き金を引く」ということのみを徹底して体に覚えこませる訓練だ。つまり、人間として「考える」間を与えずに、引き金を引く訓練だ。

 彼らの研究によれば、人間が人間を殺すとき、殺す側の人間が殺そうとする相手を「見て」「考えて」しまう間があると、相手も自分と同じ人間-家族を持っているかもしれない、恋人がいるかも知れない人間-であることを考え、殺人が成功した後もそれがその人間の大きなトラウマになって残る、ということだ。たとえ殺人が戦争という場などで社会的に公認され、賛美される状況にあっても、だ。

 戦争における「科学的殺人方法」の研究成果を、ぼくたちはひょっとして知らないうちに無条件に受け入れて、殺人の訓練をさせられているのかも知れない。コンピュータとネットワークをベースにしたあの「ゲーム」によって。

 あなたも、戦争のゲームにはまっているのであれば、いつでも躊躇なく殺人ができる。そういう訓練ができているのではないかな?

投稿者 nori-m : 17:49 | コメント (0) | トラックバック

風景の風景

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ここ2日間、私のblogを入れているサーバが壊れてしまい、失礼をいたしました。順次、古いエントリーも復活していきます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

絵を描く、写真を撮る。風景が多い。風景ではなく、人物を撮るときも同様なことがあると思うけれど、風景のどこをどのように切り取って描くか、ということは、自分の中にある経験や肌で感じた知識を、総動員する作業なのだ。


きれいな花だから写真を撮る。きれいな景色だから写真を撮る。なぜそれを自分はきれいだと思うのか?ただ、きれいだから写真を撮る、というのは、簡単に言えば「表現者」のすることではないと、私は思う。

きれいだから撮る、というのは、表現されたものを見る、鑑賞者の立場なんだね。だから、鑑賞者は鑑賞者の位置から抜け出すことができない。そういう人の撮る写真は「きれいっぽい」のだけれど、どこか奥深さに欠ける。別の言い方をすれば、表現することに自分のすべてがかかっていないから、その重さが迫力となってこちらに迫ってこない。

アマチュアなのか、プロなのか、ということは抜きにして自分の作品や人の作品を見るとわかる。すばらしい写真には、迫力と奥深さがある。

写真を撮るには、カメラという道具が必要。カメラは、どちらかといえば高価な道具だ。そのために、気が付けば作品に集中しているのではなく、カメラに集中している、なんてことが多くあるよね。カメラそのものに集中するのであれば、それはそれで良いと思う。自分でその自覚があれば、ね。

でも、道具はあくまで道具。表現すること、作品を作ることを中心に考えるのであれば、持っていることそのものには全く意味がない。作品そのものに比べたら、道具の比重は低い。写真であれば、どういう作品が撮れるか、が重要なのであって、カメラはどうでもよい。道具として自分にあっていて、使いやすければ。

そしてね、風景って言うのも、実は奥深い。その風景をなぜ綺麗と思うか?心に残る風景と思うか?ってことは、その人がそれまでにどういう景色を、どういうシチュエーションで見てきたか、経験してきたか、ってことに多く依存している。景色は自分の周りにあるものだけれど、それを見る自分は自分のこころで見ている。最近流行の言い方をすれば「脳で見ている」。

多くの深い人生経験があり、喜怒哀楽の多い人生を持つ人は、より多くの人に共感できる風景を切り取って、表現する素質がある、といってよい。時代は若い人間ばかり持ち上げて、思慮の浅い若い人間からいかにお金をふんだくるか、ということばかりを考える時代だ。でも、この分野の写真や絵画は、そういう理由で若い人間が入れないところだ。

その素質が絵とか写真、文章という表現に出会ったとき、表現のトレーニングをする。ある人はせざるを得なくて、する。そこに、人を感動させる作品が生まれる。芸術の世界の扉が、そこに開かれる。ただきれいだから、ということではない芸術が生まれる。

ようこそ!ミューズが微笑む奥深い芸術の世界へ。

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2005年02月06日

いかがわしき「プラス思考」

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この文章は私が自分のWebに載せているものなんだけれども、今の世の中にあまりにバカなことが流行しているみたいなので、あらためてここに転載します。

して、そのお題は「プラス思考」「Positive Thinking」というもの。こんなものにだまされてはいけない。

「プラス思考」ではなく「正確な思考」

●「プラス思考」のいかがわしさ
十何年前から「プラス思考」とか「ポジティブ(あるいはPositive Thinking)」とか言うことばをあちこちで聞くようになった。新興宗教団体から、米国からわたってきたマルチ商法、などなど、これをキーワードにする人たちのいかがわしさとともに、このことばは私の心のどこかにひっかかるものがあった。いや、自分にも心当たりがあるだろ?ということじゃなくて、そのことばの裏に潜む「いかがわしさ」に、まずわたしなどは拒否反応を示してしまう、という感じがある。

●投資の場合
本来であれば、投資の判断は多大な資料を専門家が繰り、それをまとめて「成功率XX%でしょうね」というコトバを聞き、投資家はそのXX%が一定以上大きければ投資をする。以下なら投資はしない。なぜならば、一定以上の確率で成功する投資を多く続けていけば、よほどの天変地異でもない限り、絶対に損はしない、という線を引くことができるからだ。プロはそういうように、豊富な資料と豊富な人材と豊富なコンピュータ資源を繰り、かつ投資の回数は1回きりではない。論理的であり、科学的なのだ。

●素人の投資判断にはお金がかかっていない
たとえば、この会社に投資をしようか?やめようか?こういう判断があなたにあったとする。「プラス思考」は、こういうとき、必ず「Go」の判断を出すための「後押し」のキーワードとして使われる。それも、このコトバは判断に迷うあなたからではなく、投資をさせようとしている人の口から出る。もし、そのあなた自身からこのコトバが出るとしたら、それはあなたが「そうしたい」と思っているときだ。要するに、あなたの投資があればそれだけでOK、という人、投資にかかわる手数料が儲かればよい、という人がこのコトバを使うのだ。素人の場合は科学的な根拠を手にすることができない場所にいる。投資の判断に時間もお金もかけることができない。だから、専門家に「Go」を言われると弱いだけでなく、自分で迷ったときは、まさに「迷える子羊」になってしまう。

●「プラス思考」は貧者のおまじない
要するに、数字の根拠を持ち得ないから、あとは呪術に頼って、自分を納得させるしかない。「プラス思考」はその「おまじない」のことばなのである。複雑な理屈を繰る専門家を多数抱えたプロは、おいしそうな餌を仔細に調べてその餌が食べても大丈夫なものかどうかを判断できるけれども、私を含めた多くの貧乏人はそうはいかない。だから「理屈」に触ることなく、投資を成功させたいと考える。しかし、それは本当はできないことなのだ。仕方なく、私たちは「プラス思考」というおまじないのことばに、ついうっかり自分を託してしまう。

●プラス思考教
つまり、プラス思考ということばの多くは、お金がなく、また判断の力もない庶民のおまじないのことばなのだ。問題なのは、このことばができたことによって、このことばが一人歩きし、あらゆるところで使われることによって、それが、あたかも「万人が信じなければならないこと」のように思われていることだ。プラス思考を持たないビジネスマンはすでにビジネスマンではなく、プラス思考を持たない主婦は誰の妻としてもふさわしくない、というように。

●本当はプラスでもマイナスでもなく
では、私たちはどうしたらよいのだろう?簡単なことだ。
判断のできないことは、保留することだ。安易に「Go」をかけてはならない。時間を稼いだうえで調査研究をすることだ。かける時間のない判断は、100% の損失を覚悟して行うことだ。つまり、それは判断ではなく、率の非常に悪いギャンブル、ということだ。できれば手をつけないほうがいい。そしてなによりも「プラス思考」ということばに希望はない、と知ることだ。そのことばは、誰かがあなたに「Go」と言わせるために仕組んだ、巧妙な新興宗教の類だ。こんな安易なキーワードにあなたの人生を託すのは、ばかげている。

●ものを考えよう
「プラス思考」と言った時点で、人は悩んだり考えたり、ということをやめて、その辛く苦しい「調査研究」から逃げてしまう。結果は確率の非常に悪いギャンブルをやらざるをえないはめになる。どんなに辛くても、悩みを自分のものにし、調査や研究を怠らなければ、間違える判断というものは、そうそうないものだ。つまり、「プラス思考」というキーワードは、実は思考を止めて悩まず、言うことを聞け、という、詐欺師が人を騙すときに使うことばなのである。「プラス思考」というキーワードは賢者ではなく愚者を多く作るためのキーワードなのだ。もし、あなたが愚者の群れから抜け出たいのであれば「プラス思考」ということばを否定することから始める必要がある。

投稿者 nori-m : 17:39 | コメント (0) | トラックバック

500円玉偽造の裏

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500円玉偽造は原価がかかりすぎ、価格的に「あわない」ものなのではないか?ということを共同通信のblogで書いてある。では、逆に考えてみて、これが「あわない」犯罪だということを肯定すると、この犯罪の裏ではなにをしたいと考えている人がいるのだろうか?ということを考えてみる。

ひとつの可能性は、その犯罪が経済的利益を求めるのはなく、あくまで日本の社会の混乱だけを目標にしたもの、ということが考えられる。500円玉の偽造のつぎは、もちろん100円玉、10円玉、1円玉も偽造されるとしよう。その発行高が今の日本で正式に発行されているこれら貨幣と同じかそれ以上の額だったら、日本の経済はどうなるだろうか?

貨幣よりもお札のほうが偽造しやすいうえに、1つあたりの単価が高いから、当然のことだがお札にはかなり多くの「偽造対策」が施されている。これを突破するのは、並大抵の技術ではできない。お札は偽装のハードルが高いのだ。しかし、小額の硬貨であれば、偽造のハードルは比較的低い。なんとなれば、現在ある貨幣そのものから型を取ることだって可能だ。その精密さだけが問題となる。

そこで、偽造する人間が、「儲け」という目的ではなく、日本という国の政府の信頼を落とすことなど、社会不安を起こすことを目的とした場合だったら、当然のことだがお札の偽造などよりも、貨幣の偽造のほうが、はるかに効果が上がる、と考えることができる。もちろん、これで国際間での株価などの操作もしている可能性もある。

ひょっとすると、500円硬貨のみならず、100円硬貨、10円硬貨以下の偽造硬貨が信じられないくらいの量でばらまかれていたとしたら、いったいどういうことになるだろうか?そして、500円硬貨の偽造は実はその氷山の一角でしかなかったとしたら。\n\n

今回のような犯罪を見ていると、貧富の差が激しくなり、下層の人たちは自暴自棄になり、自らの利益など省みもせず、ただただ社会を破壊するだけの犯罪に走る。そんな世の中が、実は近ずいているような気がしてならない。すべての人が自分の経済的優位を得るために日々の活動を行っている、という、みなが持つ価値観が同じで、ある意味、平和な世の中が、内部から崩れてくるような、そんな予感がしないでもない。言うなれば、これは敗者の反乱かもしれない。

では、それに対する対策はないのか?実はある。ニセ硬貨の出回る量を勘案して、正式な硬貨の発行量を、そのぶん実際には減らすのだ。どこからともなくあらわれる「ニセ硬貨」を、正式な硬貨として、闇に認定してしまえば、問題は解決する。って、おい、それ、解決か?いや、ある筋から聞いた話によれば、実際にドルなどはあまりに精密な偽造紙幣が多く、同じような対策をとっているということだ。\n\n

経済のパワーゲームに狂った人類に、混沌とした経済の混乱がじわじわとやってくる。今はまだ、たかだか500円のことかも知れないが、また、考えすぎ、と言われるかも知れないが、この出来事の象徴するものの奥深さ、暗さが、ぼくには薄気味悪い。

投稿者 nori-m : 17:37 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月05日

ネットの本音

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もう20年以上前になる。インターネットがこれほどまでになるさらに前のU.C.B.(University of California Berkeley)を、ぼくらは訪問した。そこは、今から考えれば、今のインターネットの元になる技術者を集めた、ぼくたちコンピュータ技術者のあこがれの場所だった。

UCBのバージョンのUNIXというOSはその頃、先進的なコンピュータ環境をリードする存在だった。そのOSには最初にネイティブなTCP/IPが組み込まれ、ネットワークというものがどういうものか、ということを、ぼくたちにほんとうによく教えてくれた。そしてなによりも、こういうものが世の中を変えて行くんだ!ということを感じさせる、とてもエキサイティングなものだった。

そのUCBでComputer Science学科の学科長だったM.K.Macrisik氏は、その当時は50代半ば。世界を反戦運動の渦に巻き込んだ学生運動の只中で闘士だった彼は、もちろん日本で言う「団塊の世代」だった。映画「いちご白書」そのままを、地で行った人たちの一人だ。ぼくの耳には、いまでも、その最後に流れるバフィ・セントメリーの張りのある歌声が聞こえる。

ぼくはその当時、米国と日本を行き来して、こんな人たちとたくさんお話をしてきた。NDAの関係もあるから、今でも話せないことはまだまだたくさんある。西海岸の左派ユダヤ人系の集まりにも、顔を出させていただいたことがある。彼らの誰もが非常に知的で社会的にも高いポジションにいた。みな「団塊の世代」であり、学生運動を体験していた。そういえば、米国の学生運動の理論的指導者と言われたマルクーゼの奥さんにも、そこで会った。

そして、この世代の多くの先端技術をつかんでいた米国人たちと話していて、思ったこと。それは、つまりこういうことだ。

一度学生運動で敗れた彼らは、きっと、考えたのだろう。どうしたら、本当に民主主義をベースとした社会主義をちゃんと実現できる社会が来るのか?マルクスの理論によれば、資本主義は行き着くところまで行けば破綻し、社会主義に向かわざるを得ない、とある。であれば、この資本主義を究極の「どうしようもない状態」まで、自然に、速いうちに持っていくことが、必要なのではないか?

コンピュータとネットワークの広がりが、もしもこの世界に広がれば、国境をなくすことができる。人と人との距離をなくすことができる。そして、なによりも資本主義崩壊までの時間を短縮する。つまり、インターネットとその技術は、人間社会に投じられた変化の促進剤としての「触媒」であり、見方を変えれば「麻薬」のような存在だ。それは資本主義が資本主義であるがゆえに、手にしたら離せないものとなった。そして資本主義の老化のスピードを究極まで速めている。

おそらく、彼らが考えたことはこういうことだったんじゃないだろうか?

アメリカの学生運動に敗れた団塊の世代が考えた、あたらしいネットでつながる世界はいま、実現しようとしている。資本主義の世の中だとはいうものの、その弊害が説かれ、アルビン・トフラーは「第三の波」で、資本主義というよりもむしろ社会主義に近い「NPO」というものを考え出した。米国を中心とする西欧社会では禁句となっている「Communism(社会主義)」という単語は慎重に避けられてはいるが、その著書の中で言われていることは、まさに社会主義そのものだ。

このblogを読んでいるあなただけに教えよう。これが、本当の「ネットの秘密」なのだ。ネットのルーツは、敗北した米国の学生運動にある。そして、誰がなんと言おうと、その静かなたくらみは、マクロ的には間違いなくその目的を達しつつある。おそらくは「blog」もまた、その有力な道具の1つなんだろう。

インターネット、そしてITは、実はそのルーツはこんなところにある。ぼくは、その時代と、中心になった人たちと直に触れて、こんなことを考えるに至った。いや、自分で書いていて、どことなく妄想っぽいことは認める。そしてまた、彼らが明確な意図をもっていなかったかもしれない、ということはもちろんある。

ただ、結果として資本主義は行き着くところまで、やはりITによって目にもとまらぬ速さで行ってしまった、という感じは誰でも持っていることだろう。それが意図されたことかどうか、ということとは別の話として、ね。

投稿者 nori-m : 17:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月04日

「産業」とはなにか

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調べてみたら、昨年10月からはじめたこのblogも、既に100記事を越えていました。いやぁ、書いたもんだよなぁ、というのが実感だけれど、写真だけのときもあったからね。

ところで、平原綾香の「ジュピター」の話が貞ちゃんのblogに書いてあって、そこに、ホルストの惑星についても書いてありましたね。富田勲のシンセサイザーの多重録音でできた「惑星」は、今聞いてもすばらしい。ぼくが大学生のときだったと思う。(何年前の話だ?)

あの頃、大学生のぼくがいた安アパートの2Fに、沖縄生まれの愉快で迷惑な男がいて、あの富田「惑星」の、重低音を使った冒頭部分のロケットの推進音のところを、何度もその部屋で大音響でかける。そのとき、わざわざスピーカーを床に下に向けて置いて。その階の下にいたやつに「お!地震か!」と言わせては喜んでいたのを思い出す。

さて、今回の話はちょっと大きな視点でながめた「産業」について、だ。「ジュピター」の意味が「自分よりも大きなものを目指す」ということであれば、こんな話題もいいのじゃないかな?

ぼくらは、事業とか「産業」とか言う。天然資源を使って、なにも価値がないところから「生み出す」という言い方だね。でも、本当にぼくらは「産み出して」いるんだろうか?本当は「無」から「有」なんて生まれるのか?はっきり言うが、人間自身が自分と同じ人間自身を一から合成さえできないくせをして、なんらかのものを「産む」なんてことができるはずはない。ぼくらは「産業」なんて言って胸を張って言っているその行為は、実は「生み出す」ことじゃない

「産業」。それは自然の生み出したものから、自分たちに必要なものだけを抽出しているだけだ。

よく、経済の観点から、云々、という話をよく聞くよね。でも、経済なんてなにほどのものだろう。よくかんがえればわかることだけれど、経済なんて人間の社会が安定しているときだけ有効なもの。天変地異も予測できなければ、普段の生活にも、そうそう簡単に役に立たない。ましてや、経済の中心とも言える、価値を生み出す「産業」さえ、実は産み出しているのではなく、あくまで自然からちょっとだけいただいている、という程度のものなのだ。

いま、バイオの世界では「投資」が盛んに行われている。ITよりも活発になる兆候さえある。でも、バイオって、自然が相手だから、実は投資の回収にエライ時間がかかるものなのだ。新薬が世に出るまでは平均で(平均で、ですよ)10年から15年かかる。IT投資とかだと、バブルの時代だと3か月で答えが出る、なんて言われたもんなんだが、そういう投資に慣れた投資家が10年も15年も我慢できますかね?普通はできないと思うよね。

いま、人間の社会に始まっていることは、実はこういうことだ。つまり、「投資」ということとか、あるいは「産業」ということ、つまり、そういう自然を基盤としたものの、大いなる崩壊なんだな。良い例が、石油だ。石油の埋蔵量世界一、ということで狙われたイラクでさえ、あと50年くらいしかもたない。つまり、「産業革命」という名前の「エネルギー革命」、別の言い方をすれば、「エネルギー資源なんてタダでジャブジャブ使えるもんなんだぜ!」という社会の、ぼくらが「成長」の基盤としてきたものの崩壊なんだな。

昔、マルクスは資本論で「資本家の考えていることはこういうことだ。つまり、我が亡き後に、洪水よ来たれ!、ということだ」と書いている。わかるかな?「産業」とか「資本」「投資」なんていう、人間の長い歴史のなかで、たかだかこの200年くらいにできた「成長」は、もうそろそろ終わりにちかずいているんだよ。

産業革命以後にできた経済学。その経済学者の言うことがあたらないわけだよね。\n\n

「貞ちゃん」、あなたとあなたの連れ合いの方、そしてその周辺の「経済」を生きている人たちは、実はまだまだ近視眼だと、ぼくは思う。そしてそれしかできなかったのだ、と思う。自然を相手に、蟷螂の斧と知りつつ、その斧を振り下ろす「自然科学」の世界に、ぼくは昨年から足を踏み入れたのだけれど、ここで見聞きしたことは、本当に衝撃だったよ。

人間なんて、なにほどのものか。

そのニヒリズムを深く深く、こころに刻んでこそ、ちまちました人間の世界を、本当にはじめて語れるのだと思うよ。

いくらがんばっても、人間は偉大ではなく、なにもできない。それが現実なんじゃないかな?そのなかで、せいぜいちまちました命の灯をともす。だからこそ、人間一人の存在が輝く。生きていること、愛すること、死ぬこと。みんなひとつに思える。

人どうしの関係でも、自分の存在なんてなにほどのものか、と思うようなこころの大きさを持つ人が、やはり尊敬に値するひとだったよね。人間自身が、実はそういう存在にならなければ、この時代を生きていくことは、実はできないんじゃないか?「ポジティブ・シンキング」とか「前向き」ということばに象徴される「傲慢」は自分の身を滅ぼすだけじゃないのかな?経済なんてなにほどのものか。やがて崩壊することはわかってる、柔な基盤の上に立っているものでしょ。今すぐにでもなくなってもおかしくないね。

静かに、確実に、見よう。ことを進めよう。結局、それだけが、ぼくらのできることなんだろうね。経済というものへの、人間の営みへのニヒリズム。それが本当に必要な世の中になったのじゃないのか?

方丈記だったかな。「死ぬときは死ぬのがいいんだ。それが一番の世渡りの方法だ」って、言ってたよね。まさしく、至言だとぼくは思うよ。いま、世界はそういうところまできている。そう、ぼくらは、自然のまま、死ぬときには死んでもいいものなんだな。

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2005年02月02日

Netで生きる

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この記事は共同通信・CH-K・電網解説・だからそれは、さに、連動しています。

 簡単に言えばインターネットの本来の役目と目的は「個人が持つマスコミ」なんだよね。人の主張とか提供する情報とかを見ながら、自分もまた意見や情報を「主張」する。他人の検閲なんてものは一切なしでね。

 だから、大きなマスコミが必要ないとは言わない。従来型のマスコミには違う使命があると思うのだけれども、少なくともジャーナリストと呼ばれる多くの職業情報屋の仕事のいくばくかは、インターネットにとって代わられたところがある。

 でも、それを成り立たせるベースになるものは、書く側の「表現力」だし、それを読む側の「理解力」なんだと思う。喋ることばを知らない人が、耳が不自由な人に、話し言葉で意志の伝達はできない。

 インターネットの時代、とは言うけれど、基本は昔とそう変わらない。「表現」と「理解」。インターネットの上で生きるってことは、この2つのトレーニングを不断に自分に課していく、ってことだよね。ネットのなかった時代以上に意識して行うことが必要だ。

 この簡単なことをわかっていないと、結局はどうでもいい内容のblogばかりがハードディスクのこやしになるとか、ネットの回線の無駄使いになる。

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