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2005年01月30日
ふたたび、大阪 - あるいは「なぜ技術者は控えめか?」

一昨年に続き、またしばらく、大阪のお仕事が大きなウェイトを占めそうです。この週末はその準備などで大阪に行っていましたが、いやぁ、そのあいだに、貞ちゃんのblogには、あれこれとたくさん記事が増えてまして、ちょっと、NDAじゃなくてDNAだよなぁ、とか、「二十らせん」じゃなくてきっと「二重らせん」だよなぁ、とか、いろいろありますが、それなりにたくさん書いてありまして、で、結局何が言いたいのか、というところがよくわかりませんが、楽しんで書いていることだけはよくわかります。実際、面白いです。
とか言いつつ、私も先日大阪ではDNAとかが関係したお仕事でNDA書いたりしてきたので、まぁ、それはどうでもよいのですが、やっぱりここからはまじめに書きましょうね。あ、それからいまどきのワカモノに「民青」とか言ってもよくわからないと思うのですが、そこは、わからない人はわからない、ということでいいのかな?
で、まじめに書きます。
ITの技術者、研究者として二十年以上やっている身からすると、今はすでにIT技術ってのは、社会的にも技術的にも充分広まったもの、安定したものになっています。だから、あまり斬新な進歩に対する投資があまり行われません。対して、新しい切り口として投資家が今目を向けているのはバイオですが、米国などの投資先進国では、すでにバイオのバブルははじけてしまっています。ITは、20年前には「珍しい」ものだったものが、今は当たり前になっていますね。だからこそ、コンピュータの専門家でもなければ通信の専門家でもない人が、簡単にblogなんてものを書けるようになったのです。
今や電車の中で携帯でメールしていない人はいない、というくらい普及してますよね。でも、この20年ちょっと、そしてその最初の頃に、ITの業界で(そしておそらくけっこうはじめのほうで)「コンピュータと通信はひとつになる」とか「インターネットの中心的アプリケーションはメールである」なんて、言ってた頃から、今日のこの広がりは見えていたようにも思います。なぜかというと、本当はこういうもの、必要無いものだからです。って、思うのですよね。
自分のやっていることは本当はたいしたことではないんだ、という研究者として、あるいは技術者として、どこかにある自分の存在とか自分のやっていることに対する「ニヒリズム(悲観主義)」が、自分の熱くなっている頭を常に冷やします。ときには、重大な局面で、それが自分を救うこともあります。つまり、一生懸命に育ててきた自分の「開発対象」に対して、一本槍で一途なやりかた、って、要するに回りを見ていない馬車馬のようなものですから、ちょっとしたつまずきで、すべてを失ってしまうんです。
その「安全装置」として、技術者とか研究者には「ニヒリズム」があるように思います。論理的な思考も、ただただ熱くなっているときは屁理屈の製造装置でしかない。実際の現象などのたしかなものに即した情報で構成された論理でないと、技術とか研究では意味をなさない。でも、人間って、すぐに我田引水して屁理屈をこねて、自分の思うとおりのことが起きている、と思いたがるところがある。そこに間違いが起こる、ってことを身にしみて知ってるからなんだよね。
だから、よく技術者とかは、自分のやっている仕事に対して控えめだ、とか、もっと主張すればいいのに、とか言われるわけです。たしかに、世の中を見渡せば、法律も倫理もなんのその、かってにやり放題な連中ばかりが目に映りますけれど、自分の生業ではそうもいかない。無愛想な顔でも、自分を律する厳しさがないと、結果が得られない。
ね?こういうメンタリティの面でも、技術者とか研究者は、結局は投資家とか会社とか、他のメンタリティや役目を持つ人たちに依存して生きていく必要があるし、そういう「パートナー」の良し悪しで、それがちゃんと世の中に出るかどうかが決まってしまう。世の中にちゃんと出ないとお金も儲からない(=つまり、世の中の役に立たない)から、開発なんてしている意味もなくなってしまう。
いま、日本のあちこちで「産学官協同プロジェクト」や、それに類するものをやっていて、そこでは「優れた技術者とか研究者に経営者になってもらう」ということを考えているようだけれど、それはうまくいかないと思う。やはり「優れた技術者や研究者に優れたパートナーを探す」ことが必要なんじゃないかな?と思うな。
日本には製造業を育ててきたすばらしい世界に冠たる歴史がある。その中心に技術者とか研究者がいた。でも、彼らを育てていく「まともなパートナー」が、ほとんどいない。だから、日本にいくら優れたものがあって、良い技術者や研究者がたくさんいても、結局はそこでうまくいかないことが多いと思うのです。
いま、日本で育てるべきは技術や技術者、研究や研究者だけじゃない。それを育てていくには何が必要か、どういう人がパートナーになればよいか、そのためには、どういうことをしていけばいいか、ということをまじめに考えることなんじゃないかな?日本の技術者や技術者のほとんどが、もともと持つその性質(たち)と立場、そして長引く不況から、悲観論の中に沈み、やがてその姿が見えなくなってしまうまでには、まだ時間があるよ。いまのうちだ、と、ぼくは思う。
投稿者 nori-m : 2005年01月30日 21:59