2004年12月30日
女優さんのおはなし

もともと、芸能ニュースなんかはあまり見ないのだけれども、CNNを見ていたら、こんな記事があったのが目にとまった。
ライザ・ミネリがベッドから落ちて入院とのこと。なんだが、向こうの人、かなり高さの高いベッドを使うのが普通だから、いや、こんなこともあるかな?とは思うよ。日本のベッドって、みんな低いんだよね。
それに、ライザ・ミネリが離婚していて、たくさん訴訟を抱えていた、なんてのも、なんだか彼女のこれまでの歴史を見てると、可哀想になってくる。
美人、というよりは個性派、という感じの女優、ジュディ・ガーランド(←さっきまで間違えて書いておりましたが、こちらが正しい、とご指摘を受けました)の一人娘に生まれ、映画「キャバレー」でデビュー。その後あまり見ないと思ったら、麻薬におぼれて、生死の境を彷徨って劇痩せ。それでも再起。結婚して幸せにしていたのかな、と思えば離婚して訴訟沙汰に。おまけにこんな感じだったとは、知らなかった。
まぁ、アメリカの女優さんって、昔から「個性派」という感じだよね。美しさ、みたいなのに定型がなくて、みんな「それぞれの魅力」を持っているよね。顔立ち1つにしても、よく見ているとこんなにバラエティーがあるのか、こんな目ばっかりおおきいオバケみたいなの、日本じゃ美人なんていわないぞ、と驚くくらい。日本の通り一遍の、若くてきれなだけの無個性女優とは大きな違いがあるよなぁ、と昔から思ってました。人間的な迫力みたいなものがまるで違う、というような、ね。
日本の女優さんでも、30年くらい前の日本映画に出ている人を見ると、「品」「緊張感」「母性」みたいなものがうまく高いところでそれぞれがバランスしている、という感じの人たちが多かったと思うよ。女として見て、というだけじゃなくて、人間として高いところを見て仕事をしていた、ということがよくわかる。
毎年、かわいくて若いだけの女優さんとか歌手とかがいっぱい出てくるけれど、ほとんど泡沫。つまり、出てきては消える人ばかりだよね。そして、それは、デビューする前からけっこうわかってたりする。
人の魅力、人の迫力。それは「成功」「不成功」という結果とか、知識とか見てくれの下に隠れていて、普段はあまり見えないし、見ないものだけれど、本当はなにもかも虚飾を剥ぎ取った「それ」が、その人の本質だろうと思うよ。そこがぼくには興味があるところなんだな。なぜって、人間はこの膨大な宇宙の時間と空間の中で一瞬、輝いて、そしていなくなる。そういう存在だから、いま、その人が輝いているかどうか、その人と自分に響きあうものがあるかどうか。相手が男でも女でも、それが本当に気になる。あなたもぼくもまた、同じちっぽけな存在である以上、それしかない、よね。
単にぼくらがテレビなんかのマスコミで一方的に見させられているだけの女優さん、男優さん。一方通行に見えるそのコミュニケーションは、実は一人の人間の中で双方向に輝きだす瞬間を作って、それが一方通行ではないものに変わって行くものだ。その人の人生を変えることもある、その「ひびきあうもの」があるから、ね。
いつも、こんなことを考えているからなんだろうけれど、ぼくは女の人の「化粧」があまり好きじゃないし、していてもしていなくても、あまり関係なくその人を見るクセがある。みんなが「あの人、きれいだよね」と言ってもぼくだけ「なんで?」と思ってしまうこと、多いのです。変わったヤツです。
投稿者 nori-m : 23:52 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月29日
エンジニア体質

この記事は共同通信・CH-K・電網解説・だからそれは、さに、連動しています。
エンジニアには彼女ができにくい。周囲を見回してほしい。仕事はできるのだけれど「どうも、巡り会う機会がなくってね」と婚期が遅れた正直者のエンジニアのおじさんが一人ぐらいいないだろうか。
エンジニアには上司や経営者とも、どうもうまくいかないやつが多い。「あいつは仕事はできるが、ガンコなところが、ちょっとねえ」と言われるやつが多い。「同じことを言うにも、もう少し相手のことを考えて言えるようにならないと……まあ、そこだけが彼の課題かな」などとも評される。
エンジニアに彼女ができにくく、付き合いベタであるのは、彼がウソをつけないからである。なにしろ、日々の主な相手は機械である。機械はウソをつかないし、つけない。誠実で、本音しか語らない。そういう相手と付き合っているからウソがつけない性格になったのか、ウソがつけないからそういう相手が好きなのか。まあ、どちらの説もうなずけるのが誠実なエンジニアの後ろ姿である。
エンジニアは誠実であるがゆえに「人間系」に弱い。なぜならば、人間は気持ちがよくなるちょっとしたウソをついてほしがる生き物だから。一般の人は「今日のネクタイ、いいセンスですね」とか「きゃぁすてき、ねぇねぇ、そのマフラーどこで買ったの?」などと言われると悪い気はしないものだが、エンジニアに対しては天地天命にかけてそう思わない限り、こういう軽口を叩いてはいけない。彼はウソが嫌いである。「いったいこのネクタイのどこがいいのか、ちゃんとデータを上げて説明してもらえませんか?」と突っ込まれるかもしれない。
エンジニアは後ろ向きとも取れる発言をしがちである。「だめだけど、がんばってなんとかしよう」とは言わない。「だめなもんは、だめじゃん」となる。正直である。「前向き」=「Positive Thinking」という言葉に胡散臭いものを感じるのならば、あなたも立派なエンジニア体質だ。
投稿者 nori-m : 23:57 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月24日
新宿のクリスマス

投稿者 nori-m : 00:04 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月21日
日本人のラテン音楽

今村夏海さんという15歳のアルパ奏者がCDデビューした。アルパというのはラテンの音楽で使われるハープのような楽器なのだが、これが難しい。なのに、6歳の頃からアルパを弾いていたという彼女は、その年齢を感じさせない素晴らしい音を聞かせてくれる。
「太陽の乙女たち」などという、テクニックが必要で、かつ複雑な構成のアルパの曲を難なく弾きこなす。それだけではなく、音1つ1つに、その年齢相応の若さと張りを感じさせるだけではなく、音そのものには、年齢不相応な「艶」さえ見せる。ほとんど未熟な音、不足な音を感じさせない。
もっとも、全体を通して聞くと、その音の初々しさゆえに、ある意味「悲しみ」の表現もまた重要な意味を持つ「ラテン」の音楽には、いまひとつ「明るすぎる」ところを聞かないわけにはいかないが、これを今の彼女に望むのは、やはり無理というものだろう。これはこれから彼女が経験するであろう年月だけがそれを解決する。
楽器を奏でる奏者はどんな分野でもそうだが、ピアノでさえ、「ポーン」と弾くその最初の1つの音だけで、その人の技量や経験さえも伝わるものだ。今村夏海のアルパは、その最初の一音の張り、艶、が1曲の全編に、はちきれんばかりにあふれている。
日本の音楽が失った「純粋な音楽の楽しみ」を聞きたいのであれば、今村夏海のアルパをいちどは聞いてみることをおすすめする。純粋なラテンの音楽でありながら、日本の環境に育った彼女の奏でるラテンは、どこかでラテン音楽についてまわる「泥臭さ」が、いくぶん抜けていて、ラテンを知らない人にも、最初から非常に聞きやすい音楽になっている。
ラテンの音楽を知らない人も、彼女のこのCDでラテンにはまることを保証する。もちろん、音楽はライブが一番いいのだけれど、ね。
しかし、ニューヨークでサルサをやっている「オルケスタ・デ・ラ・ルス」にしろ、今村夏海にしろ、日本人でなぜかあのマイナーな音を含んだラテンにはまる人が多い。そして、本場顔負けのラテンを聞かせてくれる音楽家が多い。なぜだろう?そういえば、うちの死んだ父親もラテンの音楽を、クラシックの曲を聴く合間に好んでよく聞いていたことを思い出す。